人は必ず死ぬから。
唐突にインパクトある題名になってしまったな。でも重たい話ではないのでご安心を。
父方の祖父が言い遺したこと
わたしが26歳の時の冬、父方の祖父が死にました。入院したくない、とずっとわがままを言い続け自宅で治療を受けていました。癌だったのに。癌だったからかもしれません。「自分の家で死にたい」というのが祖父の願いだったようです。
祖父はすごくわたしを可愛がってくれました。
昨年からなんとなく祖父の存在が近く感じることが増え、そして父方の影響を受けているな、と思うことが増えました。
こんな写真を撮っておこう、と思ったのもそのせい。
(この前のお正月に。息子撮影)
昨年お墓参りへ行ったこの記事でも書いていますが
祖父は死際にわたしを枕元に呼んで「ゆうき、がんばれよ」って言い残して逝ったんです。
帰りの車で、両親や妹にその話をしたら「え?そんなこと言ってた?全然聞こえなかったよ」と言われたのも覚えています。本当にわたしに聞こえただけだったんだ。
受け取り方次第では呪いのようになるような言葉ですが、わたしにとってこの言葉はいつでもどんな時でも支えになりました。
全力でやれてるかな、がんばれてるかな。
おじいちゃんはわたしが頑張れると思ったから言い遺したんだよね。
何かあればおじいちゃんに話しかけるかのように天を見上げていたように思います。
祖父から教えてもらったこと
祖父が寿命を全うしてベッドに横たわっている姿を見て、強烈にわたしの中に刷り込まれたことがあります。
それが
人は必ず死ぬ
ということでした。
どんなに生きたいと願っても。
どんなにやり残したことがあっても。
どんなに愛おしい人がいても。
それでも人は死ぬんだ。
肉体はいなくなるんだ。
冷たくなっていく祖父を感じながら強烈にその思いが刷り込まれました。
手を握ったり、会話をしたり、昔話しを聞いたり、笑いあったり。
食べたり、旅行したり、買い物行ったり、抱きしめたり、体温を感じたり。
そんな当たり前と思っていたことができなくなっってしまった瞬間を知りました。
この瞬間から一切、絶対、できないんだ、って。
がんばれよ、から続けてきたこと
そんな体験からわたしがずっと続けてきたことがあります。
ひとつは悔いを残さないように生きること。これは20年以上経って「いのちを生きる」という言葉にできるようになりました。悔いを残さないというのは選択や決断ももちろんですが、毎日毎日の些細なことですら「自分を生きる」ということを積み上げていくということでもあります。食べたいものを食べる、なんて小さなことから、時間に追われていても子ども達に愛情を伝える、とか、眠くてもやるべきことはやるし、逆に体をいたわるために一切放棄して寝る、もそう。
今わたしが本当にしたい選択をして生きているか。そして延長線には本当の本当のわたしで生きているか。本当の本当に使いたいことでわたしのいのちを使っているか。
「より自分を生きる」というわたしの生き方そのものであり表現する全てもののコンセプトにもなっています。
もうひとつは勇氣を出して伝えること。伝えたいことが湧いてきた時、いろんな理由をうみだしてそれっぽい理由で伝えないこともできるけど、わたしは迷ったら「伝える」を選択するようにしています。
そして伝えることはわたしにとって「本当」と感じていること。
もちろんそれにはいっぱい練習も修行もしてきました。自分の中の違和感をそのままにしないこと、伝え方のスキルを学んだこともあるし(同時に在り方が反映されることも知った)本当のことと感じて伝えて相手を傷つけたこともあります。わたしも痛みをたくさん味わってきました。本当と思っていても違った、なんてこともたくさんあったし。
誰かの本当ではなくわたしの本当を見つけ認めることは勇氣がいるし、ましてやそれを誰かに伝えることは恐れも伴う。だけどそれもまた勇氣を振り絞って乗り越えてきたように思います。
だからわたしの名前は「ゆうき」なんだ、って、しみじみ思う(笑)
伝える、って生きているからできることだから。
伝い合えることや、わかり合えるまで話しができるって、肉体があるからできること。
痛みや苦しみを伴うこともあるし、自分のエゴが露出して恥ずかしい思いをすることだってあるけど、だとしても、とてもとても幸せで悦びにつながることだとわたしはいつも信じています。
おじいちゃんがいろんなことを伝えてくれているような氣がするけど、それが正解かどうかはわからないわけで。
だから肉体のあるうちに、めいっぱい味わっておきたいな、と思うのです。
自分へも誰かへも愛おしさをいっぱい感じながら幸せだったー!って死にたい、と思っています。