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『アクシデント・レポート』selection08

中無幸恵の証言(17500字)

 あの事故から十七年――もうそんなになりますか。

 そうですよね、小学一年生だった息子が今年社会人一年目ですから。月日が経つのは早いものですね。振り返ってみれば、あっという間でした。

 もっとも私がこんな風に言えるようになったのもここ数年のことかもしれません。事故があってから何年かは、毎日が嵐の中にいるようで、息つく暇もなかった。坂道のいちばん下まで転がり落ちたから、あれ以上落ちようがなかったし、すべてが過ぎ去った今になってようやく、あの頃のことを思い起こすことができるのだと思います。

 数えきれないほどの、そして考え得るかぎりの、地獄を見てきました。大袈裟な表現ではなく、世界中を敵に回したような、いえ、「ような」は要らないでしょう。

あの頃世界は、私と息子、そしてその他。ふたつしかなかった。




 一九九五年七月二十六日午後六時過ぎ――。
中無の操縦した旅客機が管制塔のレーダーから消えて三十分後、かつての職場の友達から電話がありました。中無と別居して二年近くが経過していましたが、籍は抜いていなかったので、何かあれば私に連絡が入ることになっていました。

「もしもしユキエ? あのね、落ち着いて聞いてね……」

 受話器の向こうから、飛行機が墜落したと伝えられた刹那、何も考えられなくなりました。そういうときに使われる言い回しとして、「頭の中が真っ白になった」というのがありますが、あれって本当なんですね。「本当の真っ白」なんです。

操縦士の妻として、普段から心構えは持っていました。だけど実際に事故が起きたら、それまで学んできた対応マニュアルは一切無効化されます。一昨年、原発事故があったとき、フクイチの作業員や東電の職員は、まったく対応できなかったですよね? 比べるものでもないんですけど、頭がパニックになって、どうしたらいいか、どうすべきなのか、なまじ実情を知っているだけに、恐慌状態になってしまうのです。

元整備士から言わせてもらえば、ジャンボ機は基本、四〇〇トンの鉄の塊ですから、墜ちたら終わりというのが私の見解です。五百人乗ってひとり生きていたら奇跡。ふたりだったら超常現象。三人だったら、この世界に神様はいる――。そうとしか考えようがない。それぐらい飛行機事故というのは、一度起こったら取り返しのつかないことになります。

ですから私は、整備士として百パーセント満足の行く仕事ができないならと、出産を機に退職しました。勤務中に一瞬でも我が子の顔が思い浮かぶようでは、お客様の命をお預かりできないと考えたからです。

友達は、四二〇便の動向とレーダーから消えた経緯を詳細に説明した後、すぐに駆けつけてあげたいけれど、今後の対応に追われることは必至なのでそれはできない。どうか気を強く持ってほしいと言い残して電話は切れました。

へなへなと崩れ落ちる私が次にすべきことは、母親に電話をかけることでした。

その時間は温之(はるゆき)がスイミングスクールに通っていたのですが、今の状態では迎えに行くことなどできないと思ったからです。当時は携帯電話がなかった。今なら話す気力がなくてもメールを送れるのでしょうが、いや、指が震えて文字を打つこともできなかったでしょう。早く連絡をしなくてはと考えるのですが、どうしたらいいのかわからず、受話器の前で座り込んでいたところを、突然ギギギギギギーン!って黒電話が鳴りました。けたたましい音です。それこそ心臓が止まるかと思うほどの。いいえ、その前に掛かってきたときは、そんな風には聞こえませんでした。誰からの電話か、予想もつきません。また友達からかと思いました。

いま考えてみるとあのベルの音は、「これから波乱万丈な人生が始まるぞ」と告げる早鐘のようなものだったのかもしれません。しかしそのときの私はまだ気づいていませんでした。
受話器を取って、耳にあてました。

「ヒトゴロシ!」

 はい、そうです。それが第一声です。「もしもし、中無さんのお宅ですか?」ではありません。相手はいきなり電話の向こうでそう叫んだのです。驚いたというか、何と言うか、相手の言っている意味がわからないのです。

――ヒトゴロシ……? 

