JRPGのシナリオについて~桝田省治さんのツイートをうけて~
<導入>
先日、桝田省治さんが、こんなツイートをしていた。
https://twitter.com/ShojiMasuda/status/1538456602985918464
桝田省治さんは「天外魔境II」「リンダキューブ」「俺の屍を越えてゆけ」などのRPGを製作されたクリエイターである。この発言は「シナリオ依存度の高いRPGは、公開されてしまうとその面白さが失われ、無料で見るものになってしまう」という点がポイントだと思うが、果たして本当にそうだろうか?
ワタシは常々、「JRPGの頂点はFINAL FANTASY XIV(以下FF14)だ」と言い続けている。
もちろん高難易度コンテンツ「極シリーズ」や「絶シリーズ」の配信、クリスタルコンフリクトというPvPコンテンツの配信もあるとはいえ、FF14の配信は、メインシナリオやアライアンスレイドなどの「シナリオ依存度の高いコンテンツ」のほうが主流である。
にもかかわらず、配信するYoutuberさん、Vtuberさんの数はどんどん増えているし、それによってコンテンツが先細っているとも到底思えない。そもそもMMORPGにおいて、販売から10年弱経っているのに「同時接続数、アカウント数、有効ユーザー数の最高値が「昨日の数字」である(※以前のPLLでの吉田直樹プロデューサー兼ディレクターの話)というのは「異常」なのだが、少なくとも桝田省治さんの言う「シナリオが公開されることによって無料で見るものに成り下がる」とは、到底合致しない状況である。
<先輩ヒカセンの楽しみ方>
ここに、このnoteを見ているヒカセン(※FF14のプレイヤーの総称のこと。「光の戦士」の略称である)と、そうではない人間の反応が真っ二つに分かれる単語がある。
ある程度遊んだヒカセンは、間違いなくこの単語に「ざわっ」としたものを感じるはずである。もちろん「?」ってなるヒカセンもいるとは思うが、ヒカセンであれば「?」はいずれ「ざわっ」に変わるであろう。
まあ、これが何を意味するかだが、その理由を察してる人間はいるかもしれないが、「重大なネタバレを含むから」である。教皇庁では「何かが起こる」が「その内容は決して口外はしない」という、誰に課したわけでもない強い約束があるのだ。
もちろんそれを破ってネタバラシをしてしまう人間もいるだろうが、そんなものはごくごく少数で、多数のヒカセンは「教皇庁で何が起こるのか」なんて口が裂けても言わない。
これは断言していいだろう。言わない。
何故かというと、言わないヒカセンの誰もが「感動を共有したいから」である。まあもうちょっと俗っぽい言い方をすれば「その顔が見たかったんだよなあ」をしたいから、ということだ。
FF14のシナリオは傑作中の傑作なので、同じように感情が揺さぶられる後輩ヒカセンを、先輩ヒカセンは見たいのである。これは決してネガティブなものではなく「感情を揺さぶられる後輩ヒカセンを見る」のは、もう「このゲームにおける楽しみ方」になっているのだ。
これはシナリオが陳腐であれば決して起こらない。
感動するシナリオで「自分が感動したところで感動する後輩プレイヤーを、先輩プレイヤーが離れたところから(口悪くいえばニヤニヤしながら)見る」というのは、配信文化が作り出した「新しい楽しみ方」であるといえるだろう。
<配信は誰が見るのか?>
おわかりであろうか。FF14のシナリオ配信を見ている多数は「それを消費したいフリーライダー」ではなく「既に体験を終え、新たに体験をしようとしてるユーザーをみたいコンテンツユーザー」なのである。
ワタシは趣味として「Vtuberさんの、FF14で最も盛り上がるシーンだけ見る」というめちゃくちゃ贅沢な消費のしかたをしている。なぜならそこで感動してしまうVtuberさんを、心の底からみたいからである。
コメントをして応援したいのでもないので別にライブである必要もないし、後からわんわんと泣くVtuberさんを見ながら「そうだよね…ワタシも泣いたもの…そう、その先にはもっと感動して泣くんだよなあ…そこまですすんでくれ…」って思いながら見てるし、なんなら口にだしてるときすらある。誰が聞いてるわけでもないのに。
<本当に良いシナリオは腐らずに共有される>
もし、シナリオが公開されることにより、シナリオが陳腐化し、シナリオの面白さが消化されるというのであれば、このようなことは絶対に起こらない。むしろ、配信によりシナリオの面白さが共有されないのであれば、それこそシナリオの面白さがその程度のものではないのか、とさえ思うのだ。
桝田省治さんの懸念は、リメイクであれば起こりうるものかもしれない。FF7Rなどは「ゲーム体験そのものを変更し、当時の思い出を世代を超えて共有させる」ことで配信文化と融合しているので、シナリオそのものの面白さによる感動の共有とはちょっと違うところにあると思うのだが、これはリメイクとしての宿命であるかもしれない。
きっと桝田省治さんの作品であれば、感動を共有するシナリオなど余裕でできるとワタシは思うのだが、こういう誤解のうえでそれを躊躇われているのであれば、それはもったいないなあ、と誤解を恐れずに言いたいところである。
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