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「カンガルージャーキー」ep.15

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 クジラの捕虜を否定する国に、カンガルージャーキーがあっていいのだろうか。
 観光客に向けて触れ合いツアーがあるほどに可愛がられているはずなのに、食肉として土産が売られている現実は、生まれてきた環境で考え方が違うのだという例えの一つでしかない。
 そんな違いに、興味を示す人、嫌悪を示す人、無関心な人、受け入れる人……と世の中いろいろな人がいるもんだなぁ、と関心する。
 
 土産店の人気商品は、珍味であるカンガルージャーキーとオーガニック化粧品だ。あとは暑苦しいブーツ。こんな真夏にバカ売れするブーツは、やっぱり納得いかなくて、日本人が嬉しそうに何足も大量に買っていく光景はいつも滑稽だ。いやいや、今必要なのはビーチサンダルだろ、と思いながら笑顔で接客をする。
 
 レジ横に置いていたプリペイド携帯がチカチカと音を立てずに光った。客足が途切れるのを見計らって携帯のメッセージを覗くと、サトシからだった。
『行く?』
今日も飲むのか。この人は本当に好きだな。
『O.K.』
そう返し、財布の中身を確認する。今日は三杯までにしよう。
 
 真夏のシドニーは、太陽が異様に眩しい。サングラスをしなければ常に立ち眩みかと思ってしまうほどにバランス感覚を失う。人々は日本と違って、色鮮やかなシャツやワンピースで出社し、街は朝から華やかだ。
 シドニーに来て、二週間がたった。
SNSでサトシに連絡を取った時、彼は何もかも分かっていたかのように返信をくれた。
『シドニーで待ってるよ。』
 サトシは、休みの日はほとんど俺を外に連れ出し、友人や知人を紹介してくれた。彼を介して出会う人々は、俺をより遠くに逃がしてくれる程に刺激的だった。日本で学生をしているだけでは出会わないような国の人、年齢層も幅広く、職種も様々だった。
サトシは、シドニーに着いてからも俺に何も聞かなかった。彼が沢山の出会いを俺に与えるのは、サトシが過去に俺と同じように逃げた経験があったからかもしれない。
 
 日本を思い出さないかと言ったら嘘になる。長野の実家に戻り、シドニーに行く、そう伝えた時、両親は全くと言っていいほど反対しなかった。殴られることを予想して歯を食いしばっていたら、自分の金で行くなら反対などしない、と快諾してくれた。金の面では問題なかった。真司を避ける理由でいれていた連日のバイトのお蔭で、口座もある程度潤っていたからだ。家賃は自分の口座から払い、休学中の学費について足りない分は親に借りることで、思ったよりも淡々と話は進んだ。
意に反する親の快諾は、感謝を生むものであったのと同時に、前に真司に言われた言葉を思い出させた。甘やかされれば甘やかされる程、俺の罪悪感は増えるのだと、俺は改めて実感した。
 
 休学届は、思ったよりもあっけなく受理された。
 真司から「彼女ができた」そう聞いたあの日、俺はついに時が来たか、そう思った。真司への想いは相も変わらずで、旅行先のグリーン島で見た星空は、幾分俺の気持ちを穏やかにしたけれど、そんなのは幻想だった。
 真司にいつか好きな人が出来て、彼女が出来て、結婚する。何度も何度も、頭の中でイメージトレーニングをしていた事だった。幾度と同じ想像するうちに、自分にはそれを受け入れられるのではないかと考えられるようになっていたのが、何とも馬鹿馬鹿しい。
 涼子に言われたように、俺は真司の言葉を聞いただけで思考を停止させ、胸が痛くなったのだ。初めに涼子に持った嫉妬心なんて比べ物にならない程に、顔も見たことのないその女の子を疎ましく思い、同時に羨ましくなった。毎日同じ家で過ごし、互いの性格も、生活習慣も、食の好き嫌いも、真司の淹れるコーヒーの味さえも知っている自分は、男というだけで、真司をデートに誘う事も出来ない。照れくさそうにデートプランを俺に聞いてきた真司は、紛れもなく男であり、異性の好意に己惚れていた。
 
 俺は、こんなことでダメになってしまうのか。そう思うと無性に涼子に会いたくなった。涼子が心底心配してくれたことが、身に染みて感じ取れた。けれど、涼子に会ったところで答えが出るわけないことも分かっていたし、涼子自身もどう俺に声を掛けたら良いか迷っているのが分かった。
涼子の優しさに甘え、いかに自分が彼女に迷惑を掛けているのかを痛感した。彼女を自分と同じ迷路に迷わせてしまった自分が恥ずかしく、憎たらしかった。
「逃げたって良いじゃん」。
サトシの言葉は、帰国後も忘れることはなかった。もうたくさんだ。迷路に入るのは、俺一人で十分だ。

