娘が死んだ。この張った乳をどうしよう。
しかし実は、考えるまでもない。
もうすでに決めているから。
母乳バンクに送るのである。
この世の中には、母乳が出なかったり、なんらかの理由があって母乳を自分の子に与えられなかったりするお母さんがいる。
たいていの場合、粉ミルクを使えば解決するのだが、一部の赤ちゃんはどうしても母乳が必要だ。
たとえば早産の子、低体重で生まれた子は腸が発達していないため、粉ミルクを消化吸収できず、腸が壊死してしまうことがある。
そうした赤ちゃんに飲ませるため、ある人格者の医師が『母乳バンク』を設立した。
以上のようなことは全部、母乳バンク協会のホームページに書いてある。
「人格者」の部分だけ、書いてない。(じぶんで、「じぶんは人格者である」とはなかなか言えないものである。)その部分は、娘が死んだ翌日、母乳バンクのドナーとして登録するために行った小児科で、助産師のおばさんに聞いた情報である。私は血を抜かれて検査を受け、母乳バンクの簡単な説明を受けた。それはまるでカウンセリングみたいだった。
さて、忘れても思い出せるように書いておこう。
母乳バンクに送るために、母乳を絞るのは簡単だ。以下のような手順にしたがえばよい。
まず、机を拭く。
そのあと、手を石鹸で綺麗に洗う。
爪の間、指の付け根、手首まで丁寧に洗うのが大事だとのこと。
洗った手は、ペーパータオルで拭く。汚いハンカチなんかで拭いてはいけない。
次に、すでに消毒して乾燥させている搾乳機を組み立てる。
搾乳機とは、要するに、乳房に空気圧をかけて母乳を絞り出す機械である。
私は、レバーを握りしめるとポンプが作動する、いたって素朴な作りのものを使用している。電動式のものも使用したことはあったが、中古のものを買ったからかいまいち使いこなせない。
レバーを、搾乳一回あたり何百回も手で押すのは、最初の方はすぐ疲れたけれど、もう慣れた。今のところは腱鞘炎にもならなさそうである。赤ちゃんを抱くことももうないし。(娘が生きていた頃も、あまり抱けなかったけど。)
もちろん、搾乳機を使わずに手で絞っても良い。
でも、これはなかなか難しい。
さて、搾乳機の準備ができたら、飲み物を持って机に座る。
この時、ひざにはナプキン代わりのタオルを置く。そうでないと、スカートやズボンが母乳でびしゃびしゃになってしまう(ことがある)。
母乳の出方と言うものは、自分の意志でコントロールが効かない。乳首を押すと、本当に思わぬ方向に飛び出していく。夫の目を、何度母乳で攻撃したことか。(意図的じゃないよ!)
しかも、出ているかどうかは自分ではいまいちよくわからない。「もう出てないだろう」と思って搾乳機から乳首を離すと、ぽたぽた垂れている。
こぼさないようにするのは無理なので、こぼしてもよいようにしておくのである。
搾乳機は机の上に置いて、まずは左側の乳房を取り出す。
ちなみに左側の乳房には名前がついている。
『エース』という。
この時、右側の乳首にも可能であれば何か紙を当てておく。
私は母乳パッドをブラジャーにつけているので、それを押し当てている。
それは、左側の乳首を圧迫している時、右側が待ちきれずに母乳を漏らすことがあるからだ。
ちなみに右側の乳房にも名前がついている。
『準エース』という。
この名前がついたのは、まだ母乳量が安定していなかった、産後数日くらいの頃だ。
助産師が乳首をひねったり押しつぶしたり(今思うと、押しつぶしたりはしていなかったけれど、その時は痛すぎてそう思った!)してなんとか最初に開通したのが、左の乳房だった。
母乳というのは、赤ちゃんが生まれたら自動的に溢れるほど出るわけではないのだ。
産後二日目くらいまでは、「乳首をひねりつぶすと(今思うと、ひねりつぶしてはいなかった!)かすかに表面が光る。これは水分がにじみ出ているという証だ」くらいの量しか出ない。
