「常識=正しい」は宗教という考え
こんにちは。
ちょっと面白い話をします。
普段からこの世界についていろいろと思考を巡らせているわけですが、僕のなかにはこんな考えがあります。
世界は、マイノリティ(少数派)によって更新され、マジョリティ(多数派)によって保持されている。
「世間的にはこうだからこうすべき。」
「常識が正しいとは限らないから自分で決めるべき」
あなたはどちらの考えでしょうか?
このnoteを開くくらいですから、きっと後者の方が多いはずです。
そんなあなたは世界的にみると、マイノリティ(少数派)なのです。
周りを見渡してみると、あまりに常識のままに決断・行動する人が多い。
今回は、そんな常識人たちによって世界は保持され、あなたのようなマイノリティによって世界は更新されてきたという話をしましょう。
常識はいつの時代も虚構(フィクション)である
地球平面説・地球中心説・万有引力
「地球は平面になっています」
僕が今こういったら大きく笑われる、というか相手にもされないだろう。
しかし当時はどうだっただろうか?きっと「地球は球体になっています」と唱えた人の方が大きく笑われたことだろう。
船で行った先が新大陸ではなく、同じ陸の反対岸であったなどというのは今では笑い話のようだ。
しかし当時は、「地球は平面」であると考える人がマジョリティであり、常識だったのだ。
これに対し、「地球は球体である」といったマイノリティが居たことによって世界はガラリと変わったのである。
太陽が中心に地球が回っていたと発覚した時もそう、りんごが地球に吸い寄せられていると発覚した時もそう。
電気が作られた時も、戦争が悪であるとされ始めたときも、体罰という概念ができたことでさえも、マイノリティによって世界や国が更新されている。
この事実を踏まえて、果たして今の常識は、フィクションでないと言えるだろうか。
マイノリティからマジョリティへ移り変わる
世界が更新された後、それまでのマジョリティは大移動を始める。
当時相手国を悪い国だと思い込まされ、戦争に夢中になっていた国民は、相手国と共存する平和主義へと移り変わった。
戦後数年かけて、「戦争=悪」という常識へと変わり、「戦争が当たり前」という時代から、「戦争がないのは当たり前」という時代へと変わった。
このように、常識はあるタイミングで更新され、マジョリティによって保持される。
歴史に関してもし間違いがあるなら指摘してほしい。
専門家ではないので、知識がある人からしたらおかしな部分もあるかもしれない。
しかし抽象的な部分は間違ってない。
「世界はマイノリティによって更新され、マジョリティによって保持されている」
常識はフィクションであり、それを宗教のように信ずるマジョリティが居て、今の世界が保持されている。
これはあらゆる常識に対して同じことが言えるのだ。
現代におけるフィクションの例
すべてフィクションにすぎない。例を挙げるときりがない。
果たして高校に通うことが偉いのか?大学に進学することが偉いのか?大企業に勤めることが偉いのか?
そもそも人の価値はスキルであり、性格である。
高校に通うことで得られるスキル、大学に進学することで身につくスキルには確かに価値があるかもしれない。
しかし、大学に進学すること自体に価値はない。
そこで何を学び、何を習得し、何を成し遂げたのかが大事なのだ。
終身雇用といった考え方もどんどん移り変わっていく。
女は30代までに結婚しないと大変。。
そもそも結婚というのは形でしかない。結婚そのものに価値があるのではなく、人と人が愛し合い、そこから新しい命が芽生えることに価値がある。
日本政府は悪である。。
最低限の衣食住が保証され、命の危機にさらされるリスクが軽減されているのは、国のおかげであり、政府のおかげである。
コロナウイルスが東京で拡大しているにも関わらず緊急事態宣言をしないのは、人がパニックに陥って地方へ移動することで感染がより拡大するのを防ぐためである。
交通機関を止めればいいと言うが、それでは経済への負担があまりに大きすぎる。
「自粛」というのは、その意図をくみ取ってほしいというメッセージのようなものだ。
政治家も人間であり、現実であり、なんでも夢をかなえてくれるロボットとは違う。
常識から抜け出し、本質を見よう
要するに大衆(マジョリティ)は、常識というフィクションに踊らされており、そこに一石を投じることができるのは、天才・秀才・変わり者といったマイノリティである。
だからこそ、この記事を開いてくれたあなたには「マジョリティ」であってほしくないのだ。
天才でも凡人でも見える世界は同じ。でも、世界の見方や捉え方が違う。
自ら常識を疑い、多種多様な情報をもとに自分で判断を下してほしい。
なにも歴史の話をするためにこの記事を書いているわけではないのだ。
今の時代の生き方
インターネットが国境を飛び越え、膨大な情報とネットワークコミュニティによって、人々が「サイレント・マジョリティ(静かな大衆)」である時代が終わった。
これまで王道だった「会社員となって家族を養い、家を買う」という生き方を選ぶ人たちが減っている。
一方、ニートや若年派遣労働者、シングルマザー、独居老人といった層が増加し、これまでのマジョリティとマイノリティの比率が逆転しつつあるのだ。
マイノリティはそれぞれの小さなコミュニティを形成し、そうしたコミュニティが数多く乱立するだろう。
中央集権的なタテ社会から、フラットなヨコ社会へと変わっていく。
ヨコ社会においてお金の経済的価値は薄まり、信用を中心とした社会になることで、お金はそれらのコミュニティ同士でやりとりされるだけのものとなる。
これらを踏まえて僕の考えは間違っていたことに気づいた。
仕事に対して、「集団(会社)→個人」という規模に収束すると考えていたが、正しくはこう。
「集団(会社)→ 個人→ 関係(コミュニティ)」
youtuberのコミュニティがあったり、フリーランスのコミュニティがあったり、経営者同士のコミュニティがあったり。
細かく言えばその中でも細分化される。
似通った個人が関係をもつことになる。
自分、そしてあなたにできることは、会社に骨をうずめることではなく、個人として輝きを持ち、その輝きを共有することである。
まとめ
回りくどくなってしまって申し訳ないです。
「人間は考える葦である」で名高いパスカルは友人への手紙にこう綴ったそうです。
やはり、自分の言いたいことを簡潔に文章にまとめるのは難しいですね。
これだけ書いておきながら、頭の固い文章はどうも苦手なので、簡単にこの記事で伝えたいことをまとめます。
「常識は人生指南ではない」
決断を常識にゆだねるのではなく、
自分で判断し、自分で決断してほしい。
人は間違って成長する生き物だから。
それでは今回はここまで。
参考にさせていただいたもの↓