「どう? 仕事は。」
 人の顔をのぞき込むのは、サトシの癖らしい。隣のシェイも、片言の日本語で後に繰り返す。パブには、平日にも関わらず、いつもの常連たちで席が埋まっていた。
 『親父』の鳥南蛮の味を思い出しながら、俺はテーブルのナッツを摘まんでいた。
「うん。まぁ日本で色々バイトしてきたからね。ちょろいもんだよ。」
そう言うと、サトシはにやりと笑った。
「違うのは、給料がもらえない、ってことくらいか。」
 観光ビザの期限は九十日だ。その間、当たり前だが給与を貰う仕事は禁止されている。そのため、俺は今、語学学校に通いながらボランティアという名目で日本人向けの土産屋で働いている。
 空港に迎えに来たサトシの隣には、気の強そうな太った女性が立っていた。化粧っ気や洒落っ気とは無縁そうなその女性はサキさんと言う日本人で、予想通り気の強い、けれど涼子と同じような優しい気を纏った人だった。サトシは、サキさんが現地のオージーの旦那さんと経営する土産屋で俺を働けるように頼んでくれていた。無給で働く代わりに、滞在する部屋を提供してくれる、というものだった。
 サキさんは俺を見るなり英語で話しかけて来た。軽いテストのような気がして、俺が英語で返すと、早希さんはガハガハと大口を開けて笑った。
「噂通り、綺麗にアメリカ英語を話すね。まずはそれを直してから働かせなきゃ。」
はっきりとそう言われ、少しムッとしたが、働かせてくれると明言してくれた事に俺はほっとした。サトシは俺に良かったな、という顔をすると、スーツケースを持ってくれた。
 
 サキさんの車でステイ先に向かうと、そこは異様なほどに豪華な家だった。土産屋ってこんなに儲かるのか、そう驚いていると、旦那さんはオーストラリアの各地で観光用ホテルも経営しているんだよ、とサトシが教えてくれた。サキさんの旦那さんはローガンと言って、半年間、オーストラリアのパースに出張に行っているとのことだった。中々やり手な夫婦らしい。
 一通り部屋の案内をされると、サキさんは早速仕事のシフトを相談してきた。運がいいのか悪いのか、先日急に一人欠員が出て、シフトが穴だらけだった。土産屋のレジと在庫管理、一日の勤務時間は日本に比べて短い4時間だけ。語学学校の授業もあったし、店の開店時間と閉店時間が短いのも要因だ。
サキさんはシドニー内で四つの土産屋を切り盛りしているため、土日も関係なく働いているらしい。
「よし、じゃぁ行ってらっしゃい。」
 仕事のシフト調整がひと段落すると、サキさんがそう言って家のスペアキーを渡してきた。どこに行くんだ、そう思っていると、シェイがタイミングよく車で迎えに来た。日用品を買いに行く、というのは名目で、その後は俺の歓迎会がサトシの家で開かれた。
 語学学校では友人もでき、仕事内容も難しいものでもない。同僚ともうまく行っている。俺にとってシドニーの生活は心地良いものだった。
 
涼子にも真司にも、シドニーに来たことは言っていない。
涼子に会いに行った日、俺は真司にメールを打った。
『しばらく実家に戻る。家賃は払うので悪しからず。』
 たった二行のメールを送るのに、俺は随分悩んだ。すぐに真司からメールが送られてきたが、結局俺はそのメールを未だに開いていない。

 涼子に会いに行き、その日は涼子の家に泊まった。次の日に真司が学校に行っている時間を見計らって荷物を取りに行き、そのまま実家に戻り、数日後、休学届を出しに大学に向かった。キャンパス内で涼子と真司に会ってしまいそうで、俺は下を向いて、誰にも告げる事なくキャンパスを後にした。
 年越しを実家で過ごし、年明け一週間後、俺はシドニーに飛んだ。涼子からも真司からも毎日幾度となく着信があったが、俺は無視し続けた。日本のスマホは、実家に置いてきた。
 全てを置き去りにしたかった。全てから、逃げたかった。

 三杯の予定が五杯になってしまった。
 シェイに送ってもらい、家につくと部屋が真っ暗だった。今日から二日間、休みを取ったサキさんはローガンに会いに行くと言っていた。シドニーに来て二週間、初めて一人で過ごす夜だ。
 リビングのソファでテレビを見ながらくつろいでいると、ブッダが人の気配に気づいたのか、横に座って来た。ブッダはこの家の守り神なの、とサキさんはよく言う。丸々と太った顔と細い目は本当に仏陀のような顔をしている。雑種だとは聞いたが、一体何と何のミックスだとこんな顔が生まれるのだと思う程、見たことのない顔をした犬だ。
「よう。お前がいるから一人ではなかったな。」
 そう頭を撫でてやると、ブッダは気持ちよさそうに元々細い目をさらに細めた。
 英語は特に困ることはないが、毎日のように新しく出会う人々の中では、やはりどこか気疲れしているのか、俺はくたくただった。
加えて、今日出会ったオージーのひとりが、俺を誘ってきた。もちろん男だったが、サトシの友達なのだから全く予想していなかった、と言ったら嘘になる。
 彼は特段しつこい人間ではなかったが、次に会うとき、俺は今まで通りの態度をとれないと思う。肩に手を回すことも、彼と目を合わせて話をすることも躊躇してしまうことは確かだ。真司以外の男を恋愛対象として見るなんて今まで思ったこともなかったし、自分自身がそう言った類の人間から好意を持たれるなんてことも思っていなかった。
 俺が真司に想いを伝えたら、あいつはどう思うのだろう。数回しか会っていない相手でもこんな風に思うのだ。同じ部屋で過ごし、壁を一枚挟んだ部屋で過ごした相手にそんな目で見られていたなんて知ったら、一体あいつはどう思うのか、想像したくもなかった。
 もしかしたら、彼の誘いに乗って、そっちに流れた方が楽なのかも知れない。もう、迷路の中を自分の生きる世界として腹をくくった方が、生きやすいのではないか……。


