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「カンガルージャーキー」ep.16

***

 祐樹がいなくなってから、丸々三カ月が過ぎようとしていた。大学はもうすぐ春休みに突入する。
 学食では、新入生歓迎会の打合せをしている学生や、就職活動中の上級生がお互いの履歴書を見ながら何かを議論している。

「涼子ちゃん、お待たせ。」
 臨時補修を終えた真司くんが、息を切らしながら前の席に座った。
「おつかれ。どう、バイト調整できそう?」
 真司くんはそれには答えず、手に持ったスマホを見ると、すぐにまたポケットにしまった。
「彼女? まだ連絡来るの?」
「そうなんだよ。しつこくてさぁ。毎日のように連絡が来る。」
 真司くんは、かつてのニヤついた顔はどこに行ったのか、まるで苦い物を食べた時のような顔をした。
「ごめんね、私のせいで。」
「何でよ、全然。あっちが勝手に勘違いしただけだし。」
 例の彼女は、私を敵対視していた。もともと仲の良い女友達、というだけでなんとなく嫉妬されているのは感じていたが、真司くんの誕生日に部屋に訪れていた私と鉢合わせになり、遂に修羅場となってしまった。
 タイミングが悪かった。その一言でしかない。
 その日以来、前にもまして束縛がひどくなり、真司くんがついに耐えられなくなった。彼女に別れを切り出した所、納得できない彼女から連日復縁を迫る連絡が入る、というドラマで見るような展開になってしまった。
 そのきっかけを作ったのは私のせいだという事は明確で、どうしても申し訳なさが目立つ。

 祐樹がいなくなった日ー。
 それは本当に突然で、一気に戸惑いが押し寄せたのを覚えている。
 私と祐樹は朝までソファで過ごした。テレビでは、アナウンサーとタレントが息つく間もなく喋り倒すつまらない通販番組が流れていて、うとうと体は眠気を主張していたけれど、私は目を閉じることができなかった。今考えれば、それは祐樹の一言が引っかかっていたからかもしれない。
 「俺、逃げても良いのかな。」
それが何を示しているのか、私は聞くのが怖くて、それ以上何も聞けなかった。目を閉じてしまえば、祐樹はそのままどこかへ行ってしまう、そう無意識に感じていたのかもしれない。
 祐樹に会う前にスマホに届いていた真司くんからのメッセージは『祐樹がいなくなった』というものだった。朝、家に戻ると言った祐樹を見送り、部屋を片付け終わった後、私はそのメッセージを読んだ。
 すぐに電話をしたけれど、すでに手遅れだった。それは永遠と呼び出し音が鳴るだけで、応えてくれることはとうとう無かった。さらに三日後には、もはや呼び出し音さえならなくなってしまった。
 祐樹がいなくなって、私も真司くんも、どれだけ祐樹のことを知らなかったのかを思い知った。学校も派遣のバイト先も、当たり前に実家の連絡先を教えてくれなかったし、学校の同級生も誰も行方を知らなかった。パソコンのメールアドレスさえ知らず、部屋に残った祐樹の荷物を調べても、何の情報も出てこなかった。親の了解の上で休学届けが出ているために変に騒ぐこともできず、一体どこに連絡すれば良いのか検討がつかなかった。唯一繋がっているSNSにいくらメッセージを送っても、祐樹がログインしている気配は、毛頭なかった。
 消息が分からなくってから一カ月弱、初めてSNSを通して彼から連絡が入った時、私は甚だ脱力感に襲われた。『自分探し』なんて言葉を使ったあっけらかんとした一行のメッセージは、私たちの心配や戸惑いなんて祐樹には全く届いていないのだと証明しているようなものだった。
 それからと言うもの、私たちは祐樹にメッセージを送るのをやめた。祐樹なりの“拒否”の気持ちが、そのメッセージからはまざまざと伝わってきたからだ。

 それから二カ月。
 塾講師のバイトを終えて家の最寄り駅に着き、改札を出てすぐに、まるでタイミングを見計らったように電話が鳴った。画面に真司くんの名前が表示されると、私は何事だと急いで電話に出た。
 祐樹がいなくなってから、お互いになんとなく会話をする機会も減っていき、ましてや彼女の嫉妬心を避けるうちに、私たちはほとんど連絡を取っていなかった。そもそもその日が真司くんの誕生日だったなんて、私はすっかりと忘れていた。
「祐樹からまた連絡が来た! しかも今度はメール。今から来れる?」
 もしもし、を言い終わらぬうちに投げられたその質問に答えるよりも前に、私は既に背中を向けていた改札の方に振り返っていた。