産後三日目くらいで、それが「なんとか頑張って一滴。もっともっと頑張って、もう一滴」くらいの量になり、赤ちゃんの口にまともに入る量が出るようになるのは、産後四日目、五日目くらいである。(個人差がある。)
まさに血のにじみ出るような努力を重ねて乳首をひねる産後数日目のどこかで、片割れより先に希望の白い……いや、黄みがかって、若干血の筋すら浮いているしずくを浮かべ始めたのは、左の乳首だったのである。
そこで私は左の乳房に「エース」と名付けた。
でも、右の乳房も本当に頑張っている。
左も右も、乳房の付け根から乳首の先まで熱い石のようにガチガチになって激痛にもだえ苦しみながら、母乳を生成しようとしている。
その右の乳房に、まさか「三下」とか、「補欠」とか、「出来損ない」なんて名前をつけられるはずない。
そこで私は右の乳房に、「準エース」と名付けた。
実はそのうち、私の専属助産師の執拗なマッサージのおかげで、左より右の方が……つまり、エースより準エースの方が母乳量が出るようになったのだが。
さて、搾乳の手順に戻ろう。
『エース』を尊重して左から搾乳を始めるが、その間準エースのお漏らしを危惧して紙を当てておこうというところまで書いたのだった。
エースをおもむろに取り出して絞り始めるわけだが、いきなり搾乳機を当てたりはしない。
まず、乳首のマッサージが必要だ。
これは、乳首に無数にあるという『乳管』を開通させるためのマッサージである。
乳首に指でつまみ、いろいろな角度から圧をかける。出てきた母乳はティッシュか何かで受ける。
乳管が詰まると、その管につながる部分の乳房に母乳がたまりすぎ、カチカチになって熱を放ち、乳腺炎になる。これになると痛いらしいし、母乳バンクにも送れないので、できるだけあらゆる角度から、乳管をマッサージする。
これをやると、カチカチの乳首が柔らかくなったのを感じるので、そうしたらやっと、搾乳機のカップを乳房に当てる。
そこからは、無心になってレバーを押す。
カシュ、カシュ、という音とともに白い薄い液体が、ボトルにたまってゆく。
片方の乳房につき、搾乳は七〜十分程度。
左が終わったら、次は同様に乳首のマッサージから、右も行う。
絞り足りないなと思ったらプラスで数分ずつ。
なので、左右あわせて、搾乳の実際の作業だけで三十分程度かかる計算になる。
産後四十日程度、娘が亡くなって二週間程度経っている今の私は、1回あたり80〜150ccの母乳を、一日に五回程度出すことができている。
(これもかなり個人差があるらしい。私は、娘に一度もまともに母乳を飲んでもらったことがないことも考えると、そこそこ多い方であると思う。母乳を増やすには赤ちゃんにたくさん直接飲んでもらうことだ、というのはよく聞かれる話である。ホルモンの分泌などが関係あるらしい。)
絞り終わったら、母乳を分ける。
まず、小さなコップに注ぐ。多くても30ccしか入らない小さなコップを、まずは娘の仏壇の前に置く。
骨壷ふたつと、葬儀社にもらった香炉、小さな写真を箪笥の上に置いてあるだけの間にあわせの仏壇。骨壷がふたつなのは、一つは墓に入れずにずっと手元に置いておくためだ。
「ずっとそばにいる」と私たちは娘に約束してしまった。(放っといて外出しているので、約束を破っているが……)そのために、梅田の綺麗な仏壇屋で小さい骨壷を買った。たまご型で薄ベージュの小さな骨壷は、娘のイメージに合ってとてもかわいい。そのイメージも、私たち親の中で勝手に作り上げたものだけれど。
娘の骨の一部が入った小さなたまごと、生まれたての娘がかすかに微笑んでいるかわいい写真に私は小さなコップを供えて、線香を灯す。
そして、残りの母乳はプラスチックの母乳バッグに入れて、冷凍する。日にちと時間を書いて、冷凍庫の中のできるだけ平らなところに置いて、凍るまで待つ。
もちろん母乳バンクに送るためである。
