女老騎士

帰路にて、向かいから自転車に乗った老婆が、小脇に抱えた傘の先端を真正面に突き出しながらこちらへと走ってきた。

当然だが、非常に危険な行為だ。物体の運動エネルギーは質量に、そして速度の2乗に比例するのだから、それなりの重さと速さを兼ね備える自転車と老婆からなる系の持つ運動エネルギーは、歩行する人間のそれよりもかなり大きい。ましてや、面積の小さい傘の先端でその運動を受け止めようものなら、ぶつかった部位にかかる圧力は人体に甚大な影響を与えることは想像に難くない。

傘のちょっとした持ち心地の良さのために周囲の人々に大怪我のリスクを押しつけるとは、なんて無神経な奴だと思いながら、すれ違う瞬間に老婆の顔を一瞥すると、なぜかこの老婆、異様なまでに鋭い眼光でまっすぐと斜め上を見据えているではないか。その顔つきは、空気抵抗を意識したかのような前かがみの体勢も相まって、壮大なファンタジー映画か何かに出てくる、巨大な怪物と対峙する騎士そのものである。

ふつう、傘を正面に向けて自転車に乗る人を見かけたら、この人はなんて配慮に欠けているのだと軽蔑や義憤を覚えるだろう。私もはじめに老婆が向こうからやってきた時はそうした感情を抱いたが、老婆の姿形、態度を至近距離で目撃した瞬間、そうした思いは頭の中から消し飛んでしまった。

すれ違う私に目もくれず、あんなに真剣な目をしていたのだ。あれは、配慮のなさ云々の話ではなく、たとえば、文明を破壊し尽くさんとする巨大な怪物が迫っていて、派遣された兵隊はみな死に、もはやこれまでかと思われたが、そこに伝説の女老騎士が現れ、「やれやれ、この歳になってバケモノ退治とは、冥土の土産話にはちょうどいいかねえ。」などと言い残し、この一撃に己の全てを懸けんと捨て身の突撃を決行する──とかでないと説明がつかない。そんな、ドン・キホーテが風車を巨人と思い込み突撃することよりも荒唐無稽なストーリーが尤もらしく聞こえるほどに、老婆の眼差しは、腹の据わった、大いなる何かを背負ったそれであった。

世界を救いに行く女老騎士を見送り家に帰ってから、「たぶん俺は、あの顔をされたら大抵のことは許してしまうんだろうなあ」と思った。



まあ、普通にめちゃくちゃ危ないしやめてほしい。

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