【第0章|十字架に掲げて】〔第0章:第1節|{疾走:シッソウ}〕
蒼い空と暗い森。
さも誇らしげに嫌みたらしく、したり顔で輝く満月。
降り注がれた黄ばんだ銀色の光線は、緩やかに波打つ山々の奥底にまで届き、空を覆う枝葉の隙間を貫いて、森の明暗をより明瞭にはっきりと描き出していた。
そんな夜であるからにして。
捕食者たちは慎重に夜食を探すも、被食者たちはより慎重に闇に留まる。
天幕を飛ぶ鳥はおらず、直立する草木は静かに、ただ乾いた冷たい風に囁くのみ。
その静寂と陰の渡る森の中。
橅の乱立する一帯に「ザッ」と擦れた音が弾け、空気が乱れ、落ち葉が微かに揺れた。
発生源はそこにはいない。音と風を置き去りに、今度は別の樹々の間をすり抜けるように後にしていた。
素早い。影から影へ移動し、闇に紛れて跳ぶように進んでいる。
鋭角に。鈍角に。左右に。ジグザグに。
月明かりの下に一瞬出たと思えば、纏うような闇の中へ消え、二つ三つと陰を渡り跳ぶ。
人の手が入った事の無さそうなほどに深い山。その斜面を駆け抜けていたのは、奇妙な格好をした一人の青年であった。
枯れ色の半袖と短パンの下からは、錆色のインナーが懸命に振られる両手両足の首までをも覆っており、遠目から見ると現代的なスポーツウェアに見えるシンプルな格好。しかし寄って見れば、その質感が全体的に粗く、現代よりも古来に近しい背景がありそうな服であると言うのがよく分かる。それを証明するかのように腰の左右には一本ずつ、短い刃物を納めていたのであろう鞘が見えているも、柄が見えているのは、左のみ。右腰の方は空だった。
細い樹の幹に手をついた青年は身体を前に弾くよう、かけた掌を強く後方へと押す。後頭部で束ねられた燻んだ橙色の髪が、斜面を降下する青年を追うように靡いている。元々は幼顔で優しげな顔つきの青年であったが、今その形相は文字通り必死であり、柔らかい雰囲気などどこにもなく、ただただ決死に塗れていた。青年は先に伸びていた太めの枝を足場にして、さらに前へ自分を飛び出させる。そのまま枝を二、三跳び進み、再び地面へと足裏をついた。
着地して一回転。足を止める事無く、平地の闇へと自らを突っ込む。
動悸が激しく、呼吸は荒い。汗と疲労で、膝も太腿も悲鳴を上げている。正確に疲労なのか痛みなのかは、もう判断がつかない。
虫も動かないような夜に独り、ただ両足を全力で、交互に前へと出し続けている。
――せめて、秋であったなら…………。
青年がそう思った途端、背後で鋭い音が響いた。
この数十分で幾度も聞いた音。青年は進行方向を左斜めにズラし、樹々の間の闇を抜けた。
近付いている。
近付いて、来ている。
足袋のような簡素なデザインの履き物が、小岩を踏んで枯れ葉を蹴り飛ばし、小枝を踏み折って前へ進む。
青年は小柄で、自然色の全身が迷彩機能を果たしている上、素早く走り続け、影から影へと跳ぶように進んでいたが、それでも――、
「嗚呼っ! クソッ!」
肌が逆立つような気配と共に小さな悪態が漏れて、再び鋭い音が響く。
超至近距離。具体的には、左耳の後ろ辺りで。
見えてなくとも気配で躱すように、青年は前に出した右足に体重を強引に乗せて前転。肩から強く地面に打ち転がりながらも、すぐ傍に立つ櫟の樹に回り込むと、その陰に身を潜める。
――ビギィギギギギギ…………。
軋むような音が聞こえた。鋭くは無い、寧ろ落ち着いているような音。
緩やかな……品定めのような音が、内耳に響く心臓の叫びと、ざわめく枝葉の間に響く。
立ち止まった所為で、体の内側に感覚が向いてしまう。抑えつけている自分の呼吸が深呼吸を求めているが、今は無視する。特に足の筋肉が痛み、関節に負担をかけている自覚もある。
全身疲労に塗れ、あとどれほどこの状況下にいるのかも分かっていない。
左腰に短剣が1本。これだけで、なんとかするしかない……。
好ましい状況ではないが、なんとか状況の打破をッ!?
鋭い、音。
右手に激痛。間一髪で躱すも、痛みが広がる。
その原因は青年が身を潜めていた幹に、その先端を鋭く深く突き刺していた。
異音の正体は、枝だった。
青年が身を潜めていた櫟ではなく、目の前に自生していた別の櫟の枝が不自然に大きく撓り、その先端を青年目掛けて突き刺してきていたのだ。
右手の外側の皮膚が剥けるほどに、鋭く。樹の幹に先端が突き刺さるほど、強く。
青年は体勢を低くして、枝に背を向ける。その瞬間には走り出す。
身を隠す事で却って隙を突かれてしまった。青年が今相手にしているのは、おそらく視認による索敵能力は無い。もしくは使えないか、使っていない。
分からない事が多過ぎる。可能性が、多過ぎる。
幹の間を避け、草を踏み飛ばし、陰から影へ。
考える余裕も、ひと息吐く時間も与えてはくれない。
そろそろ、体力的な限界も近、イッ!?
