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desty2 長編小説 R15 BL 9431文字

destyー薄紅のきみIIー

海辺に近いと沖に向かうカモメが朝を知らせてくれる。

路田旅館の五階にある特等室、胡蝶蘭の窓はブラインドと厚手のカーテンを締め切ったままだ。

それでも何処からか初夏の朝日が隙間から入り込んで絨毯にボーダー柄を作る。

夏樹の肌とシーツは真昼の日差しを浴びるミルクで出来た真珠の様に俺の肌を一晩中溶かしこんでいた。

事後は口付けあっていつの間にか深く眠っていた様で、夏樹の身体を抱きしめた。

こんなに心地よい眠りはいつぶりだろう。

「なつきぃ……………」

…何だか変だ。

先程から甘い香りは相変わらずシーツからしているけれど、長い髪が一向に指に絡まらない。

もっと言うと、夏樹の規則正しい吐息とミルク肌の温もりがいつからか感じられない。

「ん……………」

路田旅館十代目、路田佑磨は至福のまま閉じていた目を開けて瞬くと、そのまま固まった。

そして裸身のまま半身をベッドから起こして特等室の中を何度も見渡した。

ガサガサとシーツがマットレスを右往左往する様な音を立てる。

「夏樹?」

バスタオルを腰に巻いてベッドを出る。
ユニットバス、オーシャンビュー露天風呂、簡易キッチン、一応と思いウォークインクローゼットの中も探したがミントグリーンの髪は居ない。

ー気が変わったのかも知れないしー

佑磨は寝乱れた髪をかきむしりながらため息を吐いた。

自分のスマートフォンを探そうと、この特等室の電話機を見つけた横に白い封筒が置いてあることに気がつく。

ー 路田 佑磨 様 ー

突然居なくなってゴメンね。
仕事で東京へ行くんだ。

佑磨さんの魅力で、心弾む旅になったよ。
近いうちにまた必ず泊まりに来るので部屋空けておいてくださいね。
僅かばかりですが、お代も置いていきます。

それでは、また。

ー コンポーザー、マニュピレーター、アレンジャー 地崎 夏樹 ー

白い封筒の中には9万円が揃えられているのを佑磨は確認する。

「何で…胡蝶蘭の一泊の値段ピッタリなんだ」

佑磨は封筒に万札を手紙を戻し、それらを一度机に置き、胡蝶蘭…この客室のシャワーを浴びにユニットバスへよろめいた。

数時間後、二階の事務室からは佑磨のスマートフォンの通知音とペンを走らせる音とPCのキーボードが鳴る音が響く。

机に置かれたドリンクであるレッドブルと弱炭酸水の割合は1:1。

SNSの通知は親友、田宮 耀一からのメッセージ。

『今日くらい "みぞれ"に寄ってけよ』

みぞれとは、耀一が経営するギャラリーのことで、旅館から徒歩五分ほどの所にある。

耀一と佑磨は高校からの付き合いだ。

だがしかし、佑磨は目の前の書類に必要な調べ物に熱中していてそのメッセージに気がついていない。

ソフトウェアの更新のメッセージがPCの画面上に表示されると、佑磨は深いため息を吐いた。

積み上がった書類と時計を見ると、大層な時間を費やした事になるが作業はというと進んでいない。

佑磨は1:1のブレンドドリンクを飲みながら事務所の中を見渡した。

不意に、

珍しそうにきょろきょろと事務所を見渡すミントグリーンのスーパーロングの髪、

泣いている佑磨を見下ろすアッシュグレーの黒目の大きなカラーコンタクト、

ソファーに降ろされるレザーパンツに包まれた細い腰、

の夏樹が佑磨には鮮明に思い出された。

佑磨はパソコンにインストールの準備をさせ、
封筒と財布、キーケースとスマートフォンを持って路田旅館の玄関に鍵をかけた。

「佑磨くん。今日は少しだけ顔色が良いですが、なんだか疲れているようですね。
何かあったのですか」

茅場旅館次期当主、十代目 茅場総士は敷地内ロータリーの近くのハーブガーデンの手入れをしている。
こんな事、従業員にやらせても良いと思うのだが。

今日は動きやすいように髪を結ってあり、メッシュキャップのアジャスターからテールにしてある。
ガーデニングエプロンにワークパンツ、レーヨンとコットンのキーネックシャツだ。
汚れても問題ない様に、足元は大型フェスで見かけるようなラバーブーツ。
ワークパンツのポケットにはスプレイヤーや裁ちバサミなどが下がっている。
総士の近くには作業用ワゴンが待っている。

