日本国記 限りなく真実に近いアナザーストーリー 1
『日本国記』限りなく真実に近いアナザーストーリー 1
ひじかたすいげつ
はじめに
百田尚樹氏は「紀年」になっていない「日本国紀」を書いた。それも内容はもう一つ。
「日本国紀」ではなく、「日本国記」を書いてみたくなった。本当の歴史はいろいろ差しさわりがあり、書けないことも多いが、書ける範囲で、「小説」として書いてみようと思う。
子供の頃からなぜか人の運命とか前世とかについて触れることが多かったのは、 四国という土地柄のせいもあったのかもしれない。卑弥呼・邪馬台国のことに興味を持ったのも関係するが、そもそも「四国」とは「シコク」であって漢字は当て字である。
漢字が使われだしたのは諸説あるが、「甲骨文字」からである。「漢字」は漢の時代より後のことではあるから、厳密に言えばそれ以前には「漢字」はない。秦の字であれば「秦字」である。ただ、秦の文字は「篆書」という。中国には、夏、殷、周、秦などの国が興ったが、最初の文字を「甲骨文字」という。亀の甲羅やシカの骨に書いたためそう呼ばれる。その後、青銅器文化が栄え、「華」の縦目の王「蚕叢」が有名であるが、青銅器に鋳込まれた文字が「金文」である。その後は、秦の時代になって中国の文字は統一された。「篆書」と呼ばれる。今でも印鑑などに使われる文字である。その後、漢の時代になり使われていた文字が「漢字」ではあるが、「行書」「隷書」「楷書」「草書」などと呼ぶ。
秦は初めて中華統一を果たし、一律の度量衡を定めたが、文字も「篆書」として統一した。しかしこれは公用語で、地方地方には別の文字があった。文字がある前から「ことば」はあった。はじめに「ことば」ありき。「シコク」はあったが「四国」はなかった。いや、あったかもしれない、なぜなら「死国」が元だからである。それは最も秘密にしなければならないことの一つであった。「死」と「再生」は、今でも人が最も関心のあることの一つではあるが、日本の「神道」にとっては「最も重要な秘密」つまり「秘伝」であった。「秘伝」と云うからお分かりのことと思うが、「秘伝」は当然のことながら文字にはしない。「口伝」でしか伝えられない。「秘伝」と言ったが、最も重要な秘伝は「極秘伝」と言う。
「死と再生の場所」が「死国」であった。戦国時代より前の室町時代や平安時代以前は、四国に逃げれば何とかなる。「逃げるなら四国」。そういう意味でも「死と再生」ではあるが、四国に逃げて再起を図るという手法は負けた側はよく使った手ではある が、そのことを言うのではない。
私の先祖は、自己紹介にも書いたが、高知県の辺境の地であった親の時代でも学校に行くのに1時間も山を下らないと通えないところにいた。最近分かったことではあるが、先祖は新田義貞の弟の脇屋義介のながれらしく、初めは同族の足利一族でありながら、後に足利尊氏に追われた南朝方の落人だったらしい。四国と言えば、「平氏」の落人が有名であるが、もっと新しい「源氏」の落人であった。ついでに言えば、祖母は「藤原」で、平家の落人の末裔らしい。 その後もっと重大な先祖を知ってしまうが、この先祖は「源氏」であった。
「シコク」は「四国」ではある。四国の古代の呼称は「伊予二名島(いよのふたなのしま)」である。古代には南海道に含まれた。南海道は南紀「紀伊国(和歌山県と三重県南部)」、淡路「淡路国(兵庫県淡路島と沼島)」、「阿波国(徳島県)」、「讃岐国(香川県)」、「伊予国(愛媛県)」、「土佐国(高知県)」であったが、北海道も五畿八道のひとつであった。
「伊予二名島」というくらいだから、「名が二つ」あるはず。古事記には「愛比売」がある。「伊予」ではあるが、「愛比売(愛媛)」はほんとうは「伊予(シコク)」の一部であって、四国全体をさすものではない。つまり、四国(シコク)には、「伊予」のほかにもう一つの名がある。それが「死国」でもある。しかしこれは、ずっと後の時代の話であり、当時のもう一つの名は「とさ」。漢字で書けば「土佐」とも書けるが、それは当て字である。「とさ」は「遠い宇佐」、つまり「とおつうさ」であった。淡海は近江とも書くが、これは「とおいうみ」、つまり「遠江(とおとうみ)」に対する「ちかいうみ」、つまり「遠(とおと)」を抜いた「江(うみ)」は「琵琶湖」であった。つまり「近江(ちかつうみ)」が「淡海(おうみ)」であった。同様に、「近い宇佐」に対して「遠い宇佐」もあった。「とおとうさ」、つまり「とおつうさ(遠宇佐)」、「とおさ」、「とさ」であった。
