見出し画像

ベッドの下になにかいる

私が寝室の「妙な臭い」に気付いたのは、去年の梅雨時だ。悪臭、とまではいかないが、じめっとした不穏な臭いが、寝る前や朝起きた時など、不意に鼻をつくことがあった。その臭いは、四六時中しているわけではない。主に雨が降った日、ふとした瞬間にやってくる。臭いに鈍感な夫に聞いてみたら、「気のせいじゃない?」と言う。納得がいかず、洋服ダンス・押入れ・ベッドのマットレス、全て調べてみたが、臭いの発生源は見つからない。やっぱり気のせいなのか、そう思ったら気が楽になり、いつも通り熟睡してしまった。これが一年前の出来事である。まさか「あんなもの」が潜んでいるとは夢にも思わず、それから365日、私はその寝室でぐうぐう眠り続けた。

一年後、その日もやはり雨だった。お天気ニュースによると、梅雨明けは一週間後になるそうだ。降り続ける雨と低気圧による頭痛にウンザリしながらも寝室に掃除機をかけていると、ふとベッドのヘッドボードの裏に付いている白い粉のようなものが目に入った。ティッシュペーパーを一枚取り、ヘッドボードの裏に手を突っ込んで拭いてみる。白いと思っていた粉は、ほんのり青みがかかった緑色をしていた。見たことのない色に、嫌な予感がする。ティッシュに鼻を近づけ、嗅いでみる。すると、かすかだが一年前に嗅いだあの「妙な臭い」がしたのだ。嫌な予感から、心拍数が上がる。渾身の力で重いベッドを動かし、壁に沿うように配置していたヘッドボードの裏側を自分の方へ向ける。直後、目の前に広がった光景に、私はぞわっと鳥肌が立つのを感じた。木製のヘッドボードの裏側すべてが、青カビでびっしりと覆われていたのである。

嘘だ、こんな、え、なんで。

生まれて初めて目にする青カビの大群に、私の脳は一瞬思考することをやめてしまった。しかし、すぐに気をとり直し、考える。この状況をなんとかしなくては。

だって去年確認したとき、マットレスは無事だったのに。
いや待てよ、マットレス、の、その下は……?

マットレスを持ち上げてどかし、その下の底板を外してみる。嫌な予感は的中した。ベッドの土台となるフレームの内側にも、青カビがびっしり生えてしまっている。これを吸い込んだら、間違いなく肺がヤバい。本能レベルで恐怖を感じた私は、寝室を飛び出しふすまをピシャリと閉めた。別室でパソコンをいじっている夫を呼び、事の顛末を話す。臭いに鈍感なくせに綺麗好きな夫は話を聞くなり青ざめ、寝室へと向かう。が、一目見て全て悟ったのか、すぐにふすまをピシャリと閉める。

この一年間、私達夫婦は大量のカビと一緒に寝ていたわけか。家賃も払わず人の家で楽しく繁殖するなんて。絶対に許さない!カビに対して謎の憎しみが湧いてくる私。夫の方は割と冷静で、「青カビ 木材 除去」と検索窓に打ち込んでいた。ざっと調べてみたところ、青カビは【水ぶき→重曹水でふく→乾拭き→乾燥】という手順を踏んで抹消するのが一般的だそうだ。私はこの情報を目にしたとき、内心「勝った」とほくそ笑んだ。なぜなら、この家には憎き青カビどもを退治するグッズが全て揃っているからだ。

私は流し台の下の戸棚をガバっと開け、布がパンパンに入ったビニール袋を取り出す。こんな時のために、穴の開いた靴下や着なくなったシャツの端切れを大量にストックしておいたのだ。これらを総動員させれば、カビというカビをすべて綺麗に拭き取ってくれるに違いない。続いて、シンク周りの掃除用に買っておいた重曹パウダーも棚から取り出す。水と共に空きペットボトルに入れ、シャカシャカ振れば、重曹水の完成だ。この戦いが終わったらすぐに風呂に入れるよう半袖短パンに着替え、マスクを装着し、準備は万端。あとは青カビを一網打尽にするだけだ。マットレスや枕を安全なリビングに避難させ、寝室の前に仁王立ちする。固く閉ざされていたふすまをスパーンと開き、いざ勝負。

まずは水拭き。余り布に水分を含ませ、夫と手分けしてフレームの内側を拭いていく。ここで私は初めて、「なぜ水拭きでなければいけないのか」その理由を知る。拭いた瞬間、舞うのだ。奴らは。水拭きでも、そっと触れないと衝撃で舞い、空中のどこかに消えてしまう。危険すぎる。細心の注意を払いながら水拭きが完了。何しろフレームのほとんどにカビが生えていたため、すでに二人ともヘトヘトだ。心なしか気分も悪くなってきた。でも、ここで撤退するわけにはいかない。続いて、重曹水を付けた布で同じ場所を拭く。一見意味のない行動のようだが、今後カビが生えないように予防してくれる効果があるらしい。「二度と現れないでくれ」という願いを込めて、何度も何度もこする。とどめは乾燥だ。ここで夫が「外は雨で湿気が多いから、逆に寝室を閉め切って、エアコン付けっぱなしにしてた方が乾燥するんじゃない?」と妙案を思いついたので、その通りにしてみる。

ひとまずこれで必要な手順は全て済ませた。お互いの健闘ぶりを讃え、風呂に入り心も体もサッパリし、待つこと数時間。清潔な寝室を取り戻せただろうか。ドキドキしながら、ふすまを開けると……。

ものすごく、キノコの臭いがする。

それは住み家奪われかけたカビの最後の抵抗なのか、ものすごい臭いだった。今夜ここで寝るのは諦めざるを得ないほどの臭いだった。「もはやここはベッドルームではない、マッシュルームだ。」そう確信させる臭いだった……。

魔法のキノコ臭でトリップしかけた頭を振り、窓を開ける。やはりこの汚染された空気を外に出さないと駄目なようだ。サーキュレーターを寝室の中央に置き、風力マックス・360度回転の設定にする。ダメ押しに、殺菌効果の高いユーカリ―のルームスプレーも噴射しておいた。さらに待つこと数時間、「今度こそ……! 」と願いを込めて、ふすまを開ける。ユーカリの良い香りがほんのりと香る。キノコ臭は、きれいさっぱりなくなっている。終わった。戦いが終わったんだ!こうしてその日の夜、我々夫婦は無事に清潔な寝室でぐっすりと眠ることができた。しかし、外出自粛だのステイホームだのさんざん言われるこのご時世、まさか自宅に別の危険が潜んでいるとは夢にも思わなかった。灯台下暗しとはこのことだろうか。

カビの再入居を何としても阻止したかった私は、念には念を入れ、懐かしの「水とりぞうさん」(押し入れに入れると湿気を吸い取ってくれる謎のつぶつぶが入ったパック)をベッドの下とヘッドボードの裏に仕込んでおいた。

数日後、梅雨が開けた。青カビどもが大嫌いなお日さまが出てきた。ありがとう。お日さま。寝室を吹き抜ける爽やかな風。連日晴れ続きで、気分は最高だ。ふと、「水取りぞうさん」の様子が気になって取り出してみる。謎のつぶつぶはしっとりと湿り気を帯び、ケースの底にはわずかだが水が溜まっていた。これは紛れもなく、ぞうさんが部屋の湿気を吸い取った証拠だ。「いつでもそちらに引っ越す準備はできていますよフフフ」という青カビからのメッセージなのだろうか。その執念深さに、思わずゾッとした。

日本の夏は湿度が高い。
私と青カビとの戦いは、まだ終わっていない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?