総士は基本的に和装だが、ラフな服装もこうして難なく着こなす。

「別に…何も無いですよ。いつも通りです。
そんな事よりハーブ植え替えるんですか」

「いい質問です!これから青紫蘇、バジル、セージ、アニスを植えるのです。
お花はサルビアとマリーゴールドを植えますよ。野菜はゴーヤ、ミニトマトです」

総士はクセのある長い前髪をダッカールクリップで留めて、色の白い頬っぺたには泥が付いている。

総士は左利きなので左手に熊手の様な多機能スコップを持っていて、
ワゴンの中からシードを小分けにしたパッケージを手際よく取り出している。

鼻歌でも歌い出しそうな勢いで。

ー昨晩夏樹が子守唄代わりに オジーオズボーンの曲を口ずさんだ事を思い出した。

"Bark At the Moon"

『俺が影響を受けたアーティストなの』
と、嬉しそうに言ってー

佑磨は益々自分が憂鬱になってゆくのを感じながら海岸方面へと背を向けた。

「佑磨くん、何があったのですか」

総士は去りゆく背中にそう問いかけると、スイートバジルの種をハーブガーデンの土の中にそっと蒔いた。

南へ歩いて五分。

佑磨の落ち込み場所はテトラポットの近くの防波堤だ。

観光地なので近くには通り沿いにベンチがある。

小さな旅館やホテルも点在しているのがいつもの様に佑磨は見るともなしに見えた。

あと少し歩けば海水浴場もある。

海には漁業組合の船が数隻沖に向かって居た。

佑磨はまたしても時間の経過を腕時計で悟る。

「夏樹は東京に行くと言っていたな…」

見たことはないけれど、もしかしたら有名な作曲家なのかもしれないな。
…と思ったところで佑磨は後ろから若い男に声を掛けられた。

「すみません、地元の方ですか」

「はい、そうですが……………」

「良かった。僕、東京から来たんですけどこの辺りでいい宿知りませんか」

怪訝そうに佑磨が姿を伺う。
若い男は肌を焼いた筋肉質の大学生くらいの男だった。
ステューシーの服とガボールのアクセサリーがよく似合う。
この街なんかより、渋谷などが似合うのではないかと佑磨は思った。