 アパートに着くと、真司くんは急いで私をパソコンに導いた。
「俺さ、今日誕生日なんだ。そしたらあいつからメールが入ってたんだ、おめでとう、って。しかも写真も。」
 真司くんの誕生日を忘れていた罪悪感や、おめでとうという言葉よりも先に、私はパソコンのモニターを覗き込む。ポチッとメールをクリックして、添付された写真が開くまで、たかだか一秒もないくらいのはずなのに、それは随分と長く感じた。
 そこに写し出された写真から祐樹を認識するのに、私は、写真のデータが開くよりも長い時間を要した。写真には四人の男が写っていて、祐樹以外は全員西洋系の顔をしていた。
 みんなで肩を組み、祐樹は一番右で、空いた左手の親指を立てて笑っていた。後ろの棚には、いくつものお酒が並んでいる。バーかどこかで撮ったのだろう。
 久しぶりに見る祐樹は随分大人びて見えた。日に焼けた肌、伸びた髪、無精髭……。それは祐樹自身ではなく、彼の兄弟と言っても納得してしまう程だ。
 確かに祐樹だ。けれど、私たちが半年前まで共に過ごしていた人間とはまるで別人が、歯をむき出しにして笑っていた。
『誕生日おめでとう。俺はこの通り、元気です!』
 本文にはたった一行しか書かれていなかった。
「誰よ、これ。ったく……何なの?」
 全身に力が入っていたのだと気づくほどに、膝から力が抜ける。もう可笑しくて笑ってしまった。
「俺も同じこと思った。もうさ、こいつには呆れたよ。気ぃ使ってこっちは連絡しないようにしてたのにさ……今度はお前から連絡してくんのかよ、って。なんだよ、この自由人は。」
 真司くんは苦笑いをしながら、これでやっとあいつのアドレスだけは分かったけど、と付け足した。
 改めてもう一度写真を見る。一体、この三カ月弱の間に、祐樹はどこで何をして、そして何を思って過ごしたのだろう。祐樹と話したい。私にはその権利は残されているのだろうか。
ふと、真司くんが声のトーンを落とす。
「あ、待って。」
そう言うと、真司くんはカチッカチッ、と祐樹の顔ではなく、一番左の西洋系の顔をした一人の男性の顔をアップした。
「なに、知ってる人?」
「違う、この人じゃなくて、ココ。」
写真の左端を指差す。そこには、茶髪の後頭部が写っていた。
「この人がどうかしたの?」
「……これ、サトシだ。」
真司くんはさらに画像をアップにする。
「この花のピアス、サトシがしてたんだ。俺、これ見て最初、サトシを女の子かと思ったのを覚えてる。」
 画面をよく見ると、写真の後頭部は耳までしか写っていない。左耳の軟骨には、可愛らしいシルバーの花のピアスが小さく写っている。
「あいつ……祐樹、シドニーにいるんだ。サトシさんのところに。」
そう言われれば、写真に写る人間の格好は冬とは思えない程薄着だった。
 真司くんは黙り込み、随分と悔しそうな顔をした。これで真司くん自身も確信したのだ。祐樹の『自分探しの旅』は全くの嘘で、私たち二人を避けていなくなったのだ、という事が。
「シドニー、行こうよ。」
彼の居場所が分かった今、これで私たちが会いに行かなければ、もうずっと祐樹に会うことはないかもしれない。その思いは、なぜかほぼ確信に近かった。
 真司くんは、頷きも、返事もないまま、手元のマウスを動かして検索サイトに繋げる。
『シドニー 航空券』
 そう入力し、私たちは食い入るように画面を凝視し、フライトの空席を探し始めた。
 
 その時、人の気配を感じて私は後ろを振り返った。
 そこには、女の子がドアを半分開け、動きを止めてこちらを見ていた。
 「あっ」
そう私の声が出るのと同時に、彼女は一歩足を進めて言葉にならない何かを叫び始めた。
 修羅場というものは、当たり前だが、始まりが衝撃的すぎて頭が付いていかない。まくしたてるように真司くんと私に暴言を吐いた後、真司くんの彼女は黙って泣き始めた。私も真司くんも、泣き崩れる彼女にたくさんの弁解の言葉を投げかけたが、彼女の耳には全く届いていないようだった。
 そして始まりとは逆に、修羅場の終わり方ははっきりしない。真司くんと私の間には何もないからこそ、その場を無言で立ち去ることも気が引けるし、彼女も泣くだけで一向に状態が変わらない。家主である真司くんは、ほどなくして彼女への弁解にも疲れて黙っていた。
 今となっては本当に最低だとは思うが、その時の私の頭には、シドニーにいつ行くかということしか考えていなかった。修羅場や真司くんと彼女の事は、正直どうでも良かった。
 バイトはいつから休めるか、学校はどうしよう、宿泊先はどうしよう、祐樹は私たちに会ってくれるだろうか。何よりも、私と真司くんが行くことで、彼に逃げる前の苦しみをまた味わわせてしまうことにならないだろうか……。
 数十分たっても状況は変わらず、その場での弁明を諦めた真司くんは「ごめん」と口を動かし、玄関へと私を送り出した。スマホでメールを打つジェスチャーをして、後で連絡する意思を伝える。
 玄関で靴を履く時、改めて彼女の感情を思った。誕生日を祝おうと彼氏の部屋に来て、玄関に女物の靴を見つけたら、いくら友人だと主張されている相手でも耐えられるはずがない。
 下駄箱の横には、プレゼントだろう、華やかな紙袋が置いてあって、私はやっと、彼女に対する申し訳なさを感じた。
 
 そこから約一週間。航空券を探すより、スケジュールを調整するのに時間がかかった。真司くんも私も、バイトのシフトはどうにか変えてもらったが、金銭的に考えても、シドニーの滞在は一週間が限度ということになった。
 滞在プランと計画を話そうと騒がしい学食に集まったものの、私には全くアイデアなんて思い付かず、真司くんにそう伝えると、真司くんは「既に計画は実行済み」と自信ありげに笑った。
 真司くんは、いつの間にかSNSでサトシに連絡をとっていた。
彼のスマホに映し出されたメッセージには『友人がシドニーに留学する。留学して早々は友人が出来るか不安だから、サトシを紹介してもいいか』と、真実が一切存在していなかった。続くサトシからの返信には、たくさんの絵文字と彼の携帯番号が記載されていた。
 嘘をつくのは正直心が痛かったが、真司くんは、俺らもされたじゃん、と言い放った。
それは随分とはっきりとした主張で、私には、それに対する返答が到底思い付かなかった。

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