1993年冬、北京―モスクワ国際列車 女二人の珍道中 時々行商人➉
1993年1月23日 4日目その3 「包帯あるか?」
男の推定年齢は二十代後半から三十代前半。ジーンズを履いて茶色のジャケットを着ている。顔立ちと体格、そして旅行者らしからぬ薄着の格好から察するに、ロシア人のようだ。そして奇妙なことに、脇腹を押さえ体をやや前かがみにして立っている。男は私の顔をまっすぐに見据えながら何かを言ったが、もちろん私には分からない。するとアンナが「包帯あるかって聞いてるよ」と通訳した。
そんなもの、持ち歩いているわけないだろう。私の知っている三つのロシア語のうちの一つ「ニエット(いいえ)」をなんとか繰り出した。よく見ると、男の脇腹あたりに血のようなシミが見えた。手も赤く染まっている。床に目をやると、そこにも血の跡が点々とついていた。周りに乗客が何人もいたが、誰も彼も遠巻きに見ているばかりで男に近づこうとしない。ただ、眺めているだけだ。
ここにはいない方がよさそうだと頭で理解するよりも先に、足が動き出した。急ぎ足でその場を立ち去り、部屋に滑り込んだ。心臓がバクバクした。
「さっきの人、何だったんだろう」
「何だったんだろうね。でも怖かったよね」
「うん、怖かった」
私たちのコンパートメントは来客が絶えない。ドゥオドゥオと顔なじみの中国人行商人たちがちょいちょい覗きに来ては、おしゃべりして去って行くからだ。わざわざ訪ねてくるというよりも、部屋の前を通るたびについでに立ち寄って、二言三言、挨拶がわりの言葉を交わす程度だが、お互いのコミュニケーションは頻繁だ。また一人やってきたのでさっき見たできごとを話すと、あー、あのロシア人なあと言いながら、にやりと笑ってこう続けた。
「あいつはなあ、強盗だよ。俺たちの仲間の一人を刃物で脅して金を盗ろうとしたんだ。だけど、そいつの腕っぷしが強かったもんだから、返り討ちに遭って刺されちゃったんだな」
は? 強盗? ちょ、お前、強盗のくせに乗客に厚かましくも「包帯あるか?」などと所望したのか! どの面下げてとはこのことだ。身の程をわきまえるがいい!
「たまには強盗も痛い目に遭った方がいいぞ。お前たちの友人にポーランド人の男二人連れがいるだろう。その隣室の中国人旅行客もすでに二度、しかもほんの2~3分の間に盗難に遭っているんだからな」
日本なら車内強盗がひとたび発生すれば、車掌さんを呼んで警察に通報して……となるはずだが、ここではどっちもあてにできない。乗客は自分の身を自分で守らなければならないし、下手をこいた強盗は警察に突き出される代わりに、今回みたいに乗客から痛い目に遭わされることもあるのだろう。でも、集まった乗客がよってたかって強盗をボコることもなかった。乗客と強盗の間で、「ここまでなら許容範囲だが、ここから先はダメ」みたいな暗黙の了解が、もしかしたらあるのかもしれない。知らんけど。
そして、とにもかくにも私たちがこれまで何事もなく過ごせたのは、私たちの車両では、私とアンナを除いた全乗客が、車内事情をよく知る中国人行商人だったからだろう。話を聞くに、盗難に遭った人たちはたいてい、外国人旅行者が多く乗っている車両の乗客だった。行商人のネットワークと自衛ノウハウによって、たまたま同じ車両に居合わせた私たちが一緒に守られているのは、もう疑いようもない。最初にドゥオドゥオたちの荷物の多さに顔をしかめた初日の私、ひれ伏して謝れ。部屋が狭くなったくらいで文句を垂れるな。そして何くれとなく面倒を見てくれるドゥオドゥオとアイジュン、そして中国人のおじさんたちに幸あれと神に祈りをささげるがいい。私たちが今無事なのは、まぎれもなく彼らのおかげだ。
(ここから先、食事中の方は注意)
さて、年越し水餃子と食堂車デビューでお腹が刺激されたようで、出るべきものがとうとう出口付近まで下りてきてしまった。幸いなことにこれまで便秘が続いていたし、いっそのことロシアに着くまで便秘のままでよかったのだが、今日という今日は、あの恐怖の便座に座らねばならないようだ。ガタンゴトンと揺れるトイレで中腰のまま大きい方を足せる自信も筋力も、こちとら持ち合わせていない。だから座る。腹をくくってどっしりと腰を下ろす。
意を決してトイレに向かう。どうかきれいに掃除されていますように! ……っしゃあ! 今日はピカピカじゃないか! 掃除の人、ありがとうありがとう本当にありがとう。今日はいったい何回、心のなかでありがとうを言っただろう。
そして私はやおらトイレットペーパーの袋を開けると、紙をくるくると手に巻き取り、疑り深く、往生際も悪く、便座を隅々まで念入りに拭き上げてから、恐る恐る腰を下ろしたのだった。
(つづく)
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