凡人が天才に追いつけない理由
身の回りに天才っていますか?
私は天才って言うと、トップアスリートや一流企業の経営者などを思い浮かべます。イチローや孫正義、スティーブジョブスなどなど。。。
身の回りでも「あいつは仕事が早い」「あいつは頭の回転が速い」といったように、なんだか凡人とは程遠いような天才は意外といますよね。
そう考えると、やはり一部的には、段違いに生産性の高い天才的な能力をもっているひとはいるということです。
「正直同じ人間とは思えない」
そう思う経験も人生のなかで何度か存在することでしょう。
さて、小さいころにこんな言葉をよく耳にしました。
「みんな違ってみんな良い」
誰に対しても長所・短所はしっかりとあり、誰にでも一つは備わっています。
しかしここで私は思うのです。
長所がいっぱいある人は短所も多いというわけではない。逆が成り立つこともなく、バランスの良い構図にはなっていない。。
明らかに長所ばかりの人間もいるし、理不尽なことに、短所ばかりの人間というのは、やはり存在すると思いませんか?
ではなぜ同じ時を過ごしているにも関わらず、明らかに生産性や能力の高い人間が生まれ、こんなにも差がついてしまうのか。
今回はそんな疑問に食い下がってみようと思います。
「そもそも天才とは天から授かった才なのか」
天才(てんさい)
天性の才能、生まれつき備わった優れた才能(生まれつき優れた才能を備わった人物)のことである。
天才的な能力を持つすべての人間が、いわゆる「天才」であるとは限りません。
私たち凡人が、天才的だと思っているように見えるからといって、実際に天才であるとは限らないのではないでしょうか?もしかしたら彼らは天才ではないかもしれない。
逆に私たちもこれからの人生次第では「天才的な能力」を手に入れることができるかもしれない。
「天才」になれるかもしれない。
ここで一つ、考えてみてほしいんです。
見かけの能力だけであるならば、実は私たち皆十分に天才的であると言えませんか?
・当たり前に文字の読み書きができる
・計算ができる
大昔にさかのぼると、文字が読み書きできるというのは、それだけで十分、少数派かつ天才と呼ばれる人間になれたわけです。日本でも200年ほど前には、読み書きができない人が多かったそうです。
また、中学、高校で当たり前にならう数学においても発見された当時は、世界で天才と称されたわけです。微分・積分なんて17世紀当時は、ほんの数人(ニュートンなど)しか理解していなかったでしょう。
そう、、、我々は「読み書きができ、計算ができる」。
とはいえ、これができるすべての人間を「天才」と呼べますか?
いいえ、ただ単に恵まれた環境で育ち、学んできたからできるのです。
ただそれだけのことです。
もしかしたら、「天才」とはたったそれだけのことなのかもしれません。
今皆さんが天才だと思っている人たちも、「環境や教育」があったということです。
つまりはあなたが天才だと思う人がしている努力を正しいやり方で継続すれば、しかるべき時間の後で、同じような人間になれるのではないでしょうか。
その可能性は十分にあると思うのです。
「絶対音感」は習得できる
有名な話に「絶対音感」があります。
そうです。ある音を直感的にどの音階か認識できる能力です。
遥か昔、絶対音感をもつ人間は1人/10000人だと言われていました。
しかし、今はどうでしょう?身近な人の中にもいたりと、本当にそんな確率でしか生まれない天才なのでしょうか?
いいえ、現在では「絶対音感」は、小さい頃に特定の訓練を受けることで習得できるそうです。
習得しなかったことが悔やまれますね。。
これは先ほどの読み書きと同じように、それまで天才と思われていたものが、環境や学びによって得ることができるということの証明になります。
読み書きが習得可能になり、計算が誰でもできるようになり、絶対音感が100%習得できることが分かり、天才と言える能力がことごとく、やり方次第で身につけられる能力だと判明している。
それにもかかわらず、なぜ今私たちが天才だと思っている人の能力は、ただの天才として扱われてしまうのでしょうか。
これに対する答えはこうだと思います。
「天才的な能力を持った人間を天才として受け入れるしかないのは、その壁があまりに高すぎるから」
「彼らは凡人とはかけ離れている、私たちではどう頑張っても追いつくことができない。そう自分に言い訳をしなくてはならないほど、自分とは違う存在である。」
その天才的な能力がたとえ生まれつきのものではなく、後天的に得た能力の集大成だとしてもです。あまりに大きな差が付きすぎているからです。
この仮説が本当ならば、「努力」で追いつける領域にいるべきであるにもかかわらず、とてもそうとは思えないからです。
だって絶対音感すら習得できるのに。
ではそこに何か理由はあるのでしょうか?