でも、たまに娘のために取っておく。母乳がいつ出なくなるかわからないからだ。
赤ちゃんと引き離された母親は、しばらくすると母乳が枯れてくる、という話を聞いたことがある。母乳をたくさん出すには赤ちゃんに飲んでもらうことだ、という話の逆なのだろう。
でも、離乳食が始まるまでは娘に母乳をあげたい。離乳食がはじまるのは大体生後5ヶ月くらい。ただ、娘には心臓の病気があるから、発達が少し遅く、離乳食の始まりも遅いかもしれない。でも、一応5ヶ月くらいまでは。それがすぎたらベビーフードをあげよう。
5か月まで、母乳を出し続けるのは現実的ではないかもしれない。そのうち、エースと準エースに、私にはもう娘がいないことがばれるかもしれない。私は毎日びくびくと、乳房にばれないように乳を搾っている。
でも、少なくとも四十九日までは。まだ娘のからだが、全部私の手元にある間は、乳を出し続けたいと思う。
それは娘が生きていた日数よりも長い期間になる。
さて、母乳の始末が済んだら搾乳器を分解して、洗って、消毒する。洗剤で洗った後、アカチャンホンポで買ったセットで、電子レンジでチンするだけ。
以上が母乳バンクに送るための搾乳の手順である。簡単でしょ? ひととおり、四十〜五十分くらいで終わる。それを、今の私だと大体四〜五時間ごとに繰り返す。生後一ヶ月半の赤ちゃんを手元で育てている人に比べればたったのこれくらい、超軽作業である、と思う。育てたことがないからわからないが。
私は生後一か月半の赤ちゃんを育てたことがない。
それは、一人目の赤ちゃんであった娘を生後一か月足らずで亡くし、歳が離れた弟妹もいないから当たり前なのだけれど、じゃあ生後二週間や一週間の赤ちゃんを育てたことがあるかというと、それもない。
娘は生後たった3日目で心臓の手術を受けた。もちろん全身麻酔。手術当日の朝、私たちは娘が麻酔をかけられて手術室に運ばれていくのを見守った。もう麻酔をかけられて眠っていた。
そのあと、娘が麻酔から目覚めることはなかった。ずっと鎮静をかけられて眠っていた。たくさんの管につながれ、おむつにおしっこやうんちをすることも、ミルクを飲むことも、ベビーバスで沐浴をすることもなかった。体温や脈拍、皮膚の状態は医師や看護師によって管理されていて、私たちが娘にしてやれることはなかった。毎日会いに行って、今日は目を覚ましているか、体のむくみはとれているか、状態が悪くなっていないか、心臓は止まっていないかとびくびくしながら、娘の体で自由に触れる数少ない部分である、小さなやわらかい手のひらや、髪の毛なんかを触り、自分に言い聞かせるためにも、「大丈夫だよ。明日はもっとよくなっているよ。お医者さんが絶対によくしてくれるよ。」と、話しかけることくらいしか、私たちが娘にしてやれることはなかった。
娘は本当に管やセンサーだらけだった。
特に亡くなる直前は本当に何十本もの管が娘につながれていた。
左手は、何十本もの管がつながる点滴が差されて、間違って抜けないように包帯でぐるぐる巻きになっていたので触れられなかった。足と、右手にはセンサーがついていて、おそらくこれは酸素飽和度を測っていた。
額にも、酸素の何かを測るためのセンサーがつけられていた。これは新生児用ではなかったようで、よく取れた。最後の方は、取れないようにテープが貼られていた。
胸には心拍を測るためか、たくさんの小さなセンサーが取り付けられていたし、そして、皮膚と骨が切り開かれて、心臓が見えていた。
娘の胸は開けられて、そこからたくさんの管が取り付けられていた。たまった液体を排液するためのたくさんのドレーン。そして、心臓や肺を助けるための人工心肺。いわゆるエクモというやつ。
