「気遣ってないと見せかけて実はめちゃくちゃ気遣ってるよね」と言われた話④
※スーパー傲慢注意※
今までのあらすじ
これまでの長い長い自分語りと今庄さんの指摘のおかげで、私の行動とその理由について以下のように説明できるようになった。
現状①愛されるために他人を気遣い、絶妙な距離感を保っている
現状②無意識に他人の期待に応えようとしてしまう
理由;1人の人間として自分の中身を愛されたいと思っているから
原因:中身愛されたい願望は親が自分の中身を見てくれなかった痛み
→どうしても愛されたくて無意識に期待に応えようとする
現状③能力、肩書に注目されることへの嫌悪感
原因:努力しても愛されるのは能力や機能であり中身が評価されることがなかった経験
現状④他人に対する諦め「人は話のネタなどのために適当に他者のことを見ている」
現状⑤他人に対して諦めはしても憎悪はしたくない
→対策:必要最低限の社会性の維持
結果:①がより強化されるというループへ
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以上を踏まえて、この記事では現在私が
・どんな人間関係を
・どんなやり方で構築してきて
・どんな問題が発生しているか
について考えた後、
・どのような改善策を用いるか(今後の方向性)
といった「今」に主眼を置いた話をしていきたいと思う。
現在の人間関係
私は②で書いてきたとおり、友達が少ない。というか実際にはあまり友達を作ろうと積極的なアクションを取っていない。「最低限の社会性」を保つことしかしていない。しかしそれは現実世界での話だ。私はちょうど2016年の年明けごろに配信を始め、twitterなどを通して友人を作ってきた。今回悩みが噴出したのもネットでの人間関係が原因である。
高校生の頃からハマっていた「東方project」の作品の良さを語り合う友達がリアルではいなかったこと(オタクがバレると排斥される恐れがありリアルではずっと隠していた)、ピアノで耳コピをやっており、視聴者という見張りがいれば練習も緊張感を持ってできると思ったこと、この2つが理由で私は配信を始めた。最初の頃は演奏と合間に東方の雑談を少ししており、東方好きかピアノ演奏好きが集まっていた。この頃は自分のことをコンテンツだと思っていた。同時視聴者数や通知登録数やコメントが増えることが嬉しかった。
4か月経ったころ、たまたまお絵かき配信をしたことがあり、これが意外と盛り上がった。絵が上手とかではなく、単に雑談がうまくいったからだろう。しかし、私は普段見せない別の一面を見せるとウケが良いと勘違いしたのだ。それ以降絵を描いたり、ゲームしたり、カラオケに行ったりして様々な自分を見せた。その度に受け入れられるものだから、自分はコンテンツではなく、あたかも1人の人間として受け入れられている感覚になってきた。いろいろなことやった影響で交流がある人のジャンルも多岐に渡るようになった。
それ以降だんだんと雑談の割合が増えていき、最近ではたまにゲームしたり、絵を描いたり、採譜したりするくらいになり、ついに割合が逆転したのだ。個人的な話をしたりオフ会をしたりしていくうちに人間関係はどんどん濃くなってゆき、コメント欄でもリスナー同士の交流が散見されるようになった。ここまでくると私の枠はリスナーの憩いの場となった。さらに弟の参入がダメ押しとなり枠は身内化の一途を辿った。現在はおそらく傍から見たら独特の空気を醸していることだろう。
ここまできて見事に当初の目的を忘れてしまっている、あるいは目的がズレてきていることに気づくだろう。最初は練習の見張りと自分の好きなものを語り合う人を見つけることだったのに、演奏ではなく自分そのものをコンテンツ化し、深い人間関係を作ることに目的がすり替わっている。
要するに、愛されたい願望が顔を覗かせてきたということだ。初めは諦めていたのに「ひょっとしたら私の中身見てくれるんでね?」と次第に期待するようになってしまったのだ。
人間関係構築方法
おそらく愛されたいと思っていた私は、以下のことをしていた。
①リスナーの名前を即覚える
②リスナーとの話を記憶し、再び来てもらえたらそれに関連する話をする
③リスナーの好きなものを好きになろうとする
④リスナーの話も聞く
⑤リスナーに適度に話を振る
⑥コメントへの反応は1人あたりにかける時間が公平になるようにする
⑦相手の主張に対して否定はしない
⑧リクエストにも応える
⑨身内リスナーの暴走を諫める
⑩距離無し18禁野郎、出会い厨、自己中など不穏分子の排除
このくらい普通にこなしている人もいるのだろう。しかし精神的に疲れていると、これはなかなかしんどいと思うようになった。私が話をしても「そんなことより自分の話を聞いて聞いて!」と延々とコメントされること、好きなものの話以外興味なさそうにされることが続くと、いら立ちを通り越して悲しくなってくる。「ああ、自分は愛されにきているのに、素のままの自分を私に受け入れてもらいたくて来ているくせに、私のことは大事にしてくれないんだ」と思うと空しくなった。自分が先んじて与えれば、与えたものを他人が返してくれるはずだと思っていた。でも実際はそうじゃなかった。
自分と同程度の気遣いを他人がしてくれないことと、憩いの場の管理者としての能力のみが重宝されており、私自身はそうではないことが辛いのだ。これが現在抱えている問題だ。
↓証拠のぼやきツイート
なぜそんな方法をとったの?
