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僕にとってサッカーは必要不可欠な余分である。

サッカーは間違いなく僕の人生において欠かせないものだ。

ただ仮に、明日からサッカーが出来なくなっても僕は自ら命を断つことはしないだろうし、ちゃんと3食を食べて生活をする。


サッカーは必要ではない。
けれどもなくてはならない。

この矛盾に満ちた文章が僕の中では真理で、そうありたいと思う。



それを上手く言葉にしてくれたのがこのイチロー選手のCMで。

この5分ぐらいのCM一本だけでしょうもない自己啓発本の倍は価値あると僕は思っているのでおすすめさせてください。時間が許す方はぜひ。


3分3秒辺りから始まる「プレミアムとは?」という質問に対する答え


’’本来生きていく上では必要ではないけれども、
人生を潤すために必要なもの’’


引用ではなく自分の力でこの言葉までたどり着きたかったなと思う。



最近はなんかこう、自分を取り巻く世界に余分を嫌う風潮があるなと感じている。

というのは、何をやるにしても’’価値’’を必要としたり、’’意義’’を見出そうとする人が多くないかということ。

あるいは人間関係も利害でつながるような、どこか割り切ったような。

やらなくてもいいことはやらない。というような。
主観的な意見だけれどもね。


「これ意味あるか?」
その問いは絶対必要。けれども行きすぎると危ない。


自分も大学卒業後にサッカーを続けるか考えた時は、自分がサッカーをやる意義を探していた。それが必要だと思っていた。

それがなければやる意味がないとも思ったかもしれない。


意義やら価値があることは間違いなくいいことなんだけれども、それらを先行して掲げようとすると、サッカーをやる大儀になっているとなんだか気持ち悪さを覚える。

例えば数か月前の僕がTwitterのプロフィールに書いていたように、

「自分が這い上がることで誰かに勇気を与えたい!」

みたいなこと。

サッカーが必要であると証明するための宣言のような気がして気持ち悪かった。

そんなこと証明する必要などなくて、もっと言うと僕にとってサッカーはやらなくてもいいことのままでいいと思う。

その方が特別だと感じられるからだ。

そうでなければ’’ロマン’’がない。
最近のnoteて度々使っている言葉だ。


ロマン:
感情的、理想的に物事をとらえること。夢や冒険などへの強いあこがれをもつこと。

あるいは

ロマンチック:
現実を離れ、情緒的で甘美なさま。また、そのような事柄を好むさま。空想的。


おそらくロマンがなくても人生は成立する。


けれどもロマンがなければ色彩がない。

ロマンがなければ、

生物として生存できても人間として生存できない。


利益や意味ではない部分を無くしてはいけない。

現実的でないからこそ感じられる魅力があるはずなんだよな。

少なくとも僕自身にとってサッカーは人生においてなくてもいいもの、けれども必要な余分であるべきだ。



暮らしや人間関係の煩わしさが、進化に伴ってどんどん最適化され無駄がなくなっていく、余分を必要としない現代において、スポーツだけはそこに飲み込まれてはいけない気がする。

無駄だから感じる魅力 、余分だからこそ特別。

そんな感覚を失わずにサッカーをしたい。


ロマン

何気なく使い始めた言葉だけど、大事だと感じ始めた。

最近はこの言葉が好きになってきた。


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栗山聖
サポートいただいたお金の使い道 4:love futbol japan への支援金 4:片親家庭支援団体への寄付 2:自分のサッカー人生への投資 最後まで読んでいただきありがとうございます。 よろしくお願いいたします。