志村正彦さんのこと
いまからちょうど11年前。
フジファブリックのボーカル、志村正彦さんが亡くなったことを知ったのは、たしか平日のクリスマスの夜だった。
わたしは当時の恋人の家にいて、彼がお風呂に入っているあいだ、カーペットに寝そべりながら、携帯電話の画面をみていた。
そのときに、飛び込んできたんだと思う。
冗談じゃなくて、手が震えた。
電話しなくちゃ、と思った。
それは、ずっといっしょにフジファブリックのライブに通いつめて、終演後に、恵比寿の大戸屋や、渋谷のマクドナルドで、ひたすら感想を語り合ってきた友人だった。
着信履歴から、彼女の電話番号を探しだそうとするけれど、全然みつからない。
目がすべる。指がすべる。
耳の奥で心臓の音がどくどく聴こえる。
なんとか電話をつなげる。
回線の向こうで、友人の声も震えていた。
ねえ。どういうこと。嘘だよね。ふたりで、ずっとそんな言葉をくり返していた。つらいとか、悲しいとか、そういった感情は、まだ追いついていなかった。ひんやりとした静けさと、ぽっかりあいた深い穴をのぞくような怖さだけが、そこにあった。
その晩は、恋人の懐にもぐりこんで眠った。
彼の身体からは、ボディソープのいいにおいがして、睡眠の呼吸にあわせて、あたたかい胸がふわふわと上下していた。
おだやかな体温で満たされた毛布の中でも、わたしのつま先はきんきんに冷えたままで、いつまでも眠ることができなかった。
わたしは、どうしてフジファブリックのことが好きだったんだろう。
彼らの音楽に励まされたとか、背中を押してもらったとか、そういうことではなかった。
もっと抽象的で、もっと感覚的なもの。
薄暗いライブハウスで、彼らの生み出す音に飲まれて、個体であることを捨て、うねうねとしたひとつの波のような集合体になって、ただひたすらに踊り狂った。
熱と、汗の匂いと、湿ったTシャツの感触に溺れて、息継ぎをするようにもがきながら、いつも志村さんのことを見ていた。
ちょっとだけ上体を反らした姿勢で、小刻みにカクカク揺れながらテレキャスターを弾く姿は、なにかの営みのようだった。
いつだって表情は見えない。長い前髪の毛先だけが、しゃらしゃらと揺れている。
ねっとりしたローテンポのフレーズになると、ステージがぐんにゃりと歪む。
もうもうとたちこめるスモークと、淀んだ沼の底から見上げる、遠い太陽のような照明。
その光で肌を緑に染め、どろりとした瞳で、マイクに薄い唇を寄せる志村さんの姿は、鳥肌が立つほど、うつくしかった。
人間じゃないみたいに見えた。言い伝えのなかに生きる、妖怪とか、精霊とか、神さまとか、そういうふうな存在に見えた。
このまま連れ去られてしまいたいと思った。日常を捨てて、思い出を捨てて、約束を捨てて、もう二度と、戻ってこられなくたっていい。そんな気持ちになった。
志村さんの歌を失ったフジファブリックに、あたらしい歌を注いだのは、ずっと志村さんのとなりでギターを弾き、声を重ねてきた、山内総一郎くんという男の子だった。
彼の歌う「赤黄色の金木犀」を聴いたとき、わたしははじめて、声をあげて泣いた。
総くんの声は、低く、きれいに澄んでいて、しなやかで、やわらかい。
志村さんの、いつ裏返るかわからないような危なっかしい癖のある、ねっとりした声とはまったく違う。
それなのに、ふと、総くんの声に、志村さんの声が、重なって聴こえる瞬間があった。
それを感じたとき、わたしはうまく呼吸ができなかった。吐き出した息は嗚咽になった。
志村さんはもういない。それなのに、確かに志村さんが存在するのだ。
息づかいに、メロディのなかのちょっとした癖のひとつに、彼の姿を感じるのだ。
それはまるで、心象風景の庭に一斉に咲いた赤黄色の金木犀で、わたしはそのかおりを、胸がいっぱいになるまで吸い込んだ。
これは、わたしというフィルターを通して見た、わたしだけの「志村正彦」の物語だ。
「志村正彦」の物語はひとつじゃない。
きっと、彼の音楽に触れたすべての誰かに、ひとつひとつ、特別な物語が存在する。
彼の音楽が流れ続ける限り、どこかの街で、誰かの胸の奥で、またひとつ、新しい物語が産声をあげる。
わたしはそれを、心から祝福したい。
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