個性は使いどころだ。私のマイペース加減だって普段はただの欠点でも、諦めムード漂う試合中なら1人でも奮闘できるという長所になる。他の人の性格だって一緒だ。留学中、異邦人でありながら周囲に受け入れられた経験も、この考えに拍車をかけた。「人と違うのもいい。その人の素を大切にしよう。いい所を見つけられるようになろう!」みたいなのは私のコアの価値観だろう。
ここに前回長々と書いた「中身愛されたい問題」が絡んでくる。私の世界観では「なんもない人の方が愛される」し、実績とかステータスなんか持ってたって愛されなかった経験から、人間は中身だけを愛するものだという前提ができあがっている。
さらに私の枠には、根暗やコミュ障や女性恐怖症や社会不適合者を自称する人が多く、暗にステータスがない人間であることをほのめかしてくる。本人は謙遜しているつもりなのかもしれないが、「自分はこんなに悪いものなんです!」とアピールするわりに「だけど受け入れてほしいな」みたいな魂胆が見えて、私にはどうも理解しがたい。
だが、実際は私の性質とこの種の人たちによって奇妙な均衡が生まれているのだ。「ステータスないけど愛されたい」という需要と、「ステータスないものが愛される」という世界観を持っている私の、人間の中身を見ようとする行動、つまりは供給が一致している。
言い換えれば、この状況を作り出している原因の半分は私の性質なのだ。自分こそが他人を甘やかしている自覚がありながら、「私の甘やかしに耐えて、私以上の甘やかしパワーを発揮する人が現れんかな~」などと考えていた。端的に言ってアホだ。
今庄式処方箋
①「好き嫌い本音をはっきり出してけ」
②「好きなものを友達作りの道具にしない」
③「距離感に気遣うな、その分のエネルギーを好きなもののために使え」
④「奴隷は愛されない」
①好き嫌いや本音を出していけ
私は先も述べたように、他人の好きなものを嫌いというのを憚っていた。自分が否定されたら辛いからだ。でも案外他人は自分の好きなものの否定を嫌がるわりに「嫌い」と簡単に言うので、これからははっきり言っていこうと思う。それに今庄さんも「昔から人のこと気にして本音を言わないようにしてたんだから、言おうとしても言い方や加減が分からないでしょ?それも実際試してみないとわからないんだから、25年間先送りにしてたトレーニングを今からしっかりやろうね」とのこと。
確かに、嫌なことを嫌だと言えなくて困っている。オフ会の配信中、コラボ機能をオフにしていたにも関わらず、ライン電話で強制コラボ参加状態を作るというなかなか強引な割込み行為をされたことがある。ライン電話で割り込んできた側にも、私が受け入れるのは当然と電話に出た側にも腹を立てていたのだが、私はその場でまったく気にする素振りを見せなかった。でもこれからは、怒ったりやんわり言ったりしながら自分の気持ちを大切にしていこうと思う。(だいたい失礼なのは向こうだしね)目には目を、歯には歯を、自己中には自己中を!私が自分の気持ち尊重しないと、他人が勝手に思いやってくれるわけないしね。
(↑こんなこと言っときながらできてないんだけどね)
②好きなものを友達作り道具にするべからず
「絵師の中には承認欲求を満たすために絵を描いているやつもいる」「いいね!を得る手段として絵を描いているだけで、本当に絵を描くのが好きな人ばかりってわけじゃない」などと揶揄する人がいる。私はいいね欲しさに絵を描く気持ちはよくわからなかったが、友達と共有するもの欲しさに絵を描いているフシがあったようだ。東方のキャラが可愛い、このゲームや漫画のキャラがいい、ここが好き。そんな気持ちを他人と共有して仲良くなるために絵を描いていた。
