「カンガルージャーキー」ep.13
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北半球の島国は猛暑だった。
すっかり南半球の気温に慣れていた身体は、急激な変化に追いつけなかったらしく、私は帰国してすぐに体調を崩した。スーツケースを仕舞うこともできず、始めの一週間は学校が終わるとすぐに帰宅してはベッドで過ごした。スーツケースに染みついた南半球の香りは、自然とあの高い空を思い出させるものだったけれど、淡々と過ぎる日常は、一週間前の時間が幻だったのかと思えるほど味気なく、至極退屈だった。
体調がやっと回復すると、旅行中の写真をシェアするために、私たち三人は会うことにした。旅行中ずっと一緒に過ごしていたからか、随分久しぶりのような気がしたが、たかだか二週間ほどだ。
「治ったのかよ、風邪は。」
冬でも紫外線の強いオーストラリアで妬けた肌は、今も脱皮中らしい。ぼりぼりと腕を掻きながら祐樹が聞く。
「うん、治った。ナイーブで困っちゃう、私ってば。」
冗談めかして言うと、隣の真司くんが笑った。
『親父の台所』は、週末の金曜だというのに混んでいなかった。大丈夫だろうかこの店は、なんて余計な心配をする。
とりあえずビールと鳥南蛮を注文して、疲れてもいないお互いを労わった。
「おつかれー。」
体調が回復して、久しぶりに飲んだビールは、暑さも加わって美味しい。
はい、と写真のデータが入ったUSBを渡すと、二人は予想通り写真を忘れたと言った。忘れたのではなく、準備していなかったのだという事は明らかだった。
それから私たちは、帰って来てからお互いがいかに現実と向き合わなくてはならなかったかを話し始めた。
私は風邪に苦しめられ、真司くんと祐樹は帰国した翌日からバイトに明け暮れていたらしい。たかだか二週間の間に何が起きたわけではなかったのは当然だった。ただ、私たちがいたあの異国はやっぱり夢だったのではないか、という不安が、必死に思い出を語らせた。
シドニーの夜二日目。
真司くんと祐樹が部屋に戻って来たことも気づかない程、私は熟睡していた。朝、目が覚め、随分気持ちよさそうに寝ている二人を残して朝ごはんを食べに外に出た。前日に行ったカフェのサンドイッチが美味しくて、私はそのカフェに向かった。オーダーを取りにきた女の子(と言っても私より年上だけど)は、私の顔を覚えていたらしく、『Welcome back』とウインクしてくれた。こういうやりとりが、日本にもあればいいのに。
一時間ほどたってホテルの部屋に戻ると、男二人は私が部屋を出たときと全く同じ格好で寝ていた。このまま寝かせてあげたいとも思ったけれど、チェックアウトの時間まで残り二時間、その後はケアンズに向かう予定だったので、文字通り叩き起こした。
真司くんが先にシャワーを浴びていると、祐樹はお土産のサンドイッチを頬張りながら昨晩の出会いを話してくれた。
私は純粋に羨ましかった。こっちに来て出来た友人は、語学学校で出会った友人ばかりだったからだ。
「その二人がさ。本当に、本当に幸せそうに笑ってたんだよ。」
そう語る祐樹の顔は、言葉とは裏腹に悲しそうだった。
バタバタと準備を終えると、飛行機でケアンズに向かい、そのままフェリーでグリーン島に向かった。二人はやはり疲れていたのか、飛行機でもフェリーでも寝続けていた。
グリーン島は、グレートバリアリーフに浮かぶ最も大きい島で、そのホテルに二泊するというのがこの旅行のメインイベントだった。
島へ向かうフェリーは強風に煽られ、乗客のほとんどが具合を悪くしていた。日本人の観光客が多いのか、フェリーのスタッフはほとんどが日本人で、慣れたようにエチケット袋と氷を乗客に配り続けていた。熟睡する男二人を横目に、私も漏れずに具合を悪くし、何度も氷を貰っては、酔い止め薬を持ってこなかった事を後悔していた。
船を降りると、そこには海に囲まれた長い桟橋が続き、桟橋の先には、まるで作り物のように丸いシルエットをした緑が見えた。
足元のふらつきが治まるのを待ってから、私たちは改めてその青い海を眺める。パンフレットの中に入ったのではないかと思える程美しいその光景に、私たちは心を奪われ、わぁ、と感嘆した後に続く表現を探していた。
