「カンガルージャーキー」ep.11
シドニー二日目は、現地ツアーに申し込んで、ブルーマウンテンズとジェノラン鍾乳洞に行くことにした。涼子も真司も英語を勉強したい、という強い希望で、幾分日本語のものより安い英語のツアーを申し込んでいた。
昨夜早く寝たからか、朝は三人で近くのカフェでモーニングをすることにした。モーニングと言っても日本のように良心的な金額でもなかったが、空腹だった三人にとって、金額よりもボリューム重視でオーダーをする。
顔の大きさを遥かに超えたプレートに乗せられたサンドイッチを頬張りながら、ツアーの集合時間を気にして店内の時計を見上げると、昨日スーパーの入り口で見かけた、レインボーの旗が時計横の壁を大きく陣取っていた。この辺一体のお店は、どこにでもこの旗を掲げているのかもしれない。
あの時、真司はどんな顔をしていたのだろうか。
「同性愛者とかを認めよう、みたいな?」
そう発したあいつの声色からは、興味の色しか汲み取れなった。文化の違いを目の当りにした、という驚き。涼子に問いかけたあいつの顔は、嫌悪感を含んでいたのだろうか。
ちらりと真司を横目で見ると、サンドイッチからはみ出たチキンを食べるのに苦戦していた。
こいつが少しでも嫌悪の表情をしていたら、俺は一体どんな気持ちになったのだろうか。想像しようとしても思考が追いつかなくて、俺はそれをすぐに諦めることにした。
ブルーマウンテンズは、その名の通り一体が青みがかっていた。コアラの大好きなユーカリが発する有毒ガスによって、遠くから見ると森一面が微かに青い。象徴でもある三つのこぶのような岩は、スリーシスターズと呼ばれていて、昔この地方に住んでいた美しい三姉妹が、悪魔に連れて行かれそうになったのを可哀想に思った魔術師が彼女たちを岩に変えた、という謂れがあるらしい。悪魔に連れて居ていかれるのと、こんな有毒ガスの近くで永遠に過ごすのだったらどちらがましか、と三人で話していて、俺らは自分たちの真面目さが可笑しくて笑った。
ブルーマウンテンズ観光は遠くから森を見る程度であっさり終わってしまい、鍾乳洞に向かう。世界最古の鍾乳洞ということで、シドニーの周辺観光には欠かせない場所らしい。
洞窟の中は、本当に暗い。足元を見るだけでも精一杯で、ツアーの団体から離れないように、と散々ガイドに言われた。
でこぼこの暗い道のりを数分歩くと、目の前に急に幻想的な風景が広がる。砂糖をまぶしたかのように、天井から鋭角にぶら下がる鍾乳石がキラキラと光っていた。下からのライトの色によって表情を変えるその神秘的な風景は、ガイドの説明も耳に入らないくらいに美しく、俺たち三人はしばらく黙ってその風景に見入っていた。
「綺麗だね。」
やっと涼子がそう呟くと、俺と真司は小さくうん、と頷くしかなかった。
前を歩く欧米人は、熱心に写真を撮っていたが、画面に映る画像を見る限り、その美しさは到底写真には収められないようだった。
目に焼き付けようとじっとその光の反射を見ていると、なんだか涙腺が緩んできたのを感じた。あぁ、俺は今心から感動しているのだ、そう思ったのも束の間、こみあげてくるものは何か違う原因もあるのではないか、と思えてきた。
昨日の真司の反応を見て涼子が俺に申し訳なさそうな表情をしたのは、何故だろう。俺に同情するような表情をしたのは、どうしてだ。
考えれば考える程、答えがどんどん遠ざかっているような気がした。暗い洞窟の中、涼子と真司がその風景に感動している間、この瞬間こそ俺は素直に泣いてもいいのではないか。目の前に広がる光が、じんわりとぼやけては輪郭を無くしていく現象は、まるで自分の頭の中のようだった。
馬鹿馬鹿しくて、俺は声を出さずに笑った。情けない。情けない自分に嫌気がさした。俺は目の前に広がる美しい光を見ながら自らの内にある感情を打ち崩した。
