キラキラスピリチュアルは本当に光か?
キラキラスピリチュアルとかふわふわスピリチュアルという言葉がある。
魚座シーズンがやってきて、そんなトピックについて書いてみようかなと思った。
たしかにスピリチュアルはキラキラしている。
希望があって、未来が輝いて、自信がなかった自分が本当は素晴らしい存在だったと気がつくような感覚。
それはなぜかな?と考えてみる。
たぶん、スピリチュアルの多くの部分が目に見えないもので構成されているから。
見えないものは自分で自由にフィルターをかけられる。
どうせならと、見たくないことを見るのはやめて美しい光だけを見つめたくなる。
要は形を持って証明できるものではないから、自分が見たいように見ることができる。
「スピリチュアル」を扱う人たちに対しても、人それぞれが期待や希望のフィルターを通して見てしまうことがあるかもしれない。
見えないものを扱う人たちは、他人から見えないもののように扱われることがある。
それはネガティブな意味だけではなくて、過剰に評価されたり、できること以上に期待されたり、神格化されるということもある。
そういう空気を感じ、自分でセッションをするのが怖いとか、ビジネスを始めるのが不安だという人もいるかもしれない。
誰もが生きているだけでスピリチュアルである。
わたしにとってスピリチュアルは空気のように「普通」のものだ。
同じことをしているように見えても、その過程や次元によってその人たちのエネルギーは異なっている。
だから、外側だけ真似をしても同じエネルギーにはなれない。
今、キラキラスピリチュアルを満喫しているように見える人は、とことん闇を見つめ、その上で光を見つめることにしたのかもしれない。
闇を見ることを放棄して、光だけを見ているのではないのかもしれない。
それは外側からではわからない。見えない。
何を食べても大丈夫という波動で、お肉も、ジャンクフードも自由に食べている人がいる。
その人は一度極端に食について考え、食べ物の闇を見つめ、世界の何も信用できないという気持ちになったことがあるかもしれない。
一見すれば、無知から好き勝手に食べている人と全てを観察した上で好き勝手に食べている人では違いがない。
だから、上辺だけを見て判断ができない。
宇宙の真実は矛盾だらけだ。
人の数だけ真実が存在する。
見たくないものを無視し、闇から逃げるようにキラキラにすがっているわたしの真実と、闇をとことん見つめてその上でキラキラがたのしくて面白いと思っているわたしは違う世界に住んでいる。
どちらのわたしも経験できる。
どちらも許されている。
そういう大きい視野がスピリチュアルの一部だと思う。
「一見わからない」と書いたけれど、実はエネルギーを見ればその差を確認することができる。
「見えないもの」の範囲も人によって異なるのかもしれない。
明らかに見えているのに、見えないという人もいる。
その範囲は、全てを見るという覚悟によって広がるのかもしれない。
そこには闇も光も境目がなく、全てを含んでいる。
流れのままにわからないまま書いてみたけれど、ふわふわ、キラキラすることはたのしい。
魚座の夢を見る力。
ぼんやりとしたイメージはやわらかい。
わたし自身は、「ただホッとする」というメッセージにたくさん助けられてきた。
ただホッとする、それだけでいい。あなたは大丈夫。
自分でそのバランスをとっていればいい。
どちらかに偏ってしまう自分のことも許す。
「キラキラスピリチュアル」という言葉にドキッとするか、ホッとするか、たのしいのか、嫌な感じなのか、その自分自身の感覚を信じていればいい。