聞けば、ネットで知り合った友人の家に泊まる予定だったのに急にキャンセルになって困ったという。

いつもの佑磨なら市の観光案内所に案内するか、ネット上のそれを教えるだけだった。

だが、今日の佑磨は旅人を案内するには虚ろだった。

午後の日差しに照らされながら薄い唇を引いて佑磨は微笑んだ。

「うちで良ければ空きがあるぞ。高いけどな」

『なつ、き……………、あぁ、あっ』

『佑磨さん、中、どんどんヨくなってる……………声、我慢しないで……………』

『うっ、あぁあっ…………………………』

『いいよ、そのまま……………くっ、』

シャワーを浴びている間、佑磨は夏樹との晩の出来事を思い返していた。

「路田さん、まだ??」

そんな至福の時間も客人の大学生らしき男の声で現実に呼び戻される。

男の名前は瀬妻といい、都内の新卒の会社員だそうだ。

208号室、中庭がよく見える客室にその男は佑磨を連れて来た。

正確に言えば、佑磨が訊いたのだ。

『俺とならどの部屋で一晩過ごしたいか』を。

瀬妻はキトキトと館内図に目を光らせ、二階に目を止めた。

ー惜しみに惜しんで。夏樹のように粋な計らいなどしないー

内心穏やかでない佑磨だったが、にこやかに昔の宿泊表を差し出す。

「お兄さん高いね。旅館貸し切りみたいだし、思いっきり楽しませてもらうよ」

それが出来ればな、と内心鼻白むと佑磨は作り笑顔で二階に案内をした。

その後は瀬妻と佑磨は和室の布団二枚の上で、肌を齧り合う様にして抱き合った。

して、ということは一通り佑磨はしてみせた。

瀬妻の肌はスナック菓子の様に佑磨の汗を吸っていった。
ただ熱くて、新しく内側から汗を作り出すガサツな皮膚。

互いに絶頂を迎えると、軽く事後の処置をして
佑磨はミルクの真珠の眠り以来の眠りについた。

ーこれでいいー

目覚めたらきっと、封筒が電話の側にある。

夏樹の置いていった、半分ちょっとしかない額。

皆、俺を置いてゆく。

父さんも、兄さんも、夏樹も。

海藻の中から踠き出すような眠りから覚めた頃、スマートフォンは21時を告げていた。

「んん……………」

宿を探しているはずの瀬妻がベットにいないことに佑磨は気がついた。

佑磨は途轍もなく嫌な予感がした。

朝、夏樹を探した時と同じ動きを辿る前に部屋の電話機を見た。

電話機の横には封筒とメモ帳にメッセージが走り書きで残されていた。

ー 実は隣の茅場旅館に予約を取っています。
楽しかったよ。
また相手して。
これで美味しいものでも食べてね。瀬妻 ー

封筒には、五千円札が入っていた。

佑磨は衝撃を受けていた。

予想の1割程度の額を突きつけられたことよりも、

知らずとはいえ茅場旅館の客を招き入れてしまったことに対してプライドが崩れ落ちそうだった。

佑磨は、貧血になりながら封筒を押しのけてユニットバスへ向かった。

世が明けて、また世が明けてもあのミルクの真珠の眠りはやってこない。

それでも佑磨は海藻の夜に呻きながら書類や雑務、
時々時間ができると旅館内の清掃やメンテナンスをこなした。

時には市役所まで必要な書類を取り寄せに行き、
インクや用紙が切れれば量販店に買いに行く、
という程度の外出をした。

その間、親友の耀一から幾度となくメールが来たりたまに通話したが、
"みぞれ"には寄らなかった。

このまま仕事に没頭して、盛夏を迎える頃にペンションをオープンして…。
それで夏樹を忘れることが出来れば良い、と佑磨は思っていた。

「あー…ダメだここ。ここで一回終わろう」

佑磨はオリジナル1:1ドリンクをすすりながらパソコンを低電力モードに切り替える。

いつものスマートフォン、財布、キーケースだけを持って路田旅館の玄関に鍵をかけて出かける。

途中覗いた姿見に写った佑磨はタワシのゾンビのような姿だった。

初夏の夕暮れは、いつまでも続く花々の浮かれ話の色が海岸線を走り抜けてゆく。

あと少しで一年で最も日が長くなる。

温暖な潮風に吹かれて、温泉街を歩いている佑磨には
昔のひとコマが思い出された。

『佑磨、俺もう疲れたよ……………。
なんで温かい温泉街にいるのにこんなに疲れてるんだろ。
これってワガママなのかな?
……………でも人間そんなに強くないよ…。
佑磨もさ、次の策考えなよ
俺たちはまだ若いからさ。
今日は帰るね、お疲れ』

ぼんのくぼがくびれたボブヘアーで日本製の眼鏡を掛けている兄、佑斗は疲労で
真っ白な粉がかけられた干物の様にUK産のローファーを鳴らした。

総合病院で点滴、抗生物質、鼻チューブ、カテーテルの管に繋がれた父が窓際のベッドに横たわっている。

佑磨の父、路田 佑吾は先ほどしばしの眠りについたばかりだ。

佑磨は兄が憔悴しきっている様子で病室を出て行ったのが胸を焦がすほどに気になったが、
自身も旅館の経営と父の看病、自身のことで睡眠時間が足りていない中での出来事だった。

『帰ったら、兄さんにちゃんと話そう。
その頃にはきっと、落ち着いているだろ』

佑吾はゆっくりと病衣で包まれた肋骨を上下させ、たまに目を開けて佑磨の名前を呼んだ。
それに答えて時間は過ぎていった。

佑磨が自宅がわりの旅館の離れの三階建ての建物に戻ると、
手紙が置いてあった。
佑斗の丸文字で佑磨宛だった。

『この街を出ます。
探さないで下さい。
旅館は佑磨が継いで下さい。
佑磨が無理なら佑磨が委任する人に経営を願います。
相続ももちろん放棄します。
この様な身勝手を許して下さい。
僕の事なら心配しないで、佑磨は無理せず身体に気をつけて元気でね。
ごめんな。きっと、いつか、また、どこかで』

