#267 二項対立への依存は避けたい
何かと二項対立で捉えてしまう癖があるが、そのせいでそれしか使えなくなっているから直したいと思っている。
二項対立をよく使うようになったきっかけは、大学受験の現代文である。私が読書をするようになったのは高校生以降で、それはではまともに文章を読んでいなかった。そのため、文章を読むことに対するストレスのようなものは他の人よりも大きい気がする。
高校受験のときにも国語で文章問題を解くことがあったが、そういうときはごり押しで解いていた。あと、半ば運任せで解いていた。そうしていると体力勝負になってくるから、文章を読むとなると、やはりハードなものという印象になるし、できるだけ敬遠したくなってしまうものだ。
しかしながら、高校に入ってから文章を多く読むようになってからは、以前よりは読めるようになった気がする。読めるようになった要因として、文章に触れる機会が多くなることは勿論、文章を構造として捉えるのが数学っぽくて親しみを持てるようになったということが大きい。
抽象具体とか、並列関係とか、対比関係とか、そういった文章全体の構造を捉えることで、抽象的でわかりにくい文章も他の人より理解できるようになっていった。
中でも、二項対立というのは、文章読解において大切なカギになることが多く、よく意識していた。その影響もあり、大学での設計課題では、よく二項対立的な関係をもちだすようになっていた。例えば、街における表の機能と裏の機能、ハレとケの関係などが代表的だ。
しかしながら、そればかりに頼りすぎて、それ以外の内容を扱うことが出来なくなっていた。二項対立の関係が含まれていない文章を読むことがスムーズに出来なくなっていった。
何でもかんでも対照的な関係に位置付けることはナンセンスである。例えば、能動態と受動態というのだけが対義語にあるのではなく、能動と中動というのが対比になることも有るからだ。
二項対立に頼りすぎるあまり、細かいニュアンスを取り逃してしまうのは避けたいことだ。でも、二項対立以外の捉え方で物事を捉えるにはどうすればよいのだろうか。
これは、汎用性が低くとも、各事象の集まりにおいて規則性を見出すということが有効なのではないかと考える。万物に共通することではなく、今目の前にある事象たちならではの規則性を見出すということである。
「マニュアル通りの仕事ではない」ということで、一部の人を門前払いしようとする流れがたまにあるが、それはイコール規則性を見出す、抽象具体ができる能力があればよいということを意味するから、そう思うとやる気が出てくる。
ただし、何でもかんでも規則性があるわけではないということにも配慮しなければならない。