東京(東亰)
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ひじかたすいげつ
東京は「東京とうきょう」ではなかった。
「東亰とうけい」であった。
明治政府は考えた。明治天皇を江戸城に住まわせることを。
明治維新は「革命」ではない。「維新」であった。
「王」は変わらず、「政権」のみの交代であった。
この表現を使う。「政體」の交代と。
「国體」は変わらない。
昔から日本は「国體」と「政體」を使い分ける。
「倭」や「邪馬台国」に時代から。
「邪馬台国」の女王は「卑弥呼」といわれているが、「女王」は「政體」ではない。
「王」は「国體」である。「政體」は別にある。
「卑弥呼」の時代から今現在に至るまで、「王」は「国體」であった。
「国體」とはなにか?
「国體」は「王」であり、「祭祀」であった。
「祭政分離」によって「政権の安定」が図れた。
「王」を「政治」から遠ざけることにより。
「国」は安定し、他国からの侵略を防ぐためにはよかった。政権抗争は「国内」の問題であった。
「政體」は「為政者」ではあるが、「祭祀」をしない。
現在であれば「天皇」と「菅政権」。あるいは、「天皇」と「司法行政立法の三権すべて」といってもよい。
武家政権時代は「天皇」と「幕府」。
古代大和政権でいえば、「天皇」と「武内宿禰」でもあった。
「天皇」は「大君家」。「武内宿禰」は「大臣家」であった。
そしてその「ニ家」は対等であった。
なぜか?
「武内宿禰」は成務天皇と双子。景行天皇の子であった。
双子は好まれない時代であったので、景行天皇の父であるヤヌシタケオゴコロの子としに養子に出された。
つまり、初代「武内宿禰」は、ヤヌシタケオゴコロの孫でもあり、子でもあった。
そしてもっと畏ろしいことは、その時の「大臣家」の皇子も双子であった。
「竹内波知」と「竹内波留」であった。
「二組の双子」が「付け髭」を付け、入れ替わっていた。
そしてその弟に「小碓」がいた。後に「ヤマトタケル」と呼ばれる。
「祭政分離」は都合がよかった。
もとは月を祀る「女王」を、太陽を祀る「女王」に変え、「為政者」としては「王」のように振舞う「男子」。
それが「大臣家」であった。
明治政府は「幕府」に代わり、「為政者」となり、「だれが為政者なっても変わらない国」を目指した。
そして「東亰」を作った。
「東京」ではなかった。
「遷都」ではなかった。
「京都」は今でも「都」であった。
天皇の「遷都の詔」はまだ出ていない。
「京都」は聖書の予言「千年王国」をはるかに超えた。
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