進行方向の両側に立っていた樹。十メートルほど先の2本の樹が、その幹を大きく反らせ、青年の進行を阻害するためと言わんばかりに、地面に向かって大きく倒れた。枝葉の折れる音が混濁し、地面が僅かに揺れ響いた。青年は左足で弾くように地面を蹴ると、右斜め前へと方向転換。さらに倒れかけ前転を一回。すぐ立ち上がり、目を見開いた。
マズったッ!! そう悟ったのは、空中での事だった。
ちょうど右横から大きく撓っていた樹の幹が、糸が途切れるように綺麗な円弧を描き、青年に向かって薙いできた。
無造作に払われた青年は、地面や根っこに全身を打ちながら、森林の外へと投げ出された。真正面から思いっ切り受けた所為で、両方の肋が折れたかと勘違いしたほど、強烈で鈍い痛みだった。
………………折れてない……だけ、マシか………………。
転がり着いた地面は、これまでよりもはるかに固い地面だった。
痛みですぐには目を開けられないが、顔に当たる感覚で分かる。……人間の、人工物。
コンクリート。
道路だ。あまり使われてないのだろう。表面は多少古ぼけているが、舗装はそこそこ綺麗なままだ。
空気と同じく乾いて冷たい路面に両手を着き、青年は無理矢理上体を起こす。軽い吐き気と頭痛も催したが、気にしない。というかできない。
気に留めている暇はない。
青年は立ち上がった。左右に伸びる山道の真ん中で。
現象が起こるのには必ず、理由とも呼べる、その起因と結果を結び付ける「なにか」がある。
偶発的なものか、反射的なものか。突発的なものか、経過的なものか。
認識的なものか、感覚的なものか。物理的なものか、現実的なものか。
人外的なものか。
無数とも呼べる幾つかの「なにか」に基く、現象。
左腰に残った短剣を抜く。胸の前で逆手で構えるが、目の前の樹々が動き出す様子はない。
道は照らされている。全身の毛穴を逆立たせるように周囲の気配を探り続けながら、青年は頭の中の記憶を辿った。
……………………右手側――――南方に、街があったはず。
二、三キロほど南下すれば、郊外に辿り着けるはずだ。
不用意な人間との接触は避けろと言われてはいたが、今回は流石に止むを得ないだろう。
このまま向こうが動かないのなら、こっちは道路伝いに進めば良いだけだ。
が、しかし。
――そうは問屋が、卸さない。
異音。左後方。
一瞬の油断が、南を向こうとした青年の左手に、枝が巻き付く隙を与えた。
後方の森から伸びてきた枝。
今走ってきて追い出された森ではなく、道路の向かい側の森から伸びてきた枝が、青年の左手首を捉えた。
「アァッ! クソッ!」
左手の短剣を放り、右手で掴む。と同時に、青年は左手に力を込め、引いた。
が、さらに別の枝が肘を捉え、さらに別の枝が肩を捉える。
「マジかよッ!?」
短剣の刀身を突き立てるも、巻き付いてくる枝葉の量が明らかに多く、間に合わない。
二、三本切断する間に、他の枝がうねるように巻き上がる。左腕全体はもう、かなりキツく太く縛られた上、その枝の数々が青年を体ごと持ち上げるように、夜空を目指して力強く上がっていく。
青年の足がコンクリートから浮いた。
腕一本で持ち上げられた身体。諦めず枝を切ろうとする青年。
だがその右腕も、無数の別の枝が捉えていく。
蛇のように絡みつき、蔓のように縛り上げ。
短剣は落とさなかったが、青年の両腕は真横いっぱいに開かれ、逆に両足はぴたりと閉じさせられてしまう。その間も際限無く、容赦無く枝は続々と巻きついてくる。腕以外にも腰や脇にも回り、青年の臓器が圧迫され、呼吸が苦しくなるほど、ギチギチと、グルグルと。
そして突如、止まった。
たかだか十秒ほどの出来事であった。
――――――――。
……………………。
アスファルトから二メートルほど浮かせられ、両足は動かず。両腕も動かず。
踠く事さえ許されない、疲れ顔の青年。
その青年の肌が、「なにか」の気配を察する。
ヌルリ。
と。目下に立ち並ぶ樹々の隙間から、道路に闇の一部が溶け出てきた。
夜に溶けてしまうほど黒い、液状のような、流動する闇黒の塊。
それは靄のようなものを振り撒きながら、波打つように混濁し、起き上がった。
闇から滲み出たそれの輪郭。道路の真ん中で月明かりを受けたそれは。
その「なにか」は、人の形に見えた。
フードを深く被り、マントで全身を覆ったような、真黒のフードマント。
輪郭は淡く靄掛かり、裾や袖は薄い風に靡き、闇に溶け出しているように見える、民族性や宗教性の高い様。
その中身が、人かどうかは分からない。中身があるかどうかも。
質量を感じさせない、軽く薄い気配。しかし濃密で黒い塊のその「なにか」は、一切の挙動は見せず、車道に立ったまま、ただそこに漂っている。
フードマントは、動かない。
なにかを窺っているように。
「君は、なんだ……?」
青年は掠れ声で訊いた。
フードマントは、滑るように地を動くと青年のすぐ真下に来た。黒い瘴気が後を追うように燻り、散るように消えた。長く広い袖が、その右手らしき振る舞いがゆっくりと持ち上がると、黒いフードの先を掴んだ。……たぶんフードで、たぶん「掴んだ」のだろう。
そしてゆっくり、フードが捲られた。
「……マジかよ……」
諦めの呟きが漏れる。
どこかで、カラスが鳴いた。
月光に照らされた青年は、磔刑の聖人のようだった。