私の考えるコミュニティ論

今回は小難しいタイトルをつけてみたが、コミュニティって何だろう?と添付してある記事を読んで私の感じたことを言語化していこうと思う。

コミュニティの定義

コミュニティと聞くと、
〇〇コミュニティなど共通の目的を持った人が集まり、交流を通して仲を深めるものだと最初に思いつく。

もちろん共通の目的を持った人間が集うのだが、私はそれだけではないと思う。

というのも、日本人はどこかに所属していることを好む。

どこかに所属していることで自分へ満足するのかもしれないし、日本で生きていると、少なくともその所属を肩書きや学歴という形で評価される。

それなのであれば、人々はコミュニティにいわゆる「肩書き」を求めているのだろうか

私の考えでは答えはNOだ

経歴を気にする人はいてもそれを求めてくる人は少ないと思う

これはやはり、共通の目的を持ってコミュニティに参加する人が多いからだ。


「コミュニティ活性化」

これはすごく難しい課題であると感じる

私が考えるには、コミュニティという存在は通学や通勤のように、日々マストで行かなければならない場所ではない

個々の興味関心に沿って、コミュニティに所属するメンバー同士のより面白い化学反応が起こる、あるいは参加者自身のモチベーションやそのコミュニティの盛り上がり具合によっても、発言に控えめなメンバーでも気軽に参加できるかどうかは変化するだろう

もちろん、活性化されたコミュニティでは先述のような化学反応がより多く起こったり、メンバー同士の交流が盛んだったりする
そのようなコミュニティを維持することの果たせる役割や重要性も十分理解できる

JKの考えるコミュニティの定義

先ほども述べた通り、コミュニティの役割を私は理解していながらも、意見は反するがコミュニティに対する考えがある

コミュニティの定義
「化学反応を起こし、個々を形成する1つの要素」

私はこう考えた。どんなコミュニティに関しても新しい出会いがあり、新しい価値観/理念/プロジェクトがある。
同じ興味分野、あるいは全く違う分野でも、そこで出会った人/プロジェクト同士で化学反応が必ず起こっている。

もう一つの「個々を形成する1つの要素」についてだが、日本人は所属や肩書きにこだわるという話を出したように、日本人はすごく「今」の自分が置かれているポジション、周りから目に見える肩書という名の評価をすごく気にしている。

周りからどう思われようと、その所属、名を改め「コミュニティ」は所属しなくなった瞬間にその価値がなくなってしまう

つまりは、そんな名前だけのものに価値を感じる必要はなく心からやりたいこと、あるいは挑戦したいこと、働きたいポジションで全力投球して自己成長に繋げていけば良いのではないだろうか。

長くなってしまったが、コミュニティはあくまでもその人を表すことのできる「一つの要素」であると私は考える。
それは、コミュニティがメンバーである一人一人にとって本業でなく余裕のある時に活動を行う場所であるからだ。

そのコミュニティに所属することでその人を表す形容詞がひとつ、またひとつと増えていくと考えるとワクワクしませんか?

とはいえ偉そうに意見をつらつらと書いたものの、クジラのみんなで52Hzをただ盛り上げるのではなく、52Hz知ってるよ!入ってて羨ましいな!かっこいいね!そう言われるようなコミュニティをみんなで共創していきたいと思う。

私の大好きな「共創」で自己満ではあるが、自分のギブできることは全てコミュニティに還元して盛り上げていきたい、心からそう思う

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