裸はどうして不安なのか

最近、「裸とはなにか」について考え続けている。
もう半月以上考えているのに、答えはいっこうに出る気配がない。

裸について考えるようになったきっかけは、9月22日の秋分の日に入った銭湯だ。自宅からそこそこ近い場所に昔ながらの銭湯があることを知った私は、興味本位でそこへ行ってみたのである。

開放された入口の「ゆ」と書かれた暖簾をくぐると、正面には靴を入れるためのロッカーが設置されており、その左右に引き戸が1つずつある。左が女湯で、右が男湯のようだ。やや緊張しながらもスニーカーを脱いでロッカーへとしまい、左の引き戸をカラカラと開けた。すると、いきなり年配女性の裸が目に飛び込んできて、思わずギョッとする。てっきり受付のような空間があるものだと思っていたが、入り口から直で脱衣所だとは。

あれ、それじゃあ受け付けはどこで済ませれば……?と、あたりを見渡すと、右側に眼鏡をかけた白髪のおじさんが立っていた。どうやら彼が番台のようだ。自分の真横に人がいるとは思わず、これまたギョッとする。

ここで私は、ある違和感に気が付く。
女湯の脱衣所に男性がいるのだ。
(正確には番台は男湯と女湯のちょうど中央にあり、おじさんが左を向けば女湯の脱衣所が、右を向けば男湯の脱衣所が見渡せるようになっている)

脱衣所には3人の女性がいたが、誰もおじさんを気にする素振りは見せない。各々リラックスした様子で服を脱いだり着たり、下着姿で扇風機に当たったりしている。

内心「いやいやいや無理無理無理」と思いつつも、一度足を踏み入れてしまったお店で引き返すことができないタイプの私は、おじさんに恐る恐る「おいくらですか」と尋ねる。おじさんに言われた料金を支払い、脱衣所の奥へと進む。

せめて少しでも見られない位置に……と思ったが、残念ながら脱衣所は6畳ほどの狭さで、死角などはない。おじさんの視力がそこそこよかったら、脱衣所のさらに奥の洗い場や湯船も見渡せてしまいそうだ。「できればここから逃げたい」という心の声を押さえつけ、一番奥のロッカーにカバンを入れる。

帽子を取る。
マスクを外す。
靴下を脱ぐ。

無性におじさんが今どこを向いているのか気になったが、振り返ってはいけない気がする。おじさんは仕事であそこに立っているのだ。振り返ってこちらを見ていないか確認するという行為は、おじさんの仕事に対する冒涜だ。そう自分に言い聞かせつつも、全神経は背後へと集中してしまう。

郷に入っては郷に従えだ、と意を決し、半ばヤケクソで服を脱ぎ始める。早く、とにかくさっさとお湯に入ってしまおう。猛スピードで全ての衣服を脱ぎ去って、お風呂の引き戸を開ける。

一番の難所は潜り抜けたが、頭や体を洗っている最中も、なんだかソワソワして落ち着かない。湯船に入ってようやく人心地がついたが、お湯の温度が高すぎるせいか、3分ほどで茹でダコのようになってしまった。

熱い。がしかし、せっかく来たのにまだ上がるのはもったいない気がする。でも熱い。浴槽の縁や洗い場に座って休憩したいが、おじさんの存在が気になる。一度お風呂から上がって脱衣所で涼むなんてもってのほかだ。でも熱い。あつい。アツイ……。頭に血が上ってしまっているのか、だんだん思考がまとまらなくなってきた。

このままだと全裸でぶっ倒れ、一番恥ずかしい展開になりかねないと悟った私は、浴槽から上がることにした。濡れたタイルの床を滑らないよう注意しながら、精一杯の早足で脱衣所へ向かい、猛スピードで服を着る。せっかくの銭湯でまったくリラックスできなかったことに内心泣きそうになりながらも、「どうも~」とおじさんに笑顔を向け、爽やかにその場を後にした。