ほとんど最後の乗客となった私たちは、緑で覆われた小さな入り口に向かってのろのろと歩く。
入り口をくぐると、そこには穏やかな木漏れ日だけが降り注いでいた。緑に守られたようにぽっかりと小さな空間が広がり、ホテルのレセプションと、小さな売店だけが視界に入る。他はすべて若々しい緑のパワーだけが漲っていた。
島にホテルは一軒しかなく、それは、島にホテルがあると言うよりもホテルが有する島、と表現した方がしっくりくる。
私たちは一先ずホテルにチェックインをし、部屋に荷物を運んでもらった。小さな入り口からは想像できないほど宿泊スペースは奥に長く、ほとんど外壁を持たないそのホテルは、まるで島と一体化している錯覚をもたらす。ビラの様に一つひとつ分かれたそれぞれの部屋は簡易な廊下で繋がれ、部屋の入り口では、亀の甲羅を模したナンバープレートが私たちを迎え入れていた。
扉を開けても、所謂室内の暗さは皆無で、白で統一された家具は窓から差し込む太陽の光が反射し、より一層部屋の開放感を演出していた。
各部屋のバルコニーが向き合う真ん中のスペースには、宿泊客専用の小さなプールがあり、窓から丸見えだった。ブロンドの髪色をした子供の兄弟が、高い声色ではしゃぎながらプールへ飛び込んでいる光景は、まるで外国のホームドラマを見ているようで現実味が出ない。
部屋に入っても口数が少ないのは、三人共、どう感動を表現していいのか、ふさわしい単語が思い浮かばないからかもしれない。情けないほどに想像を超えていて、全身でその空気を味わうしかなかった。
内装もさることながら、何よりも、そこのホテルの宿泊客だけが持てる特権は魅力的だ。夕方のケアンズ行の最終フェリーが出港すると、その島にはホテルの宿泊客しか残らない。ダイビングやシュノーケリングのインストラクターが大きく手を振り、桟橋を渡る。汽笛をならして時間を告げるフェリーの最終便は、少し遅刻をして本土へ戻っていった。
そこからは、人の笑い声から波の音に、島の主役が取って代わる。
夕方五時過ぎになると、宿泊客にウエルカムシャンパンが振る舞わられ、グラスを片手に桟橋からサンセットを見る。
私たちは桟橋の端まで歩き、三人横並びに座りこんだ。視界には、赤く染まった海と、既に少し海に浸かった太陽だけしか入り込まない。
そこから見る太陽は、燃え上がるような赤とかそんな表現ではなくて、もっともったりとしていた。コーヒーに入れるポーションミルクのように、じわじわと同化して、海と身体に染み渡っていく。顔が火照っているのは、一口含んだシャンパンのせいではないのは分かっていたけれど、身体はふわふわしていた。
周りは夫婦やカップル、家族連ればかりだったが、皆がみな、その場を独占しているもの同士の奇妙な一体感をまとっていた。それはまるで、島全体が透明な薄い膜に囲まれているようだった。
その夜、ホテルのレストランで学生の私たちにとってはかなり豪華な夕食を取った。島のレストランはホテルのこの一軒しかない。チェックインの時にディナーの予約をし、席を確保する。
隣のテーブルには、わざわざドレスアップしたのだろう、黒いドレスを身にまとった女性と、品の良いポロシャツを着た紳士が手を繋ぎながら静かに波の音に酔っていた。テーブルにはワイングラスだけが残され、何か小さく囁きあいながら時折それを口に運んでいる。
私はその二人を見ながら、いつかは恋人とまた戻ってこよう、とまだ見ぬ相手を想像しながら呟いた。
「私、二人と知り合って、自分でも知らない自分に出会う事が出来た。」
祐樹と真司くんは、急に放った私のセリフのような言い回しに、疑問の表情を投げかけている。
「人ってさ、家族に見せる顔、友人に見せる顔、恋人に見せる顔、全てが一緒な人なんていないと思うの。もっと細かく言えば、兄弟に見せる顔と親に見せる顔も違うし、友人でも昔ながらの友人と、大学で出会った人に見せる顔も違ければ、昔の恋人と今の恋人に見せる顔も全く一緒なんてことはないと思うんだ。」
真司くんは、グラスに残ったワインを一口含む。
「でも、それって決して八方美人というわけではなくて、その人と共有する空気とか思い出とか、インスピレーションを含んで勝手に変化しているだけで、別に意図的に変えているわけではなくて。いつの間にか、自分でも気づかない所で少しずつ違っているだけだと思う。」