受話器を握りしめたまま、「ヒトゴロシ」がようやく、「人殺し」のことなんだとわかりました。頭の中で漢字に変換するまで少し時間がかかりました。

「おまえの夫の飛行機が落ちたぞ!」

はっきりとそう言いました。ええ、事故から最初に電話をかけてきた相手の言葉なのでよく覚えています。それに対してすいませんと言ったのか、ごめんなさいと謝ったのか、それはちょっと。すぐに電話を切ったと思います。たぶん。

 続けてまたすぐに電話が鳴りました。そこから先は記憶にないんです。どうやっても思い出せません。記憶が途絶えています。

気が付いたときには、掛かりつけのお医者さんが私の腕に注射をしていました。
隣で母が私の顔を心配そうに覗き込んでいます。その背中に隠れるように、温之が指を銜えて立っていました。

「ユキエ、ユキエ……! ハルちゃん、ハルちゃんよかったね。ママ起きたよ……!」

 私は布団の中で横たえていました。温之が小さな手で私の顔に触れます。でもどこか、そのぬくもりに現実めいたものが感じられませんでした。夢だったのか? どこからが? それともまだ夢の中にいるのだろうか? 私は母に訊ねました。

「洋介の飛行機……」
 落ちたのは本当?と訊きたいのですが、言葉が続きません。からからに喉が渇いていました。次の瞬間、母の顔が急に曇って、わっと泣き崩れました。意味がわかっているのでしょうか、それとも祖母の慟哭にただならぬものを感じたからなのか、温之まで火が付いたように泣き出しました。そのときわかりました。
夢じゃない。本当に事故が起きてしまったのだ。
私は回る頭の中で、それきり何も考えることができませんでした。

母は嗚咽を漏らしています。温之もしゃくり上げます。
木目の天井がゆらゆらと溶けだして、私の頬を濡らしました。

 事故を境にして変わったのは、電話に対しての認識です。イメージじゃなくて、捉え方というか。それまで電話は外にいる人と連絡を取ったり、話をしたりする通信手段でした。みなさんと同じ。それが九五年の七月二十六日以降、私にとって電話は、「外から家に不幸を運んでくる機械」に変わりました。あるいは、「遠く離れた場所から好きなときに、好きな時間に、好きなだけ自分を攻撃してくることが可能なイジワル兵器」に。

私だけでなく誰にでも、電話というものは、そうなる可能性を持っているのに、どうして今まで気が付かなかったのか。自分が渦中に放り込まれて初めて、電話は「遠隔凶器」になり得ると知りました。

 一夜明けて、すべての朝刊が事故を一面で伝えてからというもの、「敵」は日本中に拡散しました。中無洋介の名が満天下に晒されたことによって、連中にとって私と温之は、公共の敵となったのです。

 インターネットもない時代に、どこで調べてくるのか。電話帳に名前を登録していなかったので、温之のクラスの連絡網以外ありません。個人情報保護法がある今と違って、全生徒の住所録が普通に配布されていた時代でしたから。

切っても切っても絶え間なくベルは鳴り続けるので、配線を根本から引き抜きました。しかし、今後のことを決めなければいけない電話が大洋航空から、母親から、親戚から、そして葬儀社から掛かってくるので放置しておくわけにもいかず、それぞれに「お昼の二時から三時の間にお願いします」と伝えて、その間だけ電話を繋いでおくことにしました。

 見知らぬ人から掛かってくる電話の内容は主に二つ、罵倒かイタズラに分かれます。もしくはその両方か。遺族を自称する方もいましたが、名前を名乗る方はひとりもいませんでした。「うちの子供を返せ!」とおっしゃるので、失礼ですがあなたのお名前を教えて頂いてもよろしいですかと訊ねると、「うるさい! 加害者のくせに調子に乗るな!」と逆上されて電話を切りました。

