【第0章|Lunatic】〔第0章:第2節|ひとひらに舞う〕
一年後。
「なぜです!?」
バタン! とドアが勢いよく開き、二人の男が出てきたと思えば、二人はそのまま、照明の点いていない廊下を急ぎ足で渡り、別の部屋へ入った。
ある夜のことであった。
ビルの上階にて、スーツ姿の男二人は、次々と部屋に入っては、情報端末や電子機器を操作し、ときに破壊し、ときに鞄に詰め、さらに幾つかの書類を手に、部屋を出る――ということを、繰り返していた。
フロアにあるのは、両手の指ほどの部屋。その半分はもう、ドアが開けっ放しにされている。
「どうして!?」
二人のうち若い方が、強く疑問を呈するも、固い表情の方の男は、焦りを露わに、廊下をずんずんと進む。
「ダメだ。撤退しろ」
強く言い返す。その声は誇張するような低さだったが、真剣なそれであった。
「どうしてです!?」
「リストの原本だけ運び出せ。表に車を用意させろ。だが誰も乗せるな。俺たちは裏から出るぞ」
「ちょっと!」
「ホックスリーの遺品はどこだ? あの印がなければ」
「ちょっと待ってください!」
男の秘書らしき若い方は、男の前に立ち、行く手を塞ぐ。が、男は身を捻り、前へと進んだ。
「待てない! 急げ! さっさと車を用意させろ。裏口からは地下鉄で空港に」
「ちょっと! 相手が誰か説明を――」
「そんなことどうでもいい! どうせ気にしても打てる手はない!」
フロアに響く、叱責の声。冷静さを欠いた無作法無造作な声。意識のラグが一瞬生まれて、男は自分の口をキュッと閉じる。
しかし、秘書も負けてはいない。
「なんでですか!? こっちはいざとなれば、銃があるんです!! 来たら撃っちゃえばそれで終わりです!!」
証明をすると言わんばかりに、秘書は手鞄に手を突っ込んだが、男はその手を鞄ごと押さえつけた。そして、小声ながらも脅すように言う。
「お前は、なにも知らない! ――印は持ったか? さっさと行くぞ!」
「ちょっと――」
爆発音。
遠くから、強い振動が響く。遠くの狂騒の声が重なり、途絶えずに足もとから伝わってくる。
しかも長く、止まることなく。
「ダァっ!? ……クソッ! 来たか……」
爆発音が続く。二人の男はそのまま、突き当たりの非常口へ。と、フロアの奥から轟音が響いた。
「アレなんです!? もしかして、こっ――」
「だから言ったろうが! 早く!!」
「相手は誰です! どこの組ですか!?」
「いいから行くぞ!」
ドアを開ける。暗闇の階段が下まで続いている。男は人差し指を立て、秘書を黙らせると、耳を澄ませる。
…………。
大丈夫だ。まだ、誰も来ていない。
少しだけ、深呼吸を――「……行くぞ」
建物が揺れた。小さな地震でも起きたときみたく。
階段を降りる二人。
男の心臓は段差を降りるほどに、徐々に落ち着きを取り戻してきた。が、秘書は我慢できずに、男に訊いた。
「なんなんですか? 相手は? 仲間は!?」
階段が揺れる。降りれば降りるほどに、震源に近付いているようだ。
「どーセ死んだ! それより、急いで駅にマーティーンを呼べ」
「マーティン!? 本気ですか? マーティーンは『最終手法』ですよ!?」
「本気だ! 急げ!!」
建物が大きく揺れ、階段を踏み外す。
数十階の高層ビルを、一心に階段で降りる。それほど追い詰められているのだ。
「クソッ!!」
「だから、なんなんです!? どうして――」
「いいかラ!! さっさと行くぞ!!」
「いいわけないでしょ!! 情報が無ければ戦えません!! マーティンにもなんて説明を――」
悲鳴と爆発音。揺れる階段。
「いいから、言われた通りにしろ!」
「どうしてやり返さないんですか!? どうして逃げなければならないんです!? どうして――」
どうして、そんな死に物狂いなんです!?
踊り場に降りた秘書の首を、男は壁に締めるように押さえつけた。
「お前はなにも分かっていない!!」
憎しみにも似た、嫌悪の混じる怒声。
「だから、なにがです!?」
秘書は、いつもの秘書らしからぬ声で、同じくらいの怒声を返す。
「いいか! 相手は――」
ダーーン!!