娘の胸からはたくさんの太いプラスチックの管が出て、そこを真っ赤な血が通っていた。それはまさしく娘の生命線だったから、下手に動かしてはいけないと思って触ることはなかったけれど、娘が亡くなる本当に直前は、その管に一度触れた。ほの温かかった。娘の血が通っていたのだ。それは娘の血管のようなものだった。
それらのたくさんのたくさんの管やセンサーが、娘が死ぬ直前は、少しずつ外されていった。
娘が死ぬ日の朝、額のセンサーがとれかけてエラー音を出していたから、私は優しい男の看護師に告げて、貼りなおしてもらおうかと思った。そうしたら、その優しい人は、「とってしまいましょうか。じゃまですもんね」と言ってくれた。
「お願いします! よかったね。よかったね光ちゃん。邪魔だったねえ。とってくれるんだって」と私は本当に心から喜んだ。
センサーは本当に邪魔だった。何度も貼りなおされて娘の額の皮膚は赤くなっていて、テープのせいで目の皮膚は引っぱられ、本当にかわいそうだったのだ。
わかっていたけど。そのセンサーがもう必要ないと言うことは、娘の脳がどれだけ酸素を消費しているかということを調べる必要なんてもうないということで、娘の脳に後遺症が残るかどうかはもう何も関係がなくなっているということで、娘はもう数時間後に絶対に死ぬと、みんなわかっているということだと、わかっていたけど。私はその時、本当にうれしかった。
それから、少しずつ娘の管や点滴が外れていった。娘の手につながる管が少しずつ外され、薬液を送り出すポンプが少しずつ止められていった。
でも、娘が死ぬ本当に最後まで、エクモの管や点滴の管は、完全に外れることはなかった。
完全に外れたのは、娘が死んで数時間後だった。お医者さんが娘の胸を閉じてくれて、本当に体だけの、小さな娘が、広い病室の真ん中にぽつりと寝かされていた。
その姿は、生まれた瞬間以来だった。生まれてすぐの娘を、私の裸の胸に置いてもらった、その時以来だった。
その翌日、私は母乳バンクのドナー登録に、兵庫県の小児科に行った。
その小児科で通された和室には、母乳育児の本がたくさん置いてあったが、その本の隣に、赤ちゃんを抱いた母親の小さな人形があった。
その母親は赤ちゃんを縦抱きしていた。赤ちゃんの体を腕で抱きしめ、腰と首を支えて、体を密着させて抱いていた。
私は自分の娘を縦抱きしたことがなかった。
首が座っていない新生児はもちろん、横抱きすることが多いのだと思う。(何度も言うけれど、新生児を育てたことがないからよくわからないけれど)
けれど、縦抱きは横抱きよりもずっと、体を密着させて、赤ちゃんと自分の一体感を感じられるような気がしていた。人間を抱きしめるとき、大体相手の人間は縦になっていて、私も縦になっているからそう思うのかもしれない。縦抱きの方が、赤ちゃんを抱きしめているという感じがすると思っていた。
けれど、私の娘はずっと管につながれていたし、そもそも手術を受けてからの二十数日間は抱くことすらできなかった。
最後の数時間は抱かせてもらったものの、横抱きだった。(それはとても尊い時間だったけど!!)
その娘を縦抱きできたのは、娘が死んですべての管が外れ、胸が閉じられたその時だけだった。
エクモや点滴のポンプ、たくさんの医療器具は運び去られていた。娘が生きている間は、部屋は足の踏み場もなく、分厚いコートを医療器具にひっかけないように横歩きにならなければいけなかったけれど、今はもう、ダンスだって踊れそうなくらいに広かった。
その広い病室にぽつりと、小さな新生児用のベッドが置いてあり、娘が寝かされていた。
その娘をおくるみでくるんで、縦抱きさせてもらった。
娘の小さな体の重みを私の肩、胸、腹で感じて、まだほのかに残る体温を抱きしめた。
ずっとこうしたかった。ずっと、娘を全身で抱きしめたかった。
そのまま私たちは、娘を抱いたまま、まるで本当に生まれた直後に赤ちゃんを抱いて退院する人みたいに退院した。
そして翌日、私はあふれる乳の行き場を求めて、母乳バンクに登録しに行った。