「カンガルージャーキー」ep.17
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風が随分と冷えこんできた。朝の空気は年明けに比べて湿気を失い、紅葉の香りが混る。
「おはよう。早いのね。」
リビングに出ると、朝七時だというのに、サキさんはもう朝ごはんを食べ終わって、ブッダのご飯を用意していた。
よだれを垂らしながら鼻息荒くサキさんを追いかけるブッダは相変わらずの食欲で、初めてこいつがメスだと聞かされた時、何の疑いもなく全否定した時の感覚は、未だに消えない。
この時期、日本人向けの土産屋は落ち着いていて、毎週月曜日が定休日になる。次のピークまで、スタッフは代わる代わる連休を取ってはバケーションを楽しむ。
俺はというと、ビザの更新のために三月の中旬に一時帰国をしたため、周りよりも早くバケーションをとった。実際には帰国せずにビザの延長申請が出来たが、心配しているだろう両親に顔を見せるため、一時帰国をすることにした。お蔭でバケーションという言葉とは程遠く、バタバタしてしまった。
実家に戻って両親と顔を合わせた時、たかだか三カ月なのに、随分と久々な気がした。東京で生活していた時は半年も顔を合わせないことなど普通だったけれど、シドニーでの生活がいかに自分にとって何らかのプレッシャーになっていたのかを思い知った。
両親になんとか生活できていることを話すと、あからさまにほっとした。本人たちは表に出しているつもりはないだろうが、それまでの無意識な前傾姿勢が、俺のシドニーの生活を気にしているのか分かりやすく語っていた。
「あんたには苦労かけたからね。好きにしなさい。」
背もたれに寄りかかりながら、母は言った。そんな言葉は微塵も求めていなかったが、隣の父親も大きく頷いた。
アメリカに住んでいた頃の父親は、今となってはどこに住んでいるのかも分からない。たった一度の離婚で、母は苦労を掛けたなどと思っているが、俺は離婚することで日本に帰ってこられた事に感謝しているし、再婚後の今の父親を心底尊敬しているのに―。
結局俺は、二週間まるまる実家に滞在した。
ビザの更新が完了したのを確認してシドニーに戻るチケットを購入し、両親に日にちを告げると、二人は悲しそうに笑った。その顔を見て、俺は自分を情けなく思えた。そして同時に、この迷路の出口を見つけたら、彼らに全力で恩返しをしようと決意した。次の渡濠で、俺の現実逃避を終わりにするべきだ。解決できないなら、解決できないなりに生きていかなければならない。東京の真司とのシェアも清算しなければならないし、何よりも大学を卒業して、社会と向き合って行かなければならない。現実は、待ってくれないのだ。
実家を出るとき、玄関のカレンダーには、母が書き込んだ文字が見えた。
『祐樹 旅立ち』
出発でもシドニーでもなく、旅立ちと書いた母は一体どんな気持ちなのか。玄関まで見送りに来た両親の笑顔の下には一体どんな感情が隠れているのか分からなかった。最後に背中をさすった母の手はカサカサで、手土産を持たせる父の背中は丸まっていた。
シドニーに戻った次の週、俺は真司の誕生日に写真を送った。誕生日なんていうのはただの口実で、ただ単に真司と連絡を取りたかった。今でもあいつは、俺を思い出すことがあるのだろうか。いや、思い出してくれているはずだ……。そんな期待を込めて送った。
けれど結局、真司からは何の返信もなかった。俺は何度も送信トレイでやつのメールアドレスを確認したが、それはやはりしっかりと送られていた。
ついに俺に呆れたか。当然と言えば当然だ。急に何も言わずに失踪して、しかも連絡を途絶えたままだ。むしろ訳もわからないのにあそこまで俺を心配してくれていたのが奇跡なんだ。俺は自分自身を嘲笑った。一気に思い上がっていた自分が恥ずかしくなった。
「今日は? どっか行くの?」
欠片も残らないほどブッダが綺麗に舐めた皿を洗いながら、サキさんが聞く。
「いや、今日は家でゆっくりします。洗濯物も溜まってるし。」