と、容赦なく壊す勢いで、二人のいた踊り場の、階段上のドアが開いた。
人工物が燃えたときの黒い煙が薄く、縦に通る階段に舞い落ちる。
――そこで、逃げ出しておけば。
――逃げ切れたかもしれ。
なかった。
黒い煙は縦に裂けていた。
気付いたら――というには、あまりに遅い。
秘書を押さえつけていた男――の、腕が。
なかった。
二人の間に、三十センチほどあろう紡錘形に湾曲した刃が、壁にめり込むように突き刺さっていた。
男の腕を肘から両断して。
ぐ――、
「ぅガァぁああああああああアアアアアアアアアアアアアアア!!!????」
薄い闇の中、黒黒しく、肩を押さえた男から血が噴き出す。
秘書の目は、その見たことのない謎の刃と、暴れ出しそうに絶叫する男を交互に見る。
交互に見る――ことしか、できなかった。
動けなかった。今起こったことが、信用できない……。
「……ァ、ニ……逃げろ!」
吃るような、かろうじて振り絞られた声で、壁にもたれて倒れた男は、秘書にそう言った。
「逃げろ……。――あ、相手は〈ソレット〉だッ!」
吐血した男を見ていた秘書は、我に返る。
我に返って、ドアを見上げた。
それが最後に見た、まともな景色であった。
銀色の一閃。
真っ直ぐ縦に。
空気を切り裂いて。
顔前に迫
血溜まりと化した、非常階段の一角。
轟く破壊音は止みかけており、一人の忍び装束のような格好の人物は、その血溜まりと断切された肉片の転がる踊り場に向かって、ゆっくりと階段を降りていた。
静かな縦長の空洞に、薄い鼻歌が混じる。
足の裏が、血溜まりを踏んだ。水の跳ねる音が重なる。
顔は見えない。暗いから――でもあるが、ゴーグルのようなものを身につけ、フードのようなものを被り、口もとも特殊であろうマスクが覆っていたからだ。
が、その人物は自身の耳の方へ手を伸ばすと、装着していたマスクを剥がすように取った。口と鼻が露わになる。
顔の下半分が見えればわかるほど、露骨な――女であった。
女は深呼吸をする。
「……ぁラ、らンダ、お、おぁエんラ……」
顔の前半分が裂かれ、後頭部を壁に打ちつけた秘書は、その知的な美貌は、原型の影を失っていた。血液を中心とした体液がぐちゃぐちゃのどろどろに塗れて、深い傷は修復できないことを容易に思わせている。
それでも喋ろうとして、声を出した男に対し、装束姿の女は、頭を傾げた。
「まだ喋れたんだ。アンタ、凄いね」
「……ジァ……、じゃ、キャら、なンダ……おなエラ……!」
「酷いのは顔だけでしょ? 立って歩けるんじゃないの?」
そんな当たり前のことがどうしてできないの? という調子で、女は秘書の男を見下したように――というか、実際見下して、素通りする。血溜まりに落ちた紡錘形の刃を手に取り、壁に突き刺さったままだったもう一本も、引き抜いた。
刀身の太い、半月型の二本の刃。
女は両手でそれを持ち、自分の顔を確認するように、恐る恐る震える手を上げた男の前で――目の前で、膝を曲げた。秘書の手が止まる。
「な、ナいを――」
「喋ったことには感心するわ」
女は両手の刃物を擦り合わせ、ぐったりと投げ出された、逃げる気のない男の足に血を垂らす。
「顔も悪くない。アタシの好みじゃないけど、知的過ぎる気もするけど、それでもま……下手なブスより全然好き」
表か裏か、右か左か――半分は血と痛みに紛れた秘書の顔では、その両刃刀の詳細まではわからなかった。が、女は目の前で、ひたすら血を拭うように、秘書のスラックスに垂らし続ける。
「見逃してほしい?」
女は口もとに笑みを浮かべ、秘書にそう尋ねた。その奥には、既に事切れたであろう、しばらく動かない腕のないボスの姿が。
秘書は頷いた。自分がこれ以上悪化しないよう、慎重に。しかし、明確に。
震えながら。
「でも、アタシが見逃した程度じゃ、助からないかもしれないよ? それでも?」
震えながら――頷く。
血流が漏れ出ている。理屈的に言えば、速度を落とし、これ以上出血多量にならないようにしてほしいものだが、人体のシステムは負傷に対しかなり敏感で、大袈裟だ。
「アタシさ、生命力の強い男は好きなんだけどさ……」
血の回る頭の中は、体感の外気と比べれば冷静だった。この状況を乗り切れれば――あるいは、一命だけでも取り留めれば――――、
「こういうとき、悪運強く生き残ってる方が、もっと好きなんだわ」
女の口もとが、三日月のような細い「弧」となった。
そして、左手にあった半月型の刃が、その先端を床に向けた。
ままに、ヅスッ!
太ももに強く、突き刺さった――というのが、本当に最後に見た、景色となった。
悲鳴も上げられなかった。
口を開いた途端に、一閃。喉笛に鋭い傷が深々と通り、血飛沫が上がる。
秘書の男に、その感覚はなかった。
その命は、なかった。
見えなくなった世界に、女の声が遠のいて響く。
「アぁ~あ……『滅殺』ってサイコー」
その声は、「悦100%」のものであった。