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「カンガルージャーキー」ep.6

***

 あの日、目が覚めると風邪気味だった身体が幾分軽くなっていた。変な時間にベッドに籠ったせいか、起きたのは夜中だった。
 また身体がざわついてくるのが分かった。
 思い出すのは真司の身体であり、腹の底から欲情という感情が留まることなく湧き出てくる。戸惑いというのはこういう事を言うのかと冷静に頭で考えられても、それを止める術を俺は知らない。体と並行して徐々に起きていく思考を止めなければと、キッチンの冷蔵庫からビールを二本取り出し、本調子でない身体に無理やり流し入れる。空きっ腹にアルコールは効果てき面で、俺はすぐにベッドに入りなおした。
 
 考えたくない、何も。
 昼頃に布団を抜け出してダイニングに向かう。真司はもう早い時間にバイトに出て行ったのを知っていた。ドアを開けて、寝たふりをした俺の顔を覗いていったのも、知っている。
 すっかり光が射し込んで明るくなったダイニングのテーブルには、俺のマグカップが置いてあった。いつものコーヒーを口に含むと、それは当たり前に冷め切っていて、何よりも酸味が強かった。病人に何を飲ませるんだよと可笑しくなったが、あいつがこれを淹れている間、自分のことを思い浮かべていてくれたのかと改めて思うと、何とも表現出来ない感情を持っている自分がいた。涙なのか嗚咽なのか、そんなものがこみ上げてくるような締め付け感と、申し訳なさと優越感。
 正体の分からないこの感情の後ろには、恐怖心が見え隠れした。今度会ったとき、奴の顔を見て普通の会話が出来るのか、それさえも自信がなかった。
 
 その日から、俺は分かりやすく真司を避けた。
 深夜のバイトを増やし、真司と顔を合わせないように、大学でも違う喫煙所で過ごすようになった。夜に家を出て、朝、真司が起きる前に帰宅。それから昼に起きて学校に向かう。週末はバイトの他に、用事もないのに、わざと終日外出をした。真司からの誘いにはバイトを理由に断りを入れ、ほぼ週七日、バイトを掛け持ちするようになった。
それ以外に選択肢がなかった。どうやったら真司と今まで通り顔を合わせて話したり、冗談を言い合ったり出来るのか、俺には到底想像できなかった。
 何よりも、どんなに寝不足でも過ごしたかったあの朝の至福感を感じること自体、俺には許されない気がした。
 真司は、懲りずに冷めたコーヒーを置いてくれていた。それを見る度に、俺は何かに押し潰されているような息苦しさを感じた。
 気力よりも、体力が、すぐに限界に達した。学校は寝に行く場所になり、出欠をとる授業は単位が取れるかのギリギリになるまで欠席が続いた。
 ある日、バイトから帰って来てそのまま部屋へ入ろうとした俺の肩を、真司が掴んだ。
「お前、どうしたんだよ」
 一呼吸ついて、俺は真司の顔を見た。その顔には、分かりやすくイラつきが見られた。
 真司の目を見て話すなんて久々だな、そう思って、たかだが三週間も経っていないことに気づく。
 あー、と目を逸らしながら頭を掻く。あの感情が湧き上がってくるのが分かったからだ。
「ちょっとさ、金に困ってんだよ。あまり、言えたもんじゃないんだけど先輩と行ったスロットでかなりすっちゃって。」
いつかは聞かれるだろうと、用意していたセリフを言うと、真司の顔は強張りを解く。
「なんだよ、そんなんなら俺に言えよ。」
一転、同情と戸惑いを含んだ表情の真司は、大丈夫か、と続ける。
「おぅ、もう落ち着くからさ。さんきゅ。」
そう言って、疲れてんだ、寝るわ、と部屋へ向かった。
 体は継続的な寝不足と疲労でクタクタだったが、布団に入っても眠れなかった。いつまでもこんな生活出来るわけない、という事は分かり切っていた。
 嘘をついた事よりも、俺の言葉を微塵も疑わなかった真司に対して罪悪感を持った。
 あいつは、どれだけ俺の事を信じているのだろう。たかだが数カ月前に出会った俺のことなんかを。
 
 その日、深夜の交通整備のバイトから帰ると、真司がリビングで寝ていた。テーブルには灰皿に押し込まれた大量の吸殻と空き缶が置いてあった。
 酒に強いわけでもない真司がここまで飲むのは珍しい。何か嫌なことでもあったのか、と心配になるのと同時に、もしかして今朝、俺が言ったことに対してだろうか、と思いがよぎる。
 そんな思い上がりなんて、と思うのと裏腹に、嬉しくて堪らなくなる自分が抑えられなかった。
 もしそうなら―。そんな風に思っても何もならない。そんなことは分かっているのに。
 付けっ放しになっていた換気扇を消す。窓からは、朝日の光がカーテンの隙間を見つけて入り込んできていた。部屋に舞う塵が、その光に集まるように踊りだす。
 
 俺は一体何をしているのだろう。真司を避けたところで、真司から離れたいなんて思ってもいない。
 酒のせいで小さくいびきをかいている真司を見ながら、どうしようもない衝動に駆られた。
 真司の身体を見つめる。頭の先から足先まで、爪にいたるまで。

 ―今なら、触ってもいいだろうか。
 ソファの横で膝を折り、右手を差し出した。真司は相変わらずいびきをかいている。顔に触れようとして手に寝息を感じて思いとどまる。
こいつに、触れたい。でも、触れてはいけない。
理性だけが、最後の砦のように存在していた。

愛おしい。俺は、こいつが愛おしい。
 もう、認めるしかなかった。欲情と共に、俺はこいつを好きになってしまった。いや、もしかしたら、出会ったその時から、俺は真司を意識していたのかもしれない。

空きカンと吸殻を片していると、物音に気付いた真司が起き上がり、初めて声を掛けられた時と同じ顔で笑った。
「なんだよ、起こせよ。」
すっかり太陽の光は部屋を占領し、朝を迎えていた。
「真司、ごめんな。」
 そう言うと、真司はソファから立ち上がって、何も言わずに俺の肩を叩いた。
「よし、久々に淹れてやる。」
 そう言って、真司はコーヒーを丁寧に淹れた。その顔は傍からも嬉しそうで、その日、俺はコーヒーのおかわりをリクエストした。
 酸味の強い、冷め切ったあの日のコーヒーを思い出しながら口に含む。
 温かくて、芳しい香りのするそのコーヒーは、これから俺が彷徨うだろう行き先の門出には不似合いなほど、旨かった。

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