「そう、丁度良かった。今日は私もディナーの約束があって、この子のご飯どうしようかと思ってたから。」
そう顎でブッダを指す。彼女はまだ腹が減っているのか、大きく尻尾を振りながらサキさんの側を走り回っている。
「あぁ、大丈夫ですよ。俺がやっとくんで。」
「もしあれだったらサトシ達呼んじゃってもいいから。ゴミさえちゃんと纏めてくれれば。」
前回のホームパーティーでの無残な光景を思い出して、申し訳なくなった。
「すみません、あの時は。」
「やだ、嫌味じゃないの。」
そう言いながらサキさんは片眉を上げて笑った。この表情で言う時は間違いなく嫌味を含んでいる時だ。
「いや、今日は久々にゆっくりしますよ。」
そう、と言いながらタオルで手を拭くと、ブッダは観念したのか、今度はソファに飛び乗り、寝る体勢に入った。ほんと、こいつのように欲望のままに生きたい。
「じゃぁもう一つ、お願いしてもいいかな。」
もちろん、と言うと、用意していたようにサキさんがメモを渡してきた。
そこには、英語で雑に日用品が書かれている。
「クルマ貸すからさ、この買い出しをお願い。昼には出るつもりだったから別日にしようと思ってたの。代わりに私が洗濯しとくから、お願いしていいかしら。」
「あ、全然。むしろ言ってくれればいつでも行きますよ。俺も色々使わせてもらってるし。」
ありがとう、とウインクしながら早紀さんは笑った。
パスポート入れから国際免許書を取り出し、紺のバンに乗り込む。エンジンをかけると、爆音でカントリーミュージックが流れてきた。俺はびっくりして、急いで音量を下げた。ラジオにチャンネルを合わせると、流行りのイギリスバンドの曲が流れてくる。
今日もシドニーは快晴で、ドライブを演出するにはぴったりな曲だ。
まずはホームセンターだ。冬に向けたブッダのベッドと、トイレットペーパーと、あとは自分の日用品を買い込もう。
路側には、自転車で気持ち良さそうに何かを口ずさみながら走る少年の姿が見えた。彼のペダルを漕ぐ足取りは、アクセルを踏む俺の右足も軽くさせたような気がした。
ホームセンターでの大量の戦利品を車のトランクに載せ終わり、キーを差し込んでエンジンをかけると、助手席に置いた携帯が鳴った。サトシからのメールだ。あいつも今日は休みらしい。
これからドライブに行かないか、そう書いてあったが、今日は買い出しとブッダの世話係だ。今日はやめとくよ、そう返すと、涙を流した顔文字だけが返ってきた。何だか可哀想に思えたが、たまにはゆっくり家で過ごす休日も良い。
最近、やっと一人で過ごす日々が辛くなくなってきた。ついこの間までは一人でいる事が怖くて、サトシの誘いにも毎回応えていたし、休みの日はサトシを介して出会ったオージー達とスポーツやバーベキューに出かけたりしないと落ちつかなかった。
何よりも、帰国した後のことを考え始めるようになった。勉強が嫌いなはずだったのに、今は大学の授業や勉強が恋しい。シドニーで出会った友人は、博識な人間が多かったのが理由かもしれない。一見どこにでもいる同年代の若者と呼ばれる奴も、経済、政治、文学、歴史に詳しく、世代の違う人間と対等に会話をする。そんな彼らの姿は、自分の陳腐さ、浅はかさを叩きつけられるようで羞恥心を生み出した。
色々なことに興味と関心を持って、可能性を広げたい。逃げてきたはずのシドニーで、俺はそんなことを思うようになった。
買い出しが終わって家に戻り、荷物を整理した後、ブッダと一緒に一眠りをしてしまった。時刻は夕方になっていて、俺は夕飯の準備を始めた。ジャケットに入れたままだった携帯を取り出すと、またサトシからメールが入っていた。
『やっぱり夜、ちょっと寄る。』
それは一時間前に送られていた。断りの連絡をいれたのに珍しい。
分かった、でもパーティーは無しだぞ、そう送ると、今日は一人で行くから心配しないで、と送られたきた。絵文字が一つもないなんて、いつものサトシらしくない。何か、相談でもあるのだろうか。