神様の家系図と日本人の家系図 その1 アダムよりも古いのはなぜか その6 古代氏族の系図 利波臣氏と武内宿禰 土方水月
【系図学(系譜学)】古代氏族の系図 その2 佐伯有清氏の古代氏族の系図 利波臣氏と武内宿禰 ひじかたすいげつ
佐伯有清氏の「古代氏族の系図」に紹介されている「越中石黒系図」の第一葉には「皇孫部/利波臣トナミノオミ今称藤原氏」と記されているという。その利波臣氏の名は越中富山の礪波郡伊加流伎野の南の井山庄にあたる地に由来するという。この地の大領少領にその名がみえる。この系図には「評(こおり)」についての記載があり、さらには系統や郡司職としての推移が明確に記載されているという。
それによれば、利波臣氏は孝元天皇を祖とする彦太忍信命の孫である武内宿禰の子孫となっている。さらにその子のひとりである若子宿禰の子である大河音宿禰の子-努美臣の子-麻都臣の弟-波利古臣(男大迹天皇御時賜利波評)とあり、このとき礪波評となっている。さらにその子は大籠臣であり、その子は気飯臣であり、その子は財古臣(岡本朝為利波評督)ともあった。そのさらに子が山万呂(庚午年籍履利波臣姓)とある。
つまり、利波臣姓はこの山万呂が始祖であった。しかし古事記では孝霊天皇の皇子日子刺肩別命が「古志の利波臣、豊国の国前臣、五百原君、角鹿の海直の祖なり」とあるにもかかわらず、越中国礪波郡の豪族利波臣氏の系図とその系統が異なっているのはどういうことか?
利波臣氏の系図にある後裔氏族を、古事記と紀氏家牒蘇と我石川両氏系図における後裔氏族との比較で検討した結果、この系図は835年以後であり842年以前の成立であるという。そして、先代旧事本紀の記載とも合う部分があるとし、ある意味先代旧事本紀の正しさの傍証でもあるとも思われる。
この利波氏の系図が正しいとしても、若子宿禰の子である大河音宿禰の子-努美臣と、その子-麻都臣の弟-波利古臣との間には何代かが抜け落ちているとしなければ波利古臣の時代が継体天皇の時代にはならないという。
そう考えれば、この系図の努美臣以前が間違っている可能性もあるが、仮に正しいとすればどのようなことが考えられるか?
第一世の武内宿禰は二人いたといわれる。そしてオオウスとオウスであるヤマトタケルの弟であった成務天皇とも双子であった。つまり、景行天皇の皇子は長男がオオウスであり、次男がオウス(ヤマトタケル)であり三男が成務天皇と武内宿禰であった。成務天皇と武内宿禰は双子であったために、武内宿禰は屋主忍男武雄心命に与えられその子とされたといわれる。
さらに、武内宿禰とは世襲名であり、個人名は別にあるといわれる。その子には、羽田矢代宿禰、巨勢雄柄宿禰、蘇我石川宿禰、平群木菟宿禰、紀角宿禰、久米能摩伊刀媛、努能伊呂媛、葛城長江襲津彦、若子宿禰の7男2女9人がおり、葛城長江襲津彦以外の男子には宿禰と付いている。この宿禰という名称は後にできた姓の宿祢ではないといわれ、武内宿禰の称号を持つ証ともいわれる。つまり、7人のうち6人が武内宿禰であったことになる。
もともとの第一世武内宿禰は成務天皇を含めて4人いたともいわれる。もとより成務天皇は天皇であったから、つけ髭を付け替えて、ときどき武内宿禰と入れ替わっていただけで、正式な武内宿禰ではなかったと考えられるから、第一世武内宿禰は3人であったのかもしれない。
武内宿禰は同時に2名いたという。裏と表とあり、どちらかが亡くなってもその口伝を失わないようにしているといわれる。つまり、初代を含む複数人が第一世であり、第二世以降は裏と表2名ずつと考えれば、武内宿禰の子6人が順次武内宿禰を継いでいったと考えられる。そうとすれば、複数人いた武内宿禰の一方は上記の通りの末裔であったとしても、もう一方は異なる子孫を持っていたとしても不思議はない。
上にある努美臣とは努美宿祢-つまり乃美宿祢と後世古事記に書かれた東出雲王家の富家の名であった。西出雲王家は神門臣家というからには、東出雲王家は富臣家といっておかしくはない。富臣家は努美臣家であり、登美臣家でもあった。
つづく