僕と宗教・・・その後(主に崇教真光と諸々の考察)
「僕と宗教」という重々しいタイトルの記事が安定して微妙にずっとご覧頂いているということで、嬉しいやら恥ずかしいやら、ありがとうございます。やっぱり信仰の話って色々と立場があるからやるべきじゃないと思うんだけど、「その後」どうなったんだってのをこの師走に書いておくべきなんじゃないかと。そして、多少ふざけるパートをください。。。
前回のあらすじを大雑把に記しておくと、僕は崇教真光の所謂3世信者ということになる。といっても祖父母はそこそこ熱心だったが、両親はまるで信仰してない。当然僕もほぼほぼ信仰心がないという格好だ。祖母が「霊線保持御礼」と呼ばれる要するに月賦だけ払ってくれていたのだが、認知症で車を運転できなくなった。という訳で、僕は中1以来十数年ぶりに「道場」へ足を運ぶようになったのである。
あれから約一年半、僕が道場に通うのは月一回から三回ほど。やっぱり「組み手」の人はみんな究極に優しい。車を持ってない僕に毎回出迎えてくれてお菓子くれて、、、何か熱心にしている人は社会的に地位が高い人が多くて、その人の話を聞くと宗教的なことじゃなくても非常に心に響くものである。そんな風に接して頂けることに心から感謝すると同時になんか違うなぁって。(「違うなぁ」「違うくない!」というインパルスのコントが昔から好きでして、、、)
僕の勉強不足ということであれば、それまでなんだけど、僕の中でどうもしっくりこないのは、「手かざし」で病気が治るのは百歩譲っていいとして、何で「御み霊」をしなきゃならないんだってところ。事ある度に神様へお参りをして、落としたりなんかしたら本部に報告して数週間預けることになる。御み霊を掛けることで手かざしが出来て世界を救える。逆にいえば、そうしなきゃ世界を救えない訳で、神様はルールに厳しすぎやしないか。極端にいえば選民思想と言わないまでももっと寛容に神様は人々を救ってくださらないのかという気持ちを持ってしまうのである。
これは本当に自分勝手な自由研究なんだけど、崇教真光は世界真光文明教団と分裂して、またそこからいくつか分裂して、、、って状態なんですってね。「救い主様」岡田光玉氏没後から色々揉めて、裁判的には世界真光文明教団の方が優位だったんでしょ?なのに崇教真光の方がついていく人が多かったのが非常に謎である。。。それ以外にも大本とか世界救世教とか竹内文書とか色々影響を受けているんだそう。宗教は分裂の繰り返しですよね。宗教って世界平和の為にあると思っているんだけど、こうじゃ平和になりようがないよねってパラドックスを感じる。。。
Superflyさんが真光らしい。そう思うと歌詞も真光を感じる。Beautiful「世界で一つの輝く光になれ」うーむ。輝く月のように「見て、光るよ」あぁ。そもそも「タマシイレボリューション」って、、、モロやん!もちろん何の問題もないのですが、、、
宗教で病気が治るのは本当。真光でいえば、施光といっても大半はマッサージで一日一時間受けて、極力無農薬野菜中心の食事をとる。そりゃ健康にでもなるだろ。自己肯定感も高められる。なにより真光の活動を熱心にしているから健康になれるという自己暗示がしっかりあるんだから病気になりようがない。で、参政党との親和性もよく感じる。。。政治も宗教も「正しい」と信じてるかどうかだから結局同じと言っていいんじゃないかさえ最近は感じているんですよね。
いかに「真光の業」を受けたって手のケロイドは消えやしないし、ADHDも治らない。前は、治療薬を切らしてしまい、病院行くタイミングを逃して一週間薬なしで仕事したらみるみるミスが増えた。で、薬もらってからミス減った。ADHDって病状悪化すると服薬を忘れて病状が悪化するというジレンマを抱えているんだが、それはまた別の話。。。
、、、ということから要するに僕は信仰が出来ないんです。いや、僕は神様も天国も幽霊もなんなら手かざしも信じられる。ただ、世界に様々な宗教があって対立しあって歴史が繰り返されている。逆にいえば何千年と宗教戦争が起こっているが、どれか一つに統一されることもなければ人類が宗教で滅亡することもなかった訳だ。どれか一つの考えに固執するんじゃなくて、「宗教は全て正しいし、全て間違っている」と。なんだかんだ僕らがずっと生きてこられたのはそれくらい神様が寛容だからなんだと思うんですよね。人智を遥かに超えているんだからそれくらいの器はあるだろと考える訳です。
ありがたいことに現状、仕事とか人間関係には概ね納得出来ている。僕が新宗教に属していることはとても恥ずかしくて言えない。それは、単にドン引かれて終わっちゃうよなってことだけども、真面目に信仰してらっしゃる方に失礼だと思うのもある。月一回参拝を続けたって「違うなぁ」って毎回思っちゃうんだから楽しくないし、心から信仰している方に悪いんじゃないか。僕も申し訳なくて一応信仰してるフリで全てを受け入れて喋るし聞く。みんな優しくしてくれるが、別に誰も得してない時間。宗教って正式な退会は非常にハードルが高いから大体の人は自然消滅していくんだけど、僕はどうあるべきなんだろう。
ただ、こないだ教団の方から結構本質的な話を聞けた気がした。初めて総本山に参拝したのだ。立派な建物に諸外国からも沢山の信者。「教え主様」から「み光」を受けると次々と浮霊して泣き叫ぶ人々。凄まじい体験だなぁと感じると同時に「違うなぁ」と思ったけど、本質的なのはバスの中で幹部の人が仰っていたことだった。「あの人を良くしてあげたい。世界をよくしたい。って思って何にでも手かざしをするんだよ。すると変わってくるのは自分の心でしょう。そうしたら世界はよくなっているに決まっているじゃないですか。」実は宗教ってこれが本質で、結構そういう達観した人も多いんじゃないかと学んだんですね。
幸福の価値観って絶対的評価でしかないじゃないですか。今自分が苦しいなぁって人たくさんいると思います。でも相対的に見れば今ウクライナの人と比べりゃそりゃマシな人が大多数でしょう。でも、私以外私じゃないのは当たり前なんだからその人は絶対的に不幸なんです。その人が幸せになるのには、宗教が支えになることもありますよね。人を助けようという善意が続けば、自分も幸せに感じますよね。利他を続けば利己に還ってくるんだよなぁって気づきがあった。真にありがとうございました。
僕が宗教に時間を割いて、いくらか生活に制限がかかることを、面倒に嫌に感じてるうちは僕は「不幸」なんだろうが、せっかく頂いたこの命で、この立ち位置なんだから、居座ってもまだ学べることがあるかなぁと。それじゃ何もしていないだけじゃんって?じゃあ何が「正しい」んでしょう。全ては正しいし、全ては間違えている。何も分かりません。
「答えは風の中。風に吹かれている。」そんな心境でとりあえず今日一日を懸命に生きることにしようと今は考えています。