絵に限らず、他人と楽しい時間を過ごすために自分の好きなものを増やそうとしていた。人と同じものを好きになろうとしたり、勧められたものを見てみたりして、自分の好きなものを増やしてきた。だから、本当にそれが気に入ったから好きなのか、人のために多少無理して好きになったのか、イマイチわからないものも多い。そこで、今月いっぱいはクレスとapexを除く版権ものを描いたり弾いたりするのをやめようと思う。自分に正直になって、本当に好きなものだけ好きということにしようと思う。
③距離感に使うエネルギーを好きなものに使え
愛されるために自己改造()を怠らなかった私だが、結局その努力をもってしても愛されるという目的は達成されなかった。(もっとも親の無償の愛レベルのものを要求している可能性が高く、たとえどんな方法を使っても手に入らないものだったというだけなのだろうが)。仮にそうであれば、そんな執着はヨシヨシかなにかで埋めるほかない。今まで気遣いに使っていたエネルギーを好きなものに注ぐ方が自分も楽しいし、そんな自分を好きになってくれる人がそばにいてくれるのなら、それを信じてやっていこうと思う。
④奴隷は愛されない
これ、1番衝撃発言だったけど真理だと思った。
元カレと付き合っていた時、「素でいられるから好き」「安心する」とか言われるのになんかむかつきを感じていた。
↓証拠画像
(多分当たってるよそれ)
自分が感情的で激昂したらどうなるか知っているので、喧嘩したときは、感情を堪えて自分の気持ちや思考の過程をきちんと言語化していた。しかしそれがあまりにも完璧だったためか「素で冷静に話せる人」だと勘違いされてしまって、私がどれほどコミュニケーションに労力を注いでいるか理解してもらうのに時間がかかった。この「大切にするのも徹底し過ぎると、それは気遣いではなくその人の素だと認識されてしまう」現象と同じことが友達作りの場で発揮されてしまっている。
しかしこれはマジで辛い。感情的な人間にとって激情にブレーキをかけ冷静に話すことがどれほど大変なことか分かってほしい。理性的な(あるいは感情の起伏が少ない)人間には分からんかもしれんけど、今にも怒りだしそうなのを我慢して冷静に話すって簡単じゃない。しかもそれが分からないやつは何食わぬ顔で火に油注ぎやがるから本当に無理。話逸れたけど、要するに一生懸命自分を変えようとした努力をなかったことにされるのは辛い。
私は徹底して愛される自分、波風立てない自分を作りすぎた。それも「いい子ちゃん」なんてわかりやすいフォーマットに当てはまらない、「いかにも素でなんも気遣ってなさそう」な自分を今までの人生かけて作ってきたのだ。でも、それは誰からも努力だなんて思われない。都合はよくても好きなんて思われない。これが素だと本気で思われているから。あるいは素ではないと気づいていても、気遣いが心地が良くてわざわざ指摘までして失おうとはしないから。
優しいだけじゃ、ただの都合の良い人なんだよ。出典忘れたけど、心理学でも毎回優しくされるのと3回に1回優しくされるのとでは、後者の方が優しいと認識されるんだったっけ?よく覚えてないけど。この絶望感は暴力的な方がモテるという事実を突きつけられた弱者男性と似たような気持ちだろう。多分。
完璧に取り繕うのはとにかくやめよう。自分の気持ちを出し、本性を出し、そのうえで自分の努力をアピールしていきたい。どれも今まで全部してこなかったから。
「素でいられるから好き」でも「距離感いいから好き」じゃなくて、ほかの素の部分を好きって言ってもらえるように、これからは自分を出していきたい。そういう人を見つけていきたい。