能力は資本主義である
凡人と天才が「努力」ではなんともならないような差を感じてしまうのには理由があるのでしょうか?
能力は「資本主義」である。
そんな捉え方をできるのも面白いなと思います。
能力を得るためにも「能力」が必要であるという意味です。
例えば、500年前の15歳の少女に一次方程式を教えたところで、全く持って理解できないでしょう。しかし、現在の中学生であれば、それほど困難なことでもありません。
なんせ彼ら、彼女らには、過去に学んできた「足し算・引き算・掛け算・割り算」といったような能力があるからです。
これを「資本主義」のようなものとしてとらえます。
とはいえ、こんなの当たり前の話ですよね。
そう、当たり前のことなんです。
「能力を得るために能力が必要」だということは。
つまり能力のある有能な人は無能な人に比べて圧倒的な速度で成長を遂げていくわけです。
今日10の能力があり、1日で11に伸ばすことができるならば、今日100の能力を持つ人は、1日で110まで伸ばすことができる。。そんな話なのです。
複利計算のように雪だるま式に、能力は獲得されていくのです。
お金がお金を呼ぶという言葉があるように、能力が能力を呼ぶのです。
これにより膨れ上がった差は、一見すると遥か遠くの追いつけないものに感じるかもしれません。
そして実際、そこに追いつくというのは容易なことではありません。
では諦めるべきなのでしょうか?
今もっているもの(資産)で能力を獲得する必要があるのです。
持たざる者はどうしたら良いでしょうか。
そこには資本主義経済を簡単に理解することが求められます。
それはまるで投資のように、「資産と利率」を意識することです。
持っているお金(能力)が大きい程に、増やしていけるお金(能力)も大きいわけです。
そしてそこにはもう一つ「利率」が関係してきます。
1年で5%の利益が得られるならば、100万→105万となる。
これが10%なら、100万→110万だ。
つまり持たざる者にできることは、「利率」を上げることであるというわけです。
ある期間で資産が2倍になるとすれば、時間をかけることで10倍にも100倍にも膨れ上がるのです。
これが私たち凡人にできるすべてです。
では、能力における利率とは?
それは「正しく効率よく努力すること」です。
実際、「天才」と呼ばれる人たちは、毎日の利息にこだわっています。
・研究された食事メニュー
・プロたちが生み出したトレーニング法
・睡眠の質
・無駄な時間の省略
・無駄な思考の省略
など、考えてみるとたくさんありますよね。
彼らはおそらく気づいています、今日少しでも自分を成長させることが、その後の成長速度にも関与してくるということを。
複利計算の重要さを。
そしていわゆる「凡人」の生活は隙だらけです。
飲み会やゲーム、夜更かしやジャンクフード。もちろん私自身も隙だらけなわけですから、皆さんと同じ立場、もしくはそれよりもより低い立場であることは間違いありません。
そしてそんな私が、去年1年で得た能力や学びの2倍以上を今年で得るというのは、それほど現実からかけ離れていることではありません。
来年、今の2倍のスピードで自分を高めていくこともきっとできるはずです。
ろくに教育さえ受けていなかった人間が、義務教育一つでここまで「天才」につくりかわったのと同じようにです。
適当な今の自分をつくりかえて「天才」な自分を生み出すことも絶対に可能だと思うんです。
毎日の成長は、その短期的な成長にとどまらないのです。
もちろん、これに共感するかどうかはあなた次第。
私がただ良いなと思う価値観を公表したにすぎません。
凡人であることも一つの幸せであり、生き方は人それぞれです。
ただ私の願いはこの記事を読んで、また次の記事も読みたいなと思ってもらえるようになることです。
では、最後までありがとうございました。
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