黙っていたはずの祐樹は、うん、と静かに納得した返事をくれる。
「その中で、『家族』、『友人』、『恋人』って大きく括っちゃうのは当たり前だけど、それって違う。私にとって、その人はその人でしかない。真司くんは『真司くん』、祐樹は『祐樹』っていう相手でしかなくて、『友人』という一言では括れない存在だな、って。」
二人は黙って私の言葉を聞いていくれている。その表情は、随分と穏やかな気がする。
「いつか私に恋人が出来て、もしかしたら一生のパートナーになる人が出てくるかもしれない。でも、その人とはこの経験も、この瞬間も共有していないし、今私が感じている穏やかな気持ちも伝わらない。だって、今この瞬間は、二人としか過ごしてないし、この三人だからこそ感じ取れたことだもの。やっぱり、二人は私にとって二人という存在でしかない。……うーん、うまく言えないんだけど。」
そこまで言って、随分恥ずかしい事を言っているような気がして、私はまた隣のテーブルを見た。今にでも溶けてしまいそうな幸せな表情をしてお互いを見つめう恋人だけが視界に入る。
「今のセリフ、まるごと全部返すよ。ありがとう。」
祐樹がそう言うと、真司くんは笑って、
「俺もそのセリフ言いたかった。」
と、悔しそうな顔をして言った。
その日の夜中、私と真司くんは祐樹に揺り起こされた。飛行機とフェリーで一日中落ち着かなかった身体は、疲れ切っていた。それでも祐樹は無理やり私たちを起こし、外に誘い出した。真司くんは眠さに耐えきれず、しつこく誘う祐樹の手を払いのけ、何かもごもごと文句を言って、ベッドに居残ることを選んだらしい。
眠気に負けそうになりながらも、私はベッドからよろよろと起き上がった。
廊下は真っ暗だった。緑で覆いつくされるように続く廊下は、しんと静まり返っていて、いつ蛇や得体の知れない何やらが出てきてもおかしくない。寝ぼけていた頭はその緊張感から一気に醒めてしまって、内心びくびくして歩く。
足元のライトはかなりの間隔を開けて配置されていて、ほとんど役に立っていない。部屋から持ってきた懐中電灯で祐樹の足元を照らし、見失わないように注意していると、ホテルから出たところで祐樹が突然立ち止まった。不意なことで祐樹の背中にぶつかる。
幾分不機嫌に祐樹の顔を見ようとして、彼の背後に広がる光景に私は息を飲んだ。
そこには、光が、光が溢れていた。
青、白、橙―。
今までに見たことのない色を交えて輝く光の流れを辿るように見上げると、そこには美しい星々で描かれた川がいくつもの曲線を作り上げていた。小魚が飛び跳ねるように流れ星がその川を横切り、川の周りには、まるで蛍のように瞬く光が点々と、けれど無数に飛び交う。
その川の流れは遠く、永遠に続いているようだった。人工的な光なんて一つもない。そこには、幼い頃に行ったプラネタリウムでは感じられないほどパワーが溢れていて、まるで表情を持った星々が自らを主張しているようだ。
いつの間にか、その光が滲んでいく。
涙が頬を伝う。嗚咽が出るわけでもなく、鼻をすするわけでもなく、涙がすーっとこぼれる。それは感動、という言葉よりも圧巻、と言った方が良いかもしれない。ふつふつと静かに溢れ出す彼らのパワーに耐えきれず、身体から炙り出された何か。その何かが悪いものなのか良いものなのかも分からないけれど、今まで私が経験したこともないような感情だという事は確かだった。
波の音しか聞こえないはずなのに、私は、胸がざわつくのを感じていた。
ありきたりだけれど、私が抱える日常の迷いや悩みなんて、この自然の前には何てちっぽけなものなのだろう。そう言わずにいられないほどに、そのパワーは圧倒的だった。
祐樹の気配を横に感じる。包まれた左手が、温かかった。拭う事を忘れていた涙を、彼は私の代わりに拭ってくれた。今度は背景に星が望めない程、彼の顔が近くにあった。
「今だけ、甘えてもいい?」
「俺も今そう聞こうとしてた。」
私たちは、軽く口付けをした。彼の肩に頭をうずめると、彼も私の頭に顔を乗せた。私たちは何をするわけでもなく、首が疲れるまで星空を見上げ、時に唇を合わせた。
今この瞬間、この世界には、私たち以外誰の気配もしない。
「俺にとっても、涼子は『涼子』でしかないよ。」
祐樹はそう囁いた。