 テレビで流れている内容は頭に入ってこなかった。番組もコマーシャルもつまらなくて、BGMのように右から左に音だけが流れていく。
 机に置いた携帯がまた光った。サトシからだった。
『今日言えなかったんだけど、真司からSNSに連絡が来てたんだ、実は。』
 真司。その名前を久々に見た気がする。一気に心臓が大きく鼓動する。
真司は、一体サトシに何て連絡したのだろう。シドニーに来ていることが分かったのだろうか。両親に聞いたのだろうか。いや、あいつは俺の実家の連絡先なんて知らないはずだ。もしかして、手当たり次第に俺の行き先を聞いているのかもしれない。もしくは、それは考えすぎで、俺のことではなくサトシに単純に連絡をとっただけなのか……。

 たった二週間。俺の脳裏には真司の顔がくっきりと思い浮かんだ。
 あいつは今頃、俺がいなくなったあの家に彼女を招いて、肩を抱き、キスをして、身体を合わせているかもしれない。
 ブッダが、携帯を持つ俺の手を舐める。
「ごめんごめん、お前、腹減ってんだよな。」
 そう言ってキッチンの棚を開き、新しいドッグフードの袋を取り出すと、ブッダが嬉しそうに後ろを走って来た。
 棚の奥からエサ用の皿を出して、袋の口を大きく開くと、勢い余ってドッグフードが床に散らばってしまった。急いでかき集めようとすると、ブッダが散らばったドッグフードを、尻尾を勢いよく振りながら食べ始める。
「待てって、ブッダ。」
 必死に集めようにも、拾う間もなくブッダが貪る。
「ブッダ、ステイ!」
そう言っても、ブッダは一向に止まらず、俺は床に散らばったドッグフードを手でかき集める。
「待てって。今、いま、ひろう、から。」


 膝をつき、顔を下げたら、もうダメだった。涙が床にポツポツと落ちる。ブッダはまだ食い気全開に、よだれを垂らしながら散らばったドッグフードを食べている。床に落ちる水を拭おうと目をこすろうにも、手に付いた臭いがたまらない。
 しばらく真上を向いて落ち着くのを待とうとすると、ブッダが何か感じ取ったのか、今度は俺の顔を舐めて来た。
「お前、くっせ。」
 ブッダの舌はザラザラしていて、ドッグフードの臭いがした。
「俺さ、一体何してんだろうな。」
 ブッダは相変わらず顔を舐めている。ドッグフードが散らばる中で座り込み、犬に舐められながら涙を流す、そんな自分を客観的に見た気がして、急に可笑しくなってきた。
 なんで、俺は逃げても泣いているんだろう。結局、一度持ったこの感情からは逃げきれないのか。じゃぁ、俺がここにいる理由は一体何なのだろう。俺は何をしているのだろう。


久々に開いたSNSには、真司と涼子から相当な数のメッセージが送られていた。
 犬臭い顔を洗い、ベッドへ潜り込んで目を閉じた次の日、休日は昼までゴロゴロしていた。
 いつでも使っていいから、そう言われていたにも関わらず一度も触らなかったサキさんのパソコンを開く。メールをチェックすると、両親から生存を確認するメールが来ていた。生きている、とういうことと、近況を報告する返信を送った後、年末から開いていなかったSNSを開いた。
『どこにいるの? 連絡して!』
 年末から年明けにかけて同じようなメッセージが涼子と真司から送られていた。真司は急に姿をくらました俺に怒り、年明けには自分勝手な俺に対する愚痴や暴言を送ってきていた。それでも二日に一回はメッセージを送ってきて、遂には、自分が何かしたのか、と真司自身を責め始めてしまっていた。涼子は俺を慰めるような言葉ばかりを送ってきている。
いたたまれない気持ちになって、俺は二人に返信をした。
『心配掛けさせてごめん。俺は生きてるよ。今は実家を出て、ちょっと自分探しってやつに来ています!』
 そんな冗談交じりな返事しか出来なかった。場所も連絡先も何も書かず、俺はメッセージを送ってすぐにSNSを閉じた。
 
 チカリと光に誘われて窓の方を見ると、ブッダが、特等席であるガレージの椅子に座って、日光を浴びながらうたた寝をしていた。だらしなく垂れる舌が笑いを誘う。

 シドニーは、今日も暑そうだ。

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