体温が下がる前に服を着てしまったものだから、全身から汗がどんどん噴き出してきてとても気持ち悪い。本当はお風呂上がりにバスタオルを体に巻いて扇風機の前に仁王立ちし、コーヒー牛乳をぐびっとキメたかった。リフレッシュしに行ったはずなのに、ただただ熱くて気まずいだけだった。悲しい。

家路についた私は、この切ない気持ちをどうにかして解消したかった。そして何を血迷ったか、パソコンを立ち上げ「銭湯 番台 女湯」と検索してみた。すると、私と同じ経験をした女性のブログがいくつかヒットした。皆一様に、番台に男性が立っていることに対する驚きや戸惑い、怒りといった感情を綴っている。

色々なブログを読み漁っているうちに、「彼女たちとは違う視点で、この胸のモヤモヤについて書いてみたい」という欲求がふつふつと湧き上がってきた。何を隠そう私は、昔から“ブロガー”という存在にコンプレックスを抱いている。上手くトレンドを織り込みながら毎日コツコツ身の回りのことについて文章を書くことができる、その才能が妬ましい。そんな私にない才能を持つ彼女らに、ちょっと対抗してみたくなったのだ。

そんなわけで私は、「裸とはなにか」について考えてみることにした。

何も私は、昔ながらの銭湯にはホスピタリティが足りてないとか、おじさんの無神経さを糾弾したいのではない。なぜおじさんの前ですっぽんぽんになることに自分が抵抗を感じるのか、その理由が知りたいのだ。もちろん「ヘンな目で見られるのがイヤ」とか、「見せられるような体じゃないんで……」とか、表面的な理由は色々ある。でも、そういった理由のさらに奥に、もっと生物としての根源的な“不安”のようなものを感じる。他の動物に比べて毛が極端に少ない人間は、衣服を着ることで心身ともに自分を防御しているのかもしれない。

ある日のお風呂上がり、ふと思う。「このまま服を着ずに過ごしてみようか」と。裸のまま洗面所に立ってスキンケアをし、歯を磨く。解放感があってなかなか良い感じだ。すると背後から突然「ガチャガチャ!」と音が鳴り、肩がビクッと跳ねる。アパートの隣人が帰宅し、ドアノブを触る音だったようだ。普段はこんなことで驚いたりしないのに、裸というものの無防備さが、神経を過敏にしているのだろうか。

「裸とはなにか」のヒントを得たような気がした私は、そのまま夫と共同で使っている仕事部屋へ行くことにした。椅子にタオルを敷いてパソコンに向かい、日課である夜のメールチェックをする。隣では夫が何やら真剣に作業をしていた。iMacのモニターを食い入るように見つめ、親の仇のようにキーボードをバシバシ叩いている(怒っているわけではなく、集中するとそうなってしまう夫の習性だ)。こちらには見向きもしない。もしかしたら夫は、私が部屋に入ってきたことにすら気付いていないのかもしれない。裸というある種異様な存在である私を全く意に介さないその様子に、不思議な心地よさを感じた。

何かが掴めそうだ。背後で鳴るガチャガチャ音に怯え、無関心な家族に安堵する……もう少し、もう少しで「裸とはなにか」がわかりそうだ。

しかし、ここで大きな問題が発生する。
裸は何しろ寒いのだ。
気付けばもう10月。薄手の長袖でも肌寒くなってくる季節だ。秋の冷気で文字通り頭が冷えた私は、「こんな馬鹿なことをしていると風邪をひいてしまう」と思い、服を着る。

こうして、「裸とはなにか」を掴む実験は失敗に終わった。

結局、「裸とはなにか」の答えは出ずじまいだ。しかし裸というものについてここまで考えたことは今まで一度もなかったので、その機会を与えてくれた銭湯には感謝を伝えたい。でももう行くことはないだろう。だって知らないおじさんに裸を見られるのが嫌だから。なぜ嫌なのか、その理由はまだわからない。

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