
自分のために寿司をとる
いまそとは猛烈に風がふいている。そして雨も強い。
こんな日は出前びよりだと思い、生まれて初めての出前をたのんだ。しかも寿司二人前。ごうせいな夕飯。
でも祝い事ではない。
これはむしろ自分自身への慰めとねぎらいのためなのだ。
昨日ひさびさに会った友人たちのやりとりの中で、振り返ってもこの3年間、いやそれ以上か?…史上最高にはずかしく、自分がみじめになる自虐をしてしまった。そんな気におちいってから地の底までへこんでいる。
チサは3年前に結婚した。学生時代から付き合った彼氏と6年?7年越し?のゴールイン。
遠距離中にいろんな男と遊んだくせに、ちゃっかり結婚してる彼女には正直あまりいい印象はもってなかった。
もってなかったけど、なんだかんだで当時のコミュニティのなかでは話しやすい子だったから遊ぶことも何度かあった。
『結婚してはじめてだよ、旦那が家にいない週末。だから何していいかわかんなくってさ〜。』
(ちなみにこの日チサはなかなか家に帰ろうとしなかった)
『わかるわかる!やっぱこうやってたまにひとりの時間あると、羽伸ばせたりするよね。』と3歳年下の彼女と同棲中の高橋が相槌をうつ。
「2年会ってない間に高橋も彼女ができたんだなぁ〜」
「ってかこの二人寝たことあるのに、なんでこんな普通に遊べるんだ〜すごいわ〜」
心の中でそんなことを思った。それと同時に自分はこの2年、何も変わらなかったなぁ、と、今もひとり暮らしである事実を思い、なんかむなしくなってしまった。
二人の気持ちはわかるけど、
わからなかった。
家族でも、配偶者でもパートナーでも、同居人でも、強い結びつきを感じてる人がそばにいることのやすらぎと不自由。
だからたまの一人の時間が羽のばしになることもあるんだろうな、ということは容易く想像できる。
でも私は事実その状況にいないから、心から共感できないのだ。
でもそう言っているチサと高橋を見てたら、二人とも幸せなんだなぁと温かな悔しさまでこみあげてきてしまった。
『私は一人暮らしだから、羽ずっとのばしっぱなしだけどね!』
精一杯いった自虐ネタがまったくウケない。あの空気は苦笑いなのか愛想笑いなのか、なんなのかわかんなかったけど、とにかく自分で自分を深く刺したような感覚。
「一人だって楽しいことあるじゃん」
そう言い聞かせて寂しさとずっと付き合ってきた。
ひとりでいても大好きな読書をしたり、料理をしたり、旅行をしたり、オンラインで友達とのんだりして、心地よい時間をつくってこれた。
「大丈夫じゃん」って思えた。
でもはっきり言って、二人がうらやましい。
そして気づく、「結婚してる夫婦全員が幸せなわけじゃない」と思うことで、独身である自分の立場を守ろうとしていたこと。
結婚して子どもをもったら母としての役割におわれ、苦労のほうが多くなるのかなぁって、自分なりに“覚悟”のつもりで想像していた。
結婚したら、家庭を最優先にして、家庭のために働き、家族中心の生活になるのかもしれない。
そして、それは幸せのため、という仰々しいものではなく、「せざるを得ない」最良の選択の結果の積み重ねだとおもう。そういう優先づけがされる時期があるんだろうなとおもう。
私が妻像、母親像、をイメージするとき、そこは常に家庭のなかの世界でしか存在しなかったものだった。
まわりくどくなったけど、私は結婚したい、好きな人と一緒にいたいしその子どもとあたたかな家庭を持ちたい、というありふれた夢をみているなかで、勝手に自身を妻か母親の二役でしかみてなかった。
ある意味で家庭に入りたがっているからか、結婚後の自分を家庭の中に縛りつけていたのかもしれない。想像のなかで。
なのに大きな矛盾とも気づかずに、結婚した友人たちも勝手に家庭の中に閉じこめて、「かわいそうだね、自由な時間ないよね」と思っていたかった。
きっとこれが完全に負け犬の遠吠えなんだろう。
家庭からでたひとりの友人として会ったチサは、妻でも母でもないチサだった。
なのに勝手に脳内八割“○○の妻”の方でしかチサを見れなかったのは私だった。
勝手に比べて悲しくしていたのは自分だった。
時々すごく泣けるようなことがあっても生きている。正確にはきっと生かされていると言うんだろう。
いずれにしても私は、それはただただ、自分の頑張りだと思いたい。自分の強さだと思いたい。
勝手に「惨めだなぁ」なんて思うことがあるから、たまには自分を甘やかそうって、頑張ってるよ、っていういたわりのお寿司だった。