俺は、いつからこんな臆病な人間になったのだろう。
ツアーを終え、ホテルに戻ってくると、時刻は既に午後三時を回っていた。荷物を整理していると、涼子が少し抜ける、と言い出した。ホームステイをしていた家の人にディナーに誘われたらしい。その家の子供が可愛いの、と満面の笑顔で言われてしまっては、何も言えなかった。涼子は俺たちよりも一カ月も前にシドニーにいるわけで、ましてや、今日がシドニーでの最終日には違いない。
俺と真司は涼子を送り出すことにした。ホテルまでステイ先のホストファザーが送ってくれる、ということで、俺と真司は急に手持無沙汰になってしまった。
「とりあえず飯食おうぜ、腹減った。」
腹をさすりながら、うまいコーヒーが飲みたい、と真司が言った。朝のモーニングが多かったのか、ツアーの途中で出されたランチボックスはほとんど腹に入らなかったのだ。
ガイドブックも何も持ってきていなかったので、とぼとぼ歩いてハーバーの近くにあったカフェに適当に入る。奥で世間話をしていただろう青年が、俺たちに気づくと明るく注文を聞いてきた。ブラックボードで勧められていたハンバーガーとコーヒー、カフェラテをそれぞれ頼む。
しばらくして運ばれてきたハンバーガーには、当然のようにチップスというフライドポテトが山のように乗っており、下手したらそのポテトだけで腹が膨れそうだった。
食後のコーヒーが運ばれてくると、真司はオーストラリアに来て初めてのコーヒーをゆっくりと堪能していた。香りを楽しみ、ゆっくりと口に運ぶ。ボディがないな、と分かったような口をすると、俺の頼んだカフェラテを一口飲み、それには満足したように唸った。
その日のシドニーはすこぶる天気が良く、ハーバーの景色は海外にいることを全身で感じられる程美しかった。
なぜ、こんなに空が高く見えるのだろう。
日本の景色を思い出す。俺が想像した東京には、視界いっぱいに入るビルや家が出てきた。土地の活用の仕方が違うのかもしれない。ここは、贅沢な程に一つ一つの建物がスペースを独占する。視界に入る建物は日本に比べて少なく、空が占める割合が多い。
「いいなぁ、俺初めてだよ、海外でこんな贅沢に過ごしてんの。」
そう言うと、真司はまたコーヒーを含んだ。
「まぁ、海外旅行自体そんな行った事ないけどさ。全部ツアーだったから、お前と涼子ちゃんみたいに英語が話せる人とくると、こんなにも時間を贅沢に使って色んな所に行けんだな。」
その顔は随分嬉しそうだった。
「これからケアンズとグレートバリアリーフが待っていると思うと、テンション上がるなぁ。」
真司はこっちがむず痒くなるほどの笑顔で笑った。
腹がいっぱいになったところで、遠回りして中心地を目指した。日は傾き、街は橙色を含んだ様相に変わってきた。冷えた身体は歩いていると段々と温まり、自然と歩調が軽くなる。
そんなにも長い時間を、真司と過ごすのは久しぶりだった。思ったよりも道が綺麗だとか、店の店員が可愛いだとか、内容なんてあって無いようなものだったけれど、過ごす時間は日本にいる時よりも穏やかだった。
ずっと、この関係を保っていたい。純粋に友人として過ごすこの時間が続けばいい。そう思う度に、俺は自分を責めるしかなった。
真司は何も変わらない。変わったのは、俺だけだ。
土産店を店外から覗いても、特に何も欲しいと思える程のものはなかった。真司は既にバイト先へのチョコレートを買っていて、それで所謂ショッピングは終わってしまった。
時間を持て余し、ホテル近くのストリートに差し掛かると、イングリッシュパブの看板が目に入った。まだアルコールを飲んでいなかったことに俺たちは同時に気づき、早速店内に入り、真っ先にビールを注文した。鳥南蛮もなければ「親父」も勿論いないが、俺らにとってその店の雰囲気は、十分つまみになった。