私は、邪馬台国卑弥呼を研究することにより、「魏志倭人伝」の文字は、元は‘草書’で書かれていたことを知った。楷書ではなく。草書で書けば、‘邪馬臺国’も‘邪馬壹国’もおなじ。「麻氐良須(アマテラス)」と「麻氐良布」、「麻久良布」、「麻久良須」、「アサクラ」と同じ。草書で書けば同じになると知った。 「朝倉(アサクラ)」は「天照(アマテラス)」であった。これについては、拙著「卑弥呼と邪馬台国の真実」に詳しく書いた。
卑弥呼の後を継いだ「臺与(トヨ)」は「壹与(イヨ)」でもあった。つまり、「台与」は「伊予」でもあった。「伊予二名島」は「台与二名島」でもある。その意味で言えば「伊予」は「豊」であった。結局、「豊」の国の「遠つ宇佐」であった。
たまたま、20年ほど前、土方家の系図を親類から送られ、うさん臭いものとしてそのままにしていたが、数年前から歴史を調べる傍らついでに調べるといろいろな人とつながっていることが分かった。系図を遡っていくと、天皇家にも蘇我にもつながっていることが分かった。日本人なら25代前は天皇家につながるといわれるが、そうであった。45代前には大山守親王に。彼は応神天皇の第一皇子であり皇太子であった。
しかし、謀反をたくらんだ大山守親王は廃太子され、大雀命が後継となった。しかし、大雀命が後継となるまでにはさらに骨肉の争いがあり、その末にやっと大雀命が天皇になることになった。それが後の仁徳天皇である。古事記・日本書紀では「聖帝」と呼ばれ、仁政を行ったといわれる。しかし、その最後は哀れで、そのような天皇の名には「徳」の文字がつくという。この漢風諡号を考えたのは淡海三船である。彼はまさにその人を言い表した「その帝に最適の名」をつけたといわれる。
淡海三船が一括選定したといわれる天皇の漢風諡号には、当時は天皇に数えられなかった弘文天皇とすでに諡号の決まっていた文武天皇を除き、神武天皇から元正天皇までの天皇と、当時は第15代天皇に数えられていた神功皇后の諡号も含まれるという。一説には、淳仁天皇を除き、光仁天皇までという説もある。
そして、土方家の先祖である大山守親王は、系図には、廃太子の後、「山野の塵」となったと書かれている。その大山守親王の子孫は、その後、何代かは「王」であったが、臣籍降下し「日出方」を名乗った。そして、後に「土方」となった。
現在の土方家の親類は系図にわかっているだけで100人以上になる。わからないものも含めると同一世代で数百人いるのではないかと考えられる。しかしこれは、どの人にも当てはまることで、計算上は二人の男女ペアから45代後には日本の人口を超えてしまうことに。実際にはそうはならないが、それは何代か後には子孫同士が「同族婚」をしているからであると思われる。結局、日本人はいくつかの数系統にはなるが、ほとんどは血族になるものと思われる。父方か母方かのどちらかのどこかでみんなつながっているのである。
世界的には、系図上だけで言えばアダムからイエスまで60代といわれる。アダムの子孫は、実際には何百歳という人もいるので、同列には言えないが、神武天皇から土方水月までが60代であるから、そんなに古くはない。2,000年を60で割ると1代33年くらいである。実際にはもっと短いはず、それから考えれば、神武天皇は紀元前の人ではないことに。
日本人は日本の歴史を知らないとよく言われる。たしかに日本の建国年を言える人は少ない。日本の建国年は文武天皇の御代の西暦701年である。また建国日は2月11日ではない。この日は「建国記念の日」であり、なぜこの日が「記念日」なのかは誰も知らない。定めた人だけが知っている。
その「謎」から、解いていきたいと思う。