「気遣ってないと見せかけて実はめちゃくちゃ気遣ってるよね」と言われた話①
はじめに(この文章はとても長くなる予定です)
私は人に気を遣っているという感覚があまりありませんでした。というよりはむしろ「まだ足りていない、もっと気を遣わなくては」と思っていたほどでした。だから、「いつも気を遣って大変そうだね」って言われても何のことかよくわからなかったのです。
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昨日は家から出て、久しぶりに対面で人と話すことができた。
今庄さん(私にはこの呼び方が一番しっくりくる)とはよくtwitter上でも絡んでいて、近況報告かぼやきを聞いてもらうか、何ならちょっとしたおしゃべりくらいのつもりでいたけど、なんと本格的なお悩み相談に乗ってくれた。彼女の仕事はそれこそ悩みに関わるようなことなのに。
私が悩みとして口に出したのは「最近自分と周りが合わないと感じる。しんどい。同族の仲間が欲しい」という事だが、結論として目をつけるべきところは半分予想外で、半分「実はちょっと気づいてました」みたいな部分だった。
・私はあたかもこれが素であるように、オープンであるように振る舞いながらも実は「他人との距離感」をめちゃくちゃ気にしていた。
・自分の能力や肩書しか見てもらえないコンプレックスから「素の自分は愛されない」と考え、他人に好かれるために距離感以外にも「自分の好きなもの」すら誰かと友達になるための手段として使っていた。
という話をする(予定)。
距離感への気づき
「今まで年上の人にとても良くしてもらってきた、幸せなことだ」みたいな話をした時に、「そりゃそうだ、だってすごく気を遣ってもらえるんだもの」と返ってきた。私と今庄さんはだいたい親子くらい年が離れている。
「なんで年上の人に好かれると思う?」と聞かれて、「うーーーん、距離なさそうに振る舞うからじゃないですか?だから生意気って思われることもありますけど」と答えた。私は子供のころから上下関係が好きではなく、ピアノ教室の先生や部活のコーチに「生意気だ」と言われることがよくあったので、それは「意識してそうしている」のではなく「私の生来の性質」だと思っていた。
彼女はこう続けたのだ。「相手のここまでは踏み込んでも大丈夫、ここから先は危険、波風を立てないように絶妙なバランスを保っている」と。私は「うーーーーーん、なんかそれだけ聞くといい子っぽいですね」と続けた。
ところが「いや、『いい子』じゃないんだよ。『いい子』にされると距離を感じるし、意識的に優等生的振る舞いをしようとしているのが分かりやすくて、こちらもそれに合った対応をする。でもあなたのは違う。ちょっと生意気っぽく振る舞う。だからこちらも砕けた対応をしやすいけど、本当のNGラインは越えてこない。こちらからしたらとてもやりやすい。」と彼女は言うのだ。
それを聞いて他人事のように「へーーー、うまいことやってるんですね」と言った。「そうそう!『うまいこと』やっているのよ!」と少し興奮気味に答えてくれた。
この「うまいことやっていく」ための距離感が、年上の人に限らず年の近い人に対しても発揮されているのだという。「どんな人とも波風立てないようにやっていくなんて疲れるに決まっている」んだと。
私は自身の異質さゆえに波風を立ててきた人間だと思っていた。「だから立てないでいようなんて、やろうとしたって無理に決まってんじゃん」と心の中では思っていたのだ。弟に以前「今まで周りを見て学ばなかったから、人と違う感じになったんだろ」と指摘されたことがある。確かにその通りだ。だが周りを見て学ばなかった代わりに、自分の中で醸成してきた処世術があったことを彼女は教えてくれたのだ。
私なりの処世術
このやり取りを通して私はあることを思い出いだした。中学生のころ、部活の相棒とも呼べる友人から「ぽちまるは天然じゃない」と言われたことがあるのだ。彼女はチームのキャプテンで、実力も人柄も文句なしにいい選手だった。家庭環境の影響だろうか、他人の顔色をよく見ている子だと思っていた。いわゆる「いい子」として大人に振る舞っており、時折チーム内で意見を言うのをためらうこともあった。「キャプテンだし一番うまいんだから、みんな言うこと聞くに決まってるのに」と不思議に思っていたものだ。そんな処世術に敏感な彼女の「お前は養殖天然」発言に、私は内心ドキッとしたのを今でも覚えている。
普段はぼんやりしている私だが、実は筋金入りの負けず嫌いだ。コート上での般若のような私と、普段のボサっとしている私はおよそ同一人物には見えないとよく言われていた。加えてマイペースで集団行動が苦手で、周りを見ないから突飛な発言をする。
そんな私にも他校の選手と交流する機会はたくさんあった。この人たちと仲良くなるために、コート上の狂暴なイメージを払拭して人畜無害と思われたい。さらに私が変なことやっちゃうのも見逃してほしい。この2つの願いを叶える答えが「天然を装う事」であり、近くにいた彼女はそれを見抜いていたのだ。
選手ではなく大人に話しかけられることもよくあった。小6になって急にチームが強くなってくると他校の指導者だけではなく保護者にも声をよくかけられた。もっとも、それは大会中に私が集団行動せず1人でふらついていて話しかけやすかったというのもあるだろう。だがこれが大人に愛されるにはどう振る舞えばいいかを学ぶ恰好の場だったと今は思う。私はコーチから散々言われてきた「選手として礼儀正しく振る舞う」ことより「人として愛されるために、可愛げに距離感近めに振る舞う」ことを優先したのだ。
そしてその戦略は成功した。選抜に選ばれたとき「ぽちまるまたがなんかやった?あいつならまぁいっか、困ったやつだよな」みたいな風に可愛がってもらえる立場につくことができた。それを他の選手たちも感じ取っていて、大会中にホテルの部屋にみんなが集まることを禁止されていたのだが、万が一集まっているのがばれてしまった時のために「ぽちまるがお腹痛いって言ってたから心配で」という口実を用意していたくらいだ。
ここまで書いていて大人との距離感に気を遣っていたということに自分自身驚きだ。キャプテンのおかげで選手に対して養殖天然の振る舞いをしていたことには自覚があったが、大人に対してどう振る舞うかを気にしていたことにここでやっと気づくことができた。
しかし今庄さん曰く、この距離感や処世術を持つに至るにはもっと根本的な原因があるはずなのだと。
続く