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レッド・トランジェント(掌編小説)

「生まれたよ」
娘から連絡が来たのは、お昼を少し過ぎた頃だった。俺は食べかけの蕎麦をそのまんまにして、カルトンに千円を置く。
「ご馳走さん。お釣りは貰っといて」
驚いた顔の店主に声をかけて店を出る。ちょっと悪いことしたかもな、でもまぁ馴染みの店だし分かってくれるだろう。何せ初孫だ。初孫!初孫!初孫!!
猛スピードで病院に向かう。なぁに走れば十五分とかからないさ。これでも国体二位の陸上選手だ。
幸い、人はまばらでほぼ減速せずに走り抜けられるだろう。この勝負は少しのタイムロスさえも命取りになる。今日だけは負けられない。
よし、次の角を曲がれば病院まで一直線、ホームストレートだ。
キュキュッ。足への負担を度外視した急カーブにスニーカーが悲鳴を上げる。少し遅れて俺の脚もパキッと鳴く。それでも止まれない。何せあいつに負けたら終わりだ。
病院が見えたのと同時に、道路の反対側から別のおじさんがダッシュして来るのも見える。
「あの野郎、ここまで来てやがったか!」
国体一位の男、ミツノリだ。奴は俺の幼馴染で、昔からいけ好かない男だった。
スポーツでも勉強でも勝てた例が無かった。毎度毎度紙一重なのに一度もだ。あまつさえ俺の初恋の女性と結婚しやがった。唯一勝てたのは、俺の方が禿げるのが遅かったくらいだ。あいつは三十代でもう、つるっぱげだったが、こっちは四十代だ。
よしよし、あいつよりも病院に近い。脚は痛みを越えてもう何も感じないが、この分だと僅差で勝つだろう。この日のために河原で走り込んだ甲斐がある。孫の顔を先に見るのは俺だ。
ミツノリの孫は俺の孫でもあった。俺の娘とミツノリの息子が結婚したのはまぁ仕方ない。家も近所だし、カミさん同士も仲が良い。おまけに親父が二人とも同じ職業と来たら、合わない方が無理があるってもんだろう。悪いのは病気の馬鹿野郎だ。あの馬鹿が流行りだしてから、どこもかしこも自粛と制限が幅を利かせてやがる。アオリを受けて産院にもルールが出来た。
「一日に会えるのは一組様だけです」
絶対に、絶対に会うのは俺だ。娘の旦那はアメリカに出張中だから、誰にも文句は言わせねぇ。念願の孫だぞ。
「やっと勝てる!ざまぁみろ」
病院まで残り数メートル。初白星を確信したその瞬間、ガチャリと音がした。いや、おそらく実際には無音だったが、ミツノリのギアが一段階上がったのがわかった。
「クソっ!あの野郎、何て速さだ」
そう言えば後半につれて加速するタイプだった。今の奴はボルトをも超えている。負けてたまるかという執念が視える。
しかし、こちらも負けられない。もうもげても良い。そんな覚悟で俺は脚の回転を速くした。向こうがボルトならこっちはパウエルだ。
眼前に迫るおじさんの顔、避けようとすれば進路が変わる。この土壇場での逃げは敗北を意味する。
「どけぇー!!」
怒鳴り合ったまま、光速で近づく二つの禿頭。星の衝突さながらにぶつかる。
次の瞬間。ドォーンという爆音と目が眩むほどの赤い閃光。それらと共に空間が歪み穴が空く。
「あっ、お義父さんご無沙汰してます。親父も久し振りだね。元気だった?」
吹っ飛び倒れるおじさんたちに、のんびりと声をかけたのは、海外出張をしている筈の娘の旦那。なんと穴の向こう側はアメリカに繋がっていた。
「……」
生死不明な二人をチラ見した後、彼は穴を潜り、病院の受付に向かって迷いなく進む。
「まさか今日、子どもの顔を見れるなんて!」
旦那の歓喜の叫びが響く。

そして一時間後。ちょっと小さくなった穴から帰る娘の旦那。
「本当にありがとうございました。娘とっても可愛かったです」
去り際に、あれから1ミリたりとも動いていないおじさん二人に頭を下げて、そう言った。
「おう、気をつけて帰れよ」
閉じかけの穴に野太い二重奏が吸い込まれる。空はとても青かった。

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