六月病、「元気がないね」と言われたら
6月は、春の終わりと初夏の訪れのあいだにひっそりと息を潜める「魔境」みたいだ。春物のカーディガンから半袖のシャツに切り替え、夏の旅行の予定を少しずつ立て始めた矢先、忘れていた「梅雨」という渓谷にうっかりと足を滑らせる、そんな感じ。
季節の変わり目は、世間の空調管理が一気に狂う。電車やお店の冷房が効き過ぎていたり、そうかと思って外に飛び出したらジメジメと蒸し暑かったりして、体調を崩しやすい。梅雨の訪れで雨も多くなり、天気や気圧の変化で自律神経が乱れる人も多いという。そんな気だるい時期だというのに、何の手違いなのか知らないが、6月は年間で唯一、祝日が無い月なのだ。
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5月のゴールデンウィーク明けに「五月病」が流行しやすいのは知られていますが、近頃では6月にも「六月病」があるのをご存知ですか?生活や職場での環境の変化に心身が追いつかなかったり、季節の変わり目による自律神経の乱れでストレスがかかり、「六月病」を発症する人が増えているようです。
付けっぱなしにしていたテレビから聞こえてきた女性アナウンサーの声に、私の耳は反応した。テレビに目をやると、「今日の特集:六月病」と出ていた。街灯インタビューを受けた人が「そう言われてみれば、六月病かもしれないですねー」と、画面の中で半笑いを浮かべていた。
テレビの前に座る私も、半笑いを浮かべていた。6月のど真ん中の、そのまた週半ばの水曜日。私はその日、仕事を休んでいた。働き出してから、初めての有給休暇を消費した。
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前の週末から季節の変わり目の風邪をこじらせ、体調を崩していた。喫茶店に行けば、冷房が当たらない席を選ぶのに神経質になったり、「冷房を弱めていただけませんか」とウェイターに懇願したりするのに忙しい。台風接近による気圧の変化なのか、まるで空気中の酸素がゼリー状に固まってしまったみたいに息苦しかった。風邪薬と酸素不足の総攻撃で、ものすごく眠くて頭がおかしくなりそうだった。
「心身ともに」という言葉があるが、あれは甚だ間違いではない。体調が悪いと、それだけで自然と気持ちも落ち込んでしまうのだ。私はあれこれとつまらぬ考えを巡らせることが多いが、体調が悪いと気づかぬうちに、思考の糸がうっかり絡まってほどけなくなってしまうこともしばしばである。このたびの風邪と台風の訪れとともに、見事にそのドツボにはまってしまった。
そういうわけで、「心身ともに」死に顔の状態が二日ほど続き、かなり参ってしまった。このまま一週間を走るのは、非常にしんどい。頑張れば乗り切れないこともない、しかし乗り切ったその先は、恐らく気が狂って手が付けられなくなるだろうと予感した。
カレンダーを見ると、翌日は特に大きな仕事の予定が入っていなかった。神様が「明日休まなかったら、そんな馬鹿なことはない」と言っている気がした。
6月のど真ん中の、そのまた週半ばの水曜日。私は文字通りの休暇を取ったのであった。
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休暇をしっかりと休み、体調はほぼ回復したので、翌日仕事に行った。しかし「心身ともに」の前者の方は、まだ少し様子がおかしかった。体は風邪薬を飲めば治るが、心の方はどうやったらいいのか、よくわからないのである。よくわからない私は、両耳にイヤホンを詰めたまま、朝からひどく口数が少なかった。
仕事場の人が、気を遣ってチャットのメッセージを送ってくれた。
「体調、よくなった?元気なさそうだね」
こういう質問をされた場合は「大丈夫ですよ、だいぶ元気になりました」と返事するのが正解というか、理想的なのかもしれない。しかし残念なことに、私は頭で考えていることと口で言っていることが合っていないと気持ちが悪くなってしまうので、「大丈夫ですよ」と返事を打つことがどうしてもできなかった。
「ぼちぼちです」
私はたったそれだけ、返事をした。気を遣った答えができないのは申し訳ないが...と思っていると、相手から返事が来た。
「ふーん (・-・) 」
ふーん。それ以上も、それ以下もない。ただ、ふーん、である。
私はその三文字が、なぜかとても可笑しく感じた。そして不思議なことに、心がすうと落ち着いた。自分が送った前の六文字を、もう一度じっと眺めてみた。
「ぼちぼちです」
果たして"こいつ"は一体、何が「ぼちぼち」だったんだろう。ちょっと首を伸ばして、「ぼちぼち」の中を覗き込んでみる。しかし、覗き込めば覗き込むほど、探せば探すほどに、はっきりとした「ぼちぼち」の原因が見つからないのである。"こいつ"は、一体何に対して落ち込んでいたのだろうか?
本当は「落ち込んでいた」のではなく、「"落ち込んでいる"と思い込んでいた」だけなんじゃないか?
その瞬間、何かからシュっと体が解放された感じがした。「ぼちぼちです」と答えた"こいつ"が急に滑稽にみえてきて、踏みつけて高笑いしたい気持ちになった。
その後は、普通に仕事を進めることができた。
昼下がり、いつも行く喫茶店にコーヒーを買いに行った。台風が遠のいた空は青く晴れ、乾いた風が充分に肺を満たした。キリッと冷えたアイスコーヒーを二つ、両手に持って歩きながら、私は頭の中で「ふーん」と唱えた。
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《あとがき》
この出来事があったすぐ後に、しいたけ占いのしいたけさんの記事が出ていました。内容がタイムリーすぎて、「私のために書いてくれたのでは?」と感じてしまったほどです。
要約すると、人には「良い波」と「悪い波」があり、調子が悪いと感じるときは、ただその「悪い波」に呑まれているだけかもしれない。「悪い波」の中にある時は、大して悪いことが起きているわけでもないのに、「すべてが終わりだー!」と落ち込んだり、「悪い波」の原因に復讐行為を仕掛けようとしたりしてしまう。だから、なるべく「良い波」に持って行けるように心掛ければ、コントロールできる、といったところでしょうか。読んでいてとても気持ちがよかったです。
私が「ぼちぼちです」と答えた時、へんに「どうしたの?」と深堀りされなかったのが良かったんだろうな、と思いました。「どうしたの?」と聞かれていたら、ありもしない「元気がない理由」まで無理矢理に探して答えなければならないので、余計に元気を無くしていたかもしれません。
「悪い波」という形無き不調に溺れていた私は、「ふーん」という一言で突然、砂浜にザブーンと打ち上げられたのでしょう。相手がそれを知っていたのかそうでないのかはわかりませんが、あの時は「ふーん」という返事をもらって良かったと思いました。
6月は「心身ともに」体調を崩しやすい時期です。私も、あなたも。たまには「元気がないよ」と言ってみてもいいでしょう。元気がないときは、休みましょう。雨が止んで晴れ間が見えるのを、ゆっくり待つとしましょう。