【感情と向き合う】登園させるべきか否か、それが問題。
今日は、結構しんどい一日だった。小さな出来事からたくさんの気付きがあって、おなか一杯。まだ消化しきれてないのか、まだ落ち込み気味。
月曜日に保育園から「出血性結膜炎」の子供が出たと連絡が。病名が怖すぎる。子供のかかる病気っていちいち病名が怖い。
それはさておき、感染にビビっていると、昨日、保育園から帰ってきたぴかりに若干の目やに。来たか、来たのか。
とりあえず、以前、目やにがちょっと出たときに出してもらった目薬をさして様子を見る。
朝になってみてみると、目をこする様子もなく、落ち着いていた。
病院に連れていくか、登園させるか。かなり悩む。
病院の予約をしようと思ったら、朝8時で21人まち。なんてこった。
一方、症状ほぼ出てないし、この状態で病院に連れて行っても意味ないkもする。よし、今日は登園させるか。何かあったら保育園から連絡あるだろう。
この判断をしたらなんだか心がすっきり。よし、この判断であってたんだな、と思ったのもつかの間。
ぴかりを保育園に預けた後もなんだかもやもやが残る。うーん、これは内観しないとまずいな。と思い、感情に目を向けてみたら、まあ、大変。次から次にわいてきて、涙が止まらない。出てきたものをひとつ受け止めてもすっきりせず、次が浮かんでくる。
最初は、「この判断が間違ってたらどうするんだよ」という自分攻め。ぴかりが感染してたとすると、症状が保育園にいる間に症状が進んでしまうかもしれないし、他の子に移してしまうかもしれないじゃないか。
その次は、罪悪感。
その次は、「登園させたのは自分のためなんじゃない、母親たるもの子供を最優先にすべきでしょ」という自分攻め。最後に行きついたこれが一番きつかった。自分の都合で登園させていたという自分攻めはかなり応えるし、母たるもの子供を最優先にして自分は犠牲にすべしなんて古いと思ってたけど、かなりべったりと自分に張り付けて苦しめていたんだな。
気持ちがズーンと重いままなかなか立ち上がれなかった。けど、「そのままの自分でOK!」とするしかない。目を背けたい自分の側面を認めるのが本当に私の課題だと改めて痛感。
それから、じゃあ、どういう判断をしたらこんなにもやもや抱えなかったんだろう。正しい選択って何だったんだろうとかんがえても、答えが出なくてまた頭を抱える。
・・・けど、そもそも「正しい選択って何だったんだ?」と考えることが意味ないなと思うに至った。
まず、同じ状況が今後やってくるとしても、その時の私もその時のぴかりも、今朝とは違う。同じ状況なんてない。だからその時の状況で判断したらいい。
そして、また、なんかもやもやを抱えてしまったら、また内観して自分が貼り付けている不要な価値観をはがしていけばいい。
何より、今日の私の判断も間違いじゃない。どでかいもやもやを抱える結果になったけど、おかげでかなりいろんなことに気が付いた。これに気が付くために、「登園させる」ことを私は選択したのだ。「正しい」も「間違っているもない」とよく言われるのはこういうことか。
ちなみに、今日、ぴかりはとってもきれいなオメメで無事に保育園から帰ってきた。心配する必要はなかったのだ。
さてここで。仮にぴかりが目をぼっこり晴らして帰ってきても「私は気づきを得るために登園させるという判断をしたのだ」なんてことを言えるのか。
わからない。まだそこまで、私の選択が現実を作ってると思い切れていない。
一方で、私が選択したことの結果が、きれいなオメメで帰ってきてくれたぴかりだ。それがすべてってことでいいじゃない。「もし」を考える必要はないような気がする。
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