 大半は、「義憤に駆られた良識ある一般市民」かと思います。「遺族の心情を考えろ。被害者に人権はないのか」って、それって死刑制度に賛成する人と同じ言い分ですよね。あの……あなたの身内が亡くなったわけではないんですよね? この事故とは直接何の関係もないですよね?という人にかぎって言いがかりをつけてくるのです。

 その頃から弁護士の勧めにより、相手の電話番号の表示と、会話を録音できる機能の付いた電話機に買い換えました。今でもテープを取ってあります。お聞きになりますか。

「おまえの夫がひとりだけ墜ちて死ねばいいものを、何百名もの尊い命を道連れにして恥ずかしいと思わないのか。情けないと思わないのか。恥ずかしくないのか。亡くなられた方々は皆さん、大航から雀の涙程度の補償金しか出ないのに、おまえんチは遺族年金が入って一生安泰なんだろ。その金を哀れな遺族に寄付しろ。何なら保険金をかけて自ら命を絶ち、それを遺族に寄付しますと遺書に書いてから死ね!」

「奥さあん、ダンナが死んでご無沙汰だろぅ。オレが相手をしてやろうかぁ。オレのジャンボは凄いぜぇ~。奥さんを昇天させてあげるよぅ。天国へ連れてってやるよぅ。飛行機事故でおっちんだ連中のようになぁ~」

「部外者の小言と思わず聞いて頂きたいのですが、あなたがご主人と別居せず、良妻賢母の行いをしっかりとなさっていればこのような悲惨な事故は防げたのではないでしょうか。私の娘の時分は、女は三歩下がって影を踏まず、男の人を盛り立てたものです。ジャンボ機のパイロットという重責を担う御主人に対して、妻として役割を果たしていたか、ご自分の胸にじっと手を当てて、思い起こしてみなさい。本来なら赤の他人である私が口を挟むことではないと承知しておりますが、どうぞこの忠告を口うるさいと思わず、後半生に活かすことが、亡くなった方々へのご供養になるかと思います。あなたが改心されることを心から祈っております。頑張って下さい」

「死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 自殺しろ! 自殺しろ! 自殺しろ! 自殺しろ! 自殺しろ! ガキと一緒に心中しろ! 心中しろ! 心中しろ! 頼むから心中しろ! 心中しろ! 心中しろ! 死ね! 死ね! ひたすら死ねえ~!」

「もしもし。あなたのご主人、中無洋介さんは無罪です。少しも悪くありません。というより、自らの命を引き換えに大惨事を回避しようとした英雄です。本当は奥様のあなたに直接お伝えしたいのですが、いつまで経っても出て下さらないので留守電に吹き込んでおきます。今から話すことは、国家転覆が必至の内容ですから、心を落ち着かせてお聞き下さい。よろしいですか。
この事故には、大きな陰謀が隠されています。今度の終戦記念日、村山首相は中国や朝鮮に対して植民地支配と侵略を謝罪する予定です。本来なら一連のオウム事件のドサクサにまぎれて敢行するつもりでしたが、麻原逮捕により急速に収束の動きを見せていることに頭を抱えた村山が、大洋航空の社長に、ジャンボを爆破させなければ、赤字続きの経営責任を取らせる。おまえを更迭して会社を国有化してやると脅したのです。国民の関心が別のところに向いた隙を狙っての、究極の土下座外交。まったく村山はどこまで卑怯な男なのでしょう。これは万死に値する売国行為です。あなたのご主人に罪はありません。嵌められたのです。どうか勇気を持って至急会見を開き、これは朝日新聞が仕組んだ罠だと告発して下さい。支援が必要な場合は次の番号までおかけ下さい。0120-×××―×××。次は月が五十一度に傾いた夜にお電話差し上げます。我々地下解放同盟は常にあなたの同憂の士です。トーキョー・コーリング、トーキョー・コーリング」

「おまえいつもなんで居留守つこうてんねん。電話出れボケカス。わいを誰やと思うてんや。●●組の核弾頭言うたらナンバで知らんもんはおらへんで。おまえの亭主がヒコーキ落としたばっかりに、姉ちゃんはもうオメコでけへんのや! 姉ちゃんが痛い痛い言うて泣いとる。わいの枕元に立って毎晩泣いとるわ! 姉ちゃんに……姉ちゃんに謝れえええ! あんたもパイロットの嫁はんなら、誠意を見せっちゅうんや。誠意を、あ、あ、あ、見せ(ピー)」

