1993年冬、北京―モスクワ国際列車 女二人の珍道中 時々行商人⑧
1993年1月23日 4日目 「きれいさっぱり荷物を盗られちゃったんですよーははは」
昨夜はあのあと、もうお腹いっぱいだと言うのにやれ食えそれ食えとマグカップを押し付けられ、結局三度も器を空にした。一生分とは言わないが、半年分くらいの餃子は食べたようなやや過剰気味の満足感。とはいえ上げ膳据え膳の年越し餃子は、今思い出してもやっぱり至福の味だった。たとえコシがなさ過ぎてお湯に溶けかけたような皮だったとしても。
夜更かしばかりしているので、このままでは体内時計が狂ってしまいそうだと思ったが、モスクワの方が北京より5時間遅いのだから、むしろこのまま宵っ張りを続けて到着までに生活リズムを5時間遅らせれば、終着駅に着くころには時差が解消しているんじゃないだろうか。不摂生が功を奏するチャンス到来、ビバ夜更かし!
そんなわけで午前中が終わる直前まで寝ていた寝ぼけ眼の私に、アンナが言った。
「さっきグストーたちに聞いたんだけど、日本人男性が乗ってるってよ!」
え、そうなんだ! だったら呼ばれてないけど突撃、いやお訪ねしなきゃでしょ。
アンナと二人で連れ立っていくつかの車両を通り過ぎ、グストーから教えられたコンパートメントの扉をトントンと叩く。カギがカチャリと開く音がして、内カギをかけたままでも開くことのできる最大値である10センチほどの隙間が開き、いぶかしげな表情をした若い男性の顔半分が見えた。「こんにちは!」と声をかけると、「え? は? え?」とかなり驚いた様子である。
「ほかの乗客の人に日本人が乗っていると聞いて。お一人ですか?」
「はい! ちょっと待ってくださいね、今内カギを開けますから」
もう一度、今度はガチャンと音がして扉が開いた。
「あ、どうぞ中に入ってかけてください」
「ありがとうございます。お邪魔します」
吉岡さん(仮名)は卒業旅行中の大学四年生。だがひょろっとした小柄な体に童顔がくっついているので、高校生くらいにしか見えない。パッと見は内気そうな感じだが、私たちがベッドに座るなり、堰を切ったようにしゃべり始めた。
吉岡さんが言うには、列車の切符からモスクワでのホテルまですべて日本の旅行社で手配し、ホテルでの食費も含め代金は全部前払いしてきたので、モスクワでは一応何の心配もいらないそうだ。だが最後の「一応」に、吉岡さんはやけに力を込めた。
「一応、ですか?」
「はい。一応。実は僕、乗車初日にトイレに行った隙に、部屋に置いていた荷物をきれいさっぱり盗まれちゃったんですよーははは。もちろん部屋のカギはかけていたんですけどね」
なんですと!!!
「えっ!!! 全然大丈夫じゃなくないですか? お金は? パスポートは?」
海外旅行でパスポートをなくしたらその時点で旅は終わりだ。だが、吉岡さんからそんな焦りは見られない。だから大丈夫だってことは分かるのに、それでも聞かずにはいられなかった。吉岡さんは、お腹にしっかり抱えた小ぶりのリュックサックを撫でながらこう言った。
「盗難が多いって話は聞いていたから、どこに行くにも最低限の必需品を入れたこの小さいリュックだけは肌身離さず持っているようにしてたんです。しかもパスポートとお金はさらしを巻いてその中に突っ込んでいましたからね。ほら」
吉岡さんはペロッとセーターをめくると、白いさらしを巻いたお腹をチラ見せした。
「だから現金もトラベラーズチェックもパスポートも無事なんですが、ほかの、たとえば衣類とか洗面用具といったものはすべて、大きいバックパックごと盗まれちゃいました。そうしたらほかの部屋の外国人旅行者が心配して、『いったん乗客が留守にした部屋はすぐに狙われるから一人部屋は危ない。僕たちの部屋は四人部屋でベッドが空いているから移っておいで』と言ってくれたんです。だから車掌さんに言って部屋を変えてもらいました。そんなわけで今はドイツ人女性と中国人男性の同室ができ、ひとまず安心しています。」
「それは……大変でしたね……」
日本で手配したコンパートメントは一人用だったのか。旅行会社は車内の治安の悪さをちゃんと把握していなかったのだろうか。お金とパスポートが無事だったとはいえ、ほとんどの持ち物を盗まれてしまったのではさぞ不便だろう。
「はい。でも列車のなかではどのみちシャワーも浴びられませんし、幸い冬だから汗もそうかきませんから、そんなに困ってはいないですかね。モスクワに着いたらガイドさんが待っているので、まずは買い物に連れて行ってもらわないといけないですけど。ところで、お二人はどういった……?」
「私たちは中国に留学していて、彼女はポーランド人なんです。今回、彼女が里帰りするのに列車を使うというので、私もくっついてきたんです。一度この列車に乗ってみたくて」
「そうなんですね。……ところであの、日本人ですよね?」
……最初から日本語しか喋っていないのだが、彼の目には私はナニ人に見えていたのか。
(つづく)
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