佑磨は離れの玄関を飛び出して辺りを見渡した。

白髪だらけになったボブヘアーはどこにも見当たらなかった。

駅まで走ろうかと思ったが、東京駅行きの電車は先程発車したばかりだとスマートフォンのブラウザが告げる。

バス停、神社、公園など思い当たる場所は走り回ったが、

色の白いプレッピースタイルの兄が大荷物を背負っている姿など何処にも見つけられなかった。

秋口のピンクモーメントに雲が大きく吸い込まれてゆく。
潮風が佑磨の肩までの髪をはためかせた。

ーいつか は ない。 また は ない。 どこか なんて 何処にもない
"きっと"なんて自分と誰かを容易く切る為の常套句の様なものだ。
たとえ、それが兄弟の間であってもー

佑磨は頬に幾十もの涙が頬を伝っている事に気がつかないまま、
海岸線に沈没する夕雲の船達をしばらくの間眺めていた。

そんな去年の情景が混じった温泉街を抜けると、いつかのネオン街が前方に迫ってくる。

建物のあちこちに風車が刺さり、新しいもの、動かないもの、美しいもの、そうでないものが別々の方向を向いて同じ風に吹かれている。

赤やピンクのネオンは、今日も危険な香りをおくびも出さずに男たちを手招きしている。

当然夏樹との出会い以来、あの巨人が怖くて佑磨はこの区域には足を踏み入れていない。

危険を知らせるネオンサインを眺めがら、佑磨は思っていた。

ー皆、誰かの温もりが欲しくて それで この どぎつい光をくぐり抜けてまで 会いにくるんだなー

薄暗い中、目に悪い色を焼き付けた後佑磨は巨人が現れた店を探した。

「確か、店の前にでっかい赤と紫の提灯があった気がする…」

どの店も似たり寄ったりで同じようなイロカタチをしていたが、その記憶だけはハッキリしていた。

あとは料金表を見れば思い出すかもしれない。

店の入り口横に大きく二つ赤と紫のストライプの提灯が下げられているのを見つけると、
佑磨はアスファルトの上にオペラシューズの踵を止めた。

ー本当に、此処で、夏樹と出会ったんだ
あの、陶器みたいにキレイで、無邪気なのに
魔物と取引して得たかのような色気を持った夏樹とー

周りの客は、料金表を見てそそくさと店に入って行く。
客引きと歩いて来る客もいれば、一人で、あるいは従業員と店に入って行く客もいた。

ぼんやり立ちすくんでいる人物はもちろん佑磨しかいない。

沖の方から風が吹くと、風車が音を立てて回り、
風俗店特有の香料の香りがして佑磨はむせ返りそうになった。

料金表の前に立つと、いつかの巨人が軒先からケバケバしい粉を塗った顔を出した。

「あら、この間はよくも…騙してくれたわね。
お兄さん? 今日はツケをたんまりと払ってもらうわよ」

今日は赤地に薔薇のプリントのドレスを着た巨人が、こちらににじり寄って来る。

風につられて何処からか、いつかのクチナシの香水の香りがした。
佑磨は気のせいだと思っていたのだが…。

佑磨は考えていた。

真っ直ぐに仁王立ちして巨人に鶴の一声を掛けていたいつかの夏樹の姿を。

その姿は、氷の宮殿に住む龍のような気高さと勇ましさで、佑磨は最初からその姿に惹かれていたのかも知れないと振り返った。

佑磨は腕の太さ3倍はある巨人に顔を近づけられ、何か言われて腕を掴まれた。

一拍おいて、その腕を見えないほどの速さで振り払う何かが見えた。

急に腕の圧迫感が無くなり、バランスを崩した佑磨はよろめいたが何とかオペラシューズのグリップを効かせて体勢を立て直す。

ネオン街の通りに唖然としたガニ股の巨人が立っているのが見えたまではいいが、佑磨は暫くその光景を疑った。

ミントグリーンの長髪をなびかせた夏樹が、巨人に相対しているのであった。

肩を横目一杯開いて、巨人に抵抗の意思を示している。

今日はボストンバックを下げ、帽子を被り、サングラスをかけている。

ー東京にいるんじゃ…ー

佑磨は動揺のあまり硬直した。

夏樹はサークル型のサングラス越しに佑磨を振り返ると、
