太宰治を読む
東京藝術大学4年の夏、家を借りた。
自分を見つめ直したい。
又吉さんのYouTubeチャンネルで人間について談義する動画をチラと見て思った。
24年生きて僕はどれだけ人間について話すことができるのか。
気まぐれに自由帳やXでぼやき程度の思想や日記を書く事はあるが、これもまた続けてみると媒体の雰囲気に呑まれたような文章になってしまう事が多々ある。
だが、やめるのも違うのでさまざまな媒体で同じようなことをしてみてその違いを観察してみようと思いつきnoteに手を出してみる。
今年の夏は太宰治を読む。
全て読む勢いだが、怠慢な性格のため挫折するかもしれない。これもnoteにのっていた方の基準だが新潮文庫から出ている18の文庫を全てとし始めようと思う。
初めから例外だが、今は侏儒の言葉を読んでいる。
侏儒の言葉は必ずしも私の思想を伝えるものではない。ただわたしの思想の変化を時々窺わせるのに過ぎぬものである。一本の草よりもひとすじの蔓草、ーーしかもその蔓草は幾すじも蔓を伸ばしているかもしれない。
文庫をめくるとこのように書き出されている。
この書き出しは極めて曖昧これから出る言葉は何かを言い切るような事はなく本棚に直された一冊のノートの一端にあるような言葉という事を前提に始まる。その後に希望を全投して今は快だけに焦点を当てた書き出し
このように日常に希望を託すのは多くの人が共感し経験があるんじゃないか。僕の書く文も自分と繋がっていると思いたいんだ。