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今日見た映画

『型破りな教室 Radical』

 舞台はメキシコ。犯罪や汚職が横行し、大人も子どもも無気力な地域の小学校。そこに補充要員としてやってきた一人の教師が、"型破り"な方法で、子どもたちを「知る」「考える」の世界に導きます。

 まず、前置きが長くないのがいいです。件の教師が割とすぐ出てきます。おおもう始まったのかと思いますが、もちろん出オチなんていうことはなく、ずっと引き込まれ、ずっと考えさせられます。

 考えたことは3つです。

 ひとつは、先進国とは呼ばれない国の中での「格差」は、日本のそれとはレベルが違うということです。「ヤングケアラー」なんて言葉がつくられるということは、それが「世に言う普通とは違う」状態であるということだと思います。日本では、未成年の子どもが、手伝いの域を超えて家族のお世話をするのは特別なことです。それがまったく特別なことではない国があるのです。しかもたぶん、知識が欠けているので本当のところはわかりませんが、けっこうたくさんあるのだと思います。
 ごみを拾って売る生活、アンダーグラウンドな社会に身を委ねるしかない状況。教師は小ぎれいな家に住み、車を持っています。歴然とした格差があって、人はみんな違うのだということを、心の底から認識せざるを得ない。日本にいて、こんなふうにnoteを書くパソコンを持っている身からしたら、想像もできません。

 ふたつ目は、知識の量とそれにアクセスする速さでは絶対にAIに勝てなくなった今、教育が子どもにできることは、可能な限り多くの「なんだこれは…!」体験をさせることと、人生で何か問題が立ち現れたときに、それらの体験を通して自分が感じた気持ちや考えたことを総動員して解決策を考える姿勢を育む、ということに尽きるのではないかということです。AIは、情報の海から最もそれらしき回答を持ってきますが、情報の海に漂っていないことは知りません。あらゆる人間のあらゆる体験をサーチすることはできません。ひとりの人間の体験(そのときの情動も含む)は、その人だけのものです。人間は、それらを自分の意志とひらめきで組み合わせることができます。広く浅く効くような処方箋ではなく、今目の前にいる人に対する、自分とその人との関係性なども包含した、n=1の解決策を考えられる可能性があります。その方が人を救うこともあるとわたしは信じています。

 3つ目は、親になったときに、自分の子どもの可能性を信じられるか、自分の子どもが自分を超えていくことがあるということが想像できるか、そしてそのことを受け入れられるかということです。
 娘の才能を思い知らされた父親が泣くシーンがありました。娘の才能を信じられなかった後悔か、子どもが自分を超えていこうとしていることに気づけなかった恥ずかしさか、あるいは、自分が抜け出せなかった境遇から、持って生まれた才能で飛び出していこうとする娘への嫉妬か。そのすべてか。とても心が苦しくなりました。親は大変です。親だっていち人間なのに。将来、子どもと対面したときに、このシーンを思い出すことがあるでしょうか。

 総じて、いい映画でした。立ち向かわなければならないことは多くありそうですが、教育の世界に身を投じてみたいと強く思いました。いつの日か。

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