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静かなる反抗【ショートショート】
「おい、水持ってこい」
浩二はソファに深く腰掛けながら、足で床をトントンと鳴らした。
「……はい」
恵美は静かに立ち上がり、キッチンへ向かった。冷蔵庫を開け、冷えたペットボトルを取り出す。その手が微かに震えているのを、彼女自身も自覚していた。
浩二は彼女の夫であり、支配者だった。
結婚した当初は優しかった。何かを頼むときは「お願い」と言い、感謝の言葉を忘れなかった。しかし、数年が経つうちに彼の態度は変わり始めた。最初は軽い命令口調だった。「ちょっと取ってくれ」から「早くしろ」へ、そして「持ってこい」に変わった。
最初は抵抗もした。しかし、怒鳴られ、物を投げられ、時には手をあげられるうちに、彼女は「従うこと」を選ぶようになった。
彼が望むものをすぐに差し出せば、怒鳴られない。暴力もない。ただ、それだけの理由だった。
「ほら、早くしろよ」
浩二の苛立った声がリビングから響く。恵美は冷たいペットボトルを握りしめ、ゆっくりと戻る。そして、彼の前にそっと差し出した。
浩二はそれを受け取ると、無言で一口飲み、またソファに沈み込んだ。
「ったく、トロいんだよ」
恵美は何も言わなかった。ただ、淡々と、静かに、無の表情で立っていた。
しかし、彼女の心の奥底では、何かが確かに変わり始めていた。
冷蔵庫の奥に隠した、小さな瓶の中身を思い浮かべながら。