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肩書きに縛られない人生を楽しむ

おはようございます。いつものことながら簡単に自己紹介します。私は48歳の時に適応障害を患い、教員を休職。その後、復職するも2度目の休職を経て早期退職をしました。現在、Webライティングのお仕事をいただきながら、暮らすように働く日々を送る54歳主婦です。

これまで50記事以上のnoteを書いてきました。noteは私にとって皆様へのメッセージと同時に、自身の心の整理になっている…と改めて感じます。読んでくださる方、そしてnoteというプラットフォームを提供してくださる方々に、心から感謝申し上げます。

さて、先日、50代女性教員の先生への応援マガジンを一旦修了する旨をお伝えしましたが「ちょっと待てよ、もうちょっと書きたいことあるかも」と思い、今後もメッセージを伝えていくこととしました。その過程で、日々の気づきや近況報告など、自由に挟む感じで続けていければと思っています。

このnoteを通じて、私は自己理解や自己受容を深めることができています。結果として、ではありますが、お一人でも共感、あるいは前に進める気持ちをもっていただけたら幸いです。

ということで…。

今回は「肩書き」について書いてみたいと思います。よろしければ、一緒に考えてみてください。

人はいつから肩書きをもつのだろう?

かた‐がき【肩書(き)】
読み方:かたがき
[名](スル)
1 名刺や印刷物などで、氏名の上部や右肩に官位・職名などを添えて書くこと。また、その官位・職名など。
「番地官名など細かに—して」〈蘆花・不如帰〉
2 その人を特徴づける社会的な地位・称号など。「—がものをいう」
3 前科。悪名。

デジタル大辞泉

肩書きとは、デジタル大辞泉によれば上記のとおり。簡単にいえば「名刺や印刷物などで、氏名の添えて書かれる職名や地位」です。言わずもがな、ですね。

この肩書き、いつから始まるかと言えば、保育園や幼稚園に入ったころからかな。その後は「学校」。たとえば、○○小学校6年、○○高等学校○○科1年、○○大学○○学部○○専攻2年といったように。学生であっても年齢を重ねるにつれて、○○の部分が何かしらの評価対象となる感じもします。

社会人になれば所属先、職名、官位などが加わります。会社の名前から、自分の名前にたどり着くまで、非常に長い肩書きも存在する方もいらっしゃるでしょう。

この肩書きに誇りをもって名刺を渡す人も少なくないと思います。自分の名前よりも、先ほどの〇〇の部分を強調したいとか、ね。それは言い過ぎかもしれませんが。

肩書きをとったあとの自分は?

肩書きを切望して、肩書きに溺れて、肩書きに心酔して…。

それがすべて悪いとはいえず、モチベーションを保つためには、必要なことかもしれません。ただ、ずっと、そのような状態でいるのは、少々”イタイ”結果を招くこともあり得ます。

どこかで潔く、肩書きを外してみる、そうした機会やタイミングを設定しておくのも必要かと思います。心の持ち方や方法は人それぞれ。

ある人は「肩書きは肩書きとして、その自分を一生懸命演じるけれど、ここにはない”自分(名前)”をしっかり保っていたい」と意識する。

また、「会社や組織関係の肩書き以外の自分を育てたい、だから趣味の〇〇をずっと続けていく」とfreeな時間を大切にする。

あるいは「組織が危機に陥った時は、責任ある行動を取りつつ、最後は潔く辞する覚悟ーその後”私”に戻っても、なお実直に生きていく」と決めている方もいるでしょう。

肩書きがない自分を想定して、何かしらの準備や決意をもっておくのは大事なことかと思います。

肩書きも色々、多彩であれ

一つのことを全うする、一本の道を貫く、といった生き方も素晴らしいのですが、全員がそのようになれるかといえば、難しいでしょう。一つのことに力を尽くし、かつ長く続けられる人は、幸せです。しかし、幸せの形はさまざま。

あれもこれもと、ちょっとかじって普通よりは「知っている、できる」といったものを色々持つのも楽しい人生です。

そう、肩書きも色々あっていい、多才ならぬ、多彩でいい

私は、自分でいうのもなんですが、子どものころから比較的器用な人でした。しかし、思春期からずっと、それがイヤでもあった。実は、一つのことに長けている、プロレベルの方々や先生方に憧れていました。ずっとです。

自分には「これ」といった特技や専門性はない。そう決めつけて、校長先生に相談したこともあります。だったら、何かを見つけて努力すればよいのですが、ね。英語教育や音楽や、授業方法や、さまざまなことに挑戦したのですが、いつまでたっても私のコンプレックスは収まりませんでした。

ただ、辞めて気づいたことがあります。肩書きも何もかもなくしてしまったあとに。それは、

プロになれる人となれない人がいる。私はなれないんだから、この際、色々やりたいことやって、多彩になればいいじゃないか

やっと「諦めがついた」のかもしれません。「諦め」というのは悪いことではないなあ、と最近思います。諦めるというのは、新たな道が開けるということ。

やっと自分を解放できたんですね。多才ならぬ、多彩で自分を楽しませる。そうした感覚がもてたのも、教員をやってもがいて、辞めて、再びもがいていく過程があったからこそ。経験は無駄ではないー。

おわりに:”肩書き”を上手に使ってみる

おそらく、ですが、名刺をもってらっしゃる先生は少ないのではないでしょうか。校長先生でしたら対外的な理由で名刺を持ってるかもしれませんね。

肩書きがすべてではありませんが、悪くない場合もあります。モチベーションを保ったり高めたりするために、一つ作ってみるのも良いかと思うのです。作ることで自覚が生まれる可能性もあります。

ただ、そのときに、自分の名前(自分自身の本当のところ)を大事にして、肩書きを外した生の自分を保血、高めることは大切ですよね。

その意識をサポートするために、通常の肩書きに色々「つけて」みるー。

〇〇小学校教諭、だけでなく、趣味やコレクションなどを入れてみるのです。

たとえば「なわとび達人」「ポケモンGO愛好家」「シュークリーム食べ比べ実践中」とかでも構いません。これが加わると仕事だけではない本当の自分をキープでき、楽しく仕事ができそうです。そこに、自分のキャラクターイラストを添えれば、完璧!

肩書きさえも自由な発想で変えたり加えたりして、自分の心に彩りを添えてみるのはメンタルにも良い影響を与えそうです。

と、書いてきた私自身も、今後作ってみようかな、と思いました。皆様も良かったら試作してみてくださいね。

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ひーこ【50代元教員ライター主婦】
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