巨人の一瞬の隙をついて佑磨の腕を引きネオン街を走り出した。

「ヤスさぁん、あの子達覚えときましょ。
二回目よ。冷やかしにしちゃタチが悪いわ」

提灯の奥からドット柄のスーツを着た銀髪の痩せ型の四十代の男が出て、二人の後ろ姿を巨人と見守った。

旅館の二階の事務室がわりの部屋に佑磨と夏樹は再び向かい合った。

「俺が通りかかったから良いものの
そのままなら何万もボッタクられて終わりだぞ
しかも二回目!何やってんだ」

ー夏樹が俺の事務所で激怒しているー

まだ夢の中にいるような、現実味がわかない風景の中で叫ぶ夏樹に佑磨はただ惚けることしか出来ずにいた。

「聞いてんのかよ」

サングラスを鷲掴みにし、アイシャドウで囲まれた夏樹の瞳が迫って来る。
今日の瞳は三白眼ではなく、黄色い蛇の瞳だ。

佑磨は鼓動が早く胸の中で暴れ出すのが分かっていたが、
反応が遅れた。

「……………いや……………」

しどろもどろの佑磨を見て、夏樹はため息を吐いた。

「まぁ、佑磨さんが無事なら俺は良いけど…あれ?」

佑磨は夏樹の手元を見て肌色補正の化粧品のように青ざめた。

夏樹の細い指に骸骨や目玉のリングが重ね付けされているからではない。

そのリングやタトゥーの賑やかな手の中に、
瀬妻からの手紙と五千円が入った封筒が握られているからだった。

ーさらそら使う気がなくて置いておいたけど、デスクの中にしまって置けば…
というか、手紙捨てておけよ俺ー

佑磨は大慌てで口を開けたり閉めたりして、頭を何回も触る仕草をした。

夏樹はそんな佑磨を怪訝に思いながら中身を確認する。

「ちょ、ちょっと」

夏樹は中身を確認すると、佑磨に簡単に質問をした。

「このセツマって、誰」

夏樹は無表情になった。

背景はまるで午前の穏やかな昼間の海。

佑磨にはそれがとても恐ろしいことに感じられた。

「宿がない、って話しかけてきた東京の人」

ここは正直に話すのが一番いいと踏んだ佑磨は緊迫しながら簡潔に話した。

一瞬の間が空いて、夏樹の背景に灰色のヒビが入ったように見えた後、
午前の海が戻って来る。

「"また相手して"って書いてあるけど、何したの」

「夏樹と同じことした」

語尾は震えていたかも知れないが、佑磨は夏樹にそう正直に伝えた。

夏樹は両手で掴めそうな左足に体重をかけながら、右手で手紙を持ち、左手で樋口一葉の札を持って
それぞれを見比べるようにしてから佑磨の顔を見た。

「最後の質問。
佑磨さんはほんとうにそれでいいの」

佑磨は目頭が熱くなり下唇をきつく噛んだあと、
震える左腕を押さえつけて夏樹に叫ぶように感情をぶつけた。

「お前には…関係ない…っ!勝手に、東京に
行くし、勝手に帰って来るし…!
だから、そいつも、ヤリたきゃ勝手に帰って来るし…、
そいつの勝手だろ」

言い終わらないうちに、佑磨は事務所の年季が入った部分を残した天井を見ていた。

大きな音がしたことから、
自分が床に転がっているのだ、と気づいた瞬間に左頬に焼かれたような衝撃が走る。

痛い、というよりも驚き、何故、という疑問や感情が先走り佑磨は混乱して倒れた椅子のそばでうずくまる。

「佑磨さんを粗末に扱うやつを絶対に許さない。
そんな奴の勝手なんか俺は知らないよ」

殴ってごめんなさい、と夏樹は佑磨の側にしゃがみ込む。
佑磨は恐怖で短い声をあげ、上半身を僅かに後退させた。

「俺がお金を置いていったのは、あの夜とこの宿にそれだけの値打ちを感じたからなんだよ。
それがわからないお客なんか、お呼びでないじゃない」

夏樹の顔を見た。
先ほどまで静かな昼の海のような表情だったはずが、
今はもうマグマが噴火した溶岩の表面のような表情に切り替わっている。

佑磨は、やっと理解したのだ。

夏樹が、どうやら本気で佑磨のためを思って激怒していることを。

しかし、腑に落ちない部分があった。

「お前はまた、東京へ行くんだろ?
突然現れて、気まぐれに言われたって…」

