「カンガルージャーキー」ep.10
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「りょうこちゃん!」
一番初めに気づいたのは真司だった。後ろを向いていた黒髪の女の子が振り向いた時、何度も会っているはずの彼女に、俺はドキリとした。真司の振っていた手が一瞬止まっていたのを、俺は見過ごさなかった。こいつも同じだ。
久しぶりに会った涼子は、たった一カ月だけの滞在とは思えないほど現地に溶け込んでいるように見えた。少し灼けた肌と、日本では付けないような大きなピアスをして、幾分日本のときよりも薄めの化粧は、元々の彫刻のような彼女の顔をいっそう引き立てていた。
キリッとした涼しげな目元が細まり、くしゃりと崩した笑顔をこちらに向けたとき、俺は何度目かの恋に落ちた。真司さえいなければ、俺は涼子に想いを馳せ、彼女と同じベッドに寝て、いつかは結婚のプロポーズをしたのだろうか。
「来たきた~!」
恥ずかしげもなく大声でそう言いながら少し駆け足でこっちに向かってきた涼子の顔は、本当に活き活きとしている。
「長旅お疲れさま。」
笑顔が溢れ出す、とはこういうことを言うのかと思ってしまうほど、つられて笑ってしまう。
「随分と楽しんだんだな。」
そう言うと、満面の笑みでうん、と涼子は大きく頷く。
「いいなー、俺らはこの旅行のためにバイト漬けだったよ。」
いかにも、という顔で真司がそう言うと、
「私もコツコツ貯めて、やっとここに来れたの。飲みすぎなのよ、二人は。」
ぐぅの音も出ない一言で返される。
「さ、とりあえずホテル行こ。私は先に荷物預けてきちゃった。」
そう言ってくるりと踵を返すと、涼子は下調べでもしていたのか、真っ直ぐにタクシー乗り場へ向かう。
タクシーで行き先を告げ、シティへ向かう途中、タクシーの運転手はオーストラリアは初めてか、天気がどうだと言っていたが、俺は車から見えるシドニーの風景に心躍っていた。
かつてはその奇抜すぎる形態に物議を醸し出したオペラハウスは、日本よりも遥かに高く感じるオーストラリアの青空によく映えていて、シドニーの街の象徴らしく堂々としていた。イギリスの植民地だった事から残るその伝統的な英国様式の建物と、近代のメタリックな建物はうまい事溶け合っていて、小さい頃に過ごしたアメリカの西海岸とはやはり違った雰囲気だった。入国審査の時に話したアメリカ英語に相手が一瞬怪訝そうな顔をしたのを俺は見過ごさなかったが、それでも幼少時代を彷彿とさせる港町であるシドニーを、俺はすぐに気に入った。
中心地に近いホテルにつくと、部屋は三人で一部屋であったことに真司は驚いていた。真司は自分から旅行を提案したくせに、その計画はほとんど涼子と俺任せで、ホテルの部屋割りまで考えていなかったのだろう。涼子にうるさい、と言われるまでしつこく尋ねた。
部屋割りは、俺が涼子に頼んだことだ。旅行代金も浮くし、と涼子は快諾してくれた。
部屋に荷物を置くと、俺たちはすぐに街へと出かけた。時刻は既に夕方で、日本とは反対の季節であった外はかなり冷え込んでいた。
オーストラリアの冬を見くびって薄いコートしか持ってきていなかった男二人を予想していたのか、涼子はすぐにメンズものの服が置いてあるお店を紹介してくれた。ついでに、同じ建物内のフードコートで早めの夕飯を済ませる。
オーストラリアの店仕舞いは早い。日本のように二十四時間開いている店は数える程で、デパートやビルのネオンは、夕飯時になると住宅街にその光を移す。
長くもないフライト時間だったはずなのに、俺と真司の身体は少なからず疲れていて、早めにホテルに戻ろうと涼子が提案してくれたとき、本当にこいつは出来る女だと感心した。
ホテルへの帰り道、男二人がいるから安心だわ、と涼子は話した。
ステイ中、ホームステイ先の家から学校への道のりで数人の男に声を掛けられ、夜は遊ばずに家路を急いでいたらしい。学校のスタッフからは「あなたはアジア専の男の人に好かれる顔をしているから気を付けて」と忠告されたことも、彼女の警戒心を掻き立てたのかもしれない。
あと少しでホテルに着こうという所で、飲み物を買うためにスーパーへ寄ることにした。光を灯していた店はメインストリートでもかなり少なく、そこで通りかかったスーパーを逃したら次の開いているスーパーはないかも、という話になったのだ。ここの国の人は、夜中に何か買いに行きたい、気分転換をしたい、と思った時、一体どうしているのだろうか。
二リットル入りの水をそれぞれ手に持ち、涼子はオレンジジュースがどこにあるか聞いてくる、と言って店員に話しかけた。
俺と真司は先に清算を済ませ、店の外に出ると、店のドアのそばに虹色の旗が飾ってあるのに気が付いた。真司も俺の目線でその旗に視線を移し、なんだろうな、と二人で話していると、会計を終わらせた涼子が店から出てきた。
「物価高くない?もうお財布が厳しいや。」
財布を覗きながら不満そうにしている涼子の機嫌を取るために、右手に持っていた袋を持ってやった。
「ねぇ、涼子ちゃん。この旗って何?」
真司がそう尋ねると、涼子は真司の視線を向けていた場所に目をやる。
あぁ、その旗ね、と言うと、なぜか涼子は俺にちらりと目線を向けた。
「LGBTへの尊厳、って意味。」
ひやりと背中が冷たくなり、右手に持った袋が一層重く感じた。
「なにそれ、LGBT?」
「レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーの人々の尊厳を守ろう、って意味。」
俺は真司の顔を見れなかった。真司はどんな表情をしているのだろう。
「同性愛者とかを認めよう、みたいな?」
「大まかに言えばそうかな。シドニーってそういうのに寛大なんだって。法律でも、同性愛者や性的少数派の差別を禁止しているくらい。二月か三月には、同性愛者のパレードがあるらしいよ。」
へぇー、と真司が感心したように唸ると、涼子が先を急ぐように言った。
「ほらほら、さっさとホテル戻ろう。」
自分の足先を眺めていた俺の背中をぐっと力強く押し、涼子は申し訳なさそうに笑った。
オーストラリアの滞在は、たったの一週間。シドニーには二泊だけで、あとはケアンズで過ごす予定だ。当初はエアーズロックに行くつもりだったが、金銭面と時期的にも今回は断念し、その分、ケアンズではグレートバリアリーフに宿泊する計画だ。
その日、ホテルに着くとどっと疲れが出たのか、真司と俺は、涼子がシャワーに入っている間に眠りについてしまった。