佑磨の口の中で鉄の味がした。

まさか歯は飛んでないだろうな、と佑磨は口の中を舐め回す。
歯は41本表面が無事が確認できた。
言えることは、かなり痛い。

「東京への仕事はセーブすることにした。
俺もこの宿を手伝うよ。
佑磨さんの魅力を使って、この旅館を再び立て直して行こうよ」

夏樹の言葉を聞いて、佑磨は数週間抱えていた孤独感が溶けてゆくのを感じていた。

「俺と、夏樹でこの旅館を?」
「また急にいなくなったりしないよな」
「本当に言っているのか?夏樹」

立て続けに夏樹に問う佑磨と夏樹は事務室のフローリングに座っている。
左頬を抑えている佑磨の手を添えながら、ボストンバッグからテキーラの瓶を取り出して夏樹は笑う。

「大丈夫。いなくなったりしねぇよ。
俺が佑磨さんの部下になって、恋人になれば少しは手伝えることも増えると思うけど」

そう言ってテキーラをグイと口に含み、佑磨に口移しする。

「☆○◇▽×〜#…ー」

アルコールが傷口に染み渡る激痛と、久しぶりの夏樹のキスで佑磨は真っ赤になった。

恋人?!
と佑磨は慌てふためいた。

「あはは。消毒になったかな。
俺はどっちも本気。レコード会社とプロデューサーには話つけておいたから。
この宿を、男性をおもてなしする高級旅館として再デビューさせたらとてもいいと思うよ」

夏樹は夏樹が置いて行った万札を思い出した。

ー俺たちにそんな事が出来るのだろうか。
やってくるのは瀬妻のような客ばかりではないのか?ー

様々な疑念が押し寄せて、佑磨の頭の中に濃い皺を折り畳んでゆく。

そんな佑磨に御構い無しにテキーラをストレートで夏樹はまた一口、
ゴールドのルージュが塗られた口に飲み込んだ。

「あ、俺が酒持ち歩いてんのは内緒にしてね、逮捕されちゃう」

「え、あ!まさかお前」

「ちざきなつき、ぴちぴちの じゅうきゅうさい でーす」

「おっ…未成年かよ………」

佑磨と9つも歳が離れている…。
そう頭を抱えると、夏樹は無邪気に笑ってから佑磨にギリギリまで顔を近づけた。

「若い俺でも解るの。佑磨さんがどれだけ魅力的か。
佑磨さんの魅力を全面に出してここでしか出来ないおもてなししてゆけば、再びお客様は集まると思うよ。
俺も、出来ることは何でもする」

力強く片目を瞑って笑顔を作る夏樹。

有害物質のような光を放つアイシャドウの中の瞳は発光して、佑磨を映す。

佑磨はこの美しい少年が、まるで自分を取りに来たミイラ取りの様に見えた。

ー引き返せば良いもののー

「分かったよ、夏樹。
両方とも、乗ってみる。
ただし、犯罪者にはなりたくないな…」

夏樹はひまわりの様な笑顔を顔いっぱい咲かせて、佑磨を抱きしめた。
反動で佑磨は床に倒されて後頭部を打ってしまう。
事務所に鈍い音が響く。

「いってーな!お前さっきから、殺す気か」

「ごめ!今のっ!ごめんごめんっ」

押し倒されたまま夏樹の胸ぐらを掴み、ドタバタと床を転がる。

「従業員を増やして、旅館のルールをみんなで決めよう。
後は、出資してくれるスポンサーも必要だね。
名刺やホームページも必要になってくるね」

夏樹がミント色の髪を四方に降らせて見下ろして佑磨を見下ろす。
具体的なことを言い連ねるのを見て、佑磨はこのまま枯れ木と漂流するのではなく、
頼もしい指針となる相棒を得たと確信した。

ーあとはー

「夏樹…」

掴んでいた胸ぐらを引き寄せて、夏樹のルージュにそのまま口づけた。

夏樹が、いなくならないように。

「んっ………」

そんな思いを込めて、佑磨は夏樹の金の紅の海の中を舌を使って泳いだ。

あとは二人で、会えない間の身体の熱を存分に奪い合うだけだった。

事務所のソファーにもつれ合う様に移動した後、
佑磨はミルクと真珠がもつれ合う肌の中、身体の芯が千切れそうな程の甘い声を上げた。

ーつづくー

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