 これは私の憶測ですが、わざわざ番号を調べて、直接電話を掛けてきた人たちの中で、家庭や人間関係が良好な人、仕事に不満がない人、過度のストレスがない人、過去に対人トラブルのない人、頭がまともだった人は、ひとりもいなかったのではないでしょうか。
全員が全員、自分の生活の不満を自分と関係のないところで怒りに転化していたと思います。彼らにとって目の前に、「何ら弁解ができない、完全無欠の悪人」がいたことは、ちょうど良かったというか、躊躇なく「正義」を振りかざすことができて、むしろ願ったり叶ったりだったのでは……。私は彼らにとって絶好の餌食。そして怒りの捌け口でした。そういったことは、彼らの声の調子、言葉遣い、剥き出しの感情、受話器越しの「上から目線」でもわかりました。私の推論の域を出ませんが、まるっきり的外れでもないと思います。

宗教団体の勧誘も、ものすごく多かった。「あなたは前世で悪い行いをしたから」「ウチに入信していればこんなことには」「人生を変える方法をお教えします」「今からでも遅くない」とか。直接家に来ることも多かったです。居留守を決め込むと、外から大きな声で「あなたのことを思ってお誘いしているんですよ。どうか騙されたと思って一度集まりに顔を出して下さい」と呼びかけられ、ポストを覗くと案内書と手紙が入っていました。そうですね、特に、泰幸会と天生教がしつこかったです。「入会したらすぐに名誉信者にするから」と。広告塔になると思ってスカウトに来ているのです。いったい人のことを何だと思っているのでしょう。

いいえ、眠れなかったのは最初の一ヶ月だけ。じきに慣れるんです。恐ろしいことに。それに電話なら、直接目の前で首を締められることはないんだって開き直ったら、必要以上に怖がることもなくなりました。


それに、こんな話を聞いたことがあったんです。
Yちゃん事件――。はい、昭和三十八年に、実際にあった。それに関するノンフィクションを読んだことがあるんです。本好きの友人に薦められて。本田靖春さんという方が事件から十四年後に書いた『誘拐』に――それぐらい時間が経過してからのほうが、事故を俯瞰的に見られるものなのでしょうか――書いてあったことを思い出したのです。

誘拐されたYちゃんの行方がわからず、犯人も逮捕されていなかった頃、Yちゃんの自宅には連日嫌がらせの電話が続いたそうです。警察が自分たちの手落ちで犯人を捕まえられなかったのを、Yちゃんのお母さんのせいにしたのです。週刊誌も、実は母親が怪しいと臭わせるように書いて、まるっきりの被害者である家族をさらに苦しい状況へと追い込んでいました。

そんな中掛かってきた電話のエピソードは、今でも忘れられません。
Yちゃんの最後の目撃証言は、公園の水飲み場で、壊れた水鉄砲に水を入れていたところだったのですが、電話の向こうで男は、Yちゃんのお家の方に、こう言ったのです。
「だいたいな、公共の水を手前勝手に使うから、そういう目に合うのだ」

 信じられますか。言葉を失くしますよね。

よく言うじゃないですか。「むかしは人情があった。人と人との繋がりがあった」とか。まるでこの世に楽園でもあったかのような物言いを。

Yちゃん事件のあった昭和三十八年って、東京タワーができてから五年ですよね。六十過ぎとか、それ以上の世代の人たちが、目を細めてこの頃のことを語りたがりますけど、そんなの嘘っぱちだって、この話を抜きにしてもわかりますよね。第一、少年犯罪も殺人件数も、この時代がいちばん多かったのに。

私思うんですけど、東京タワーができてから日本は悪くなったのではないでしょうか。
それまで日本は平和で治安が良くてみんな優しかったんですよね? 
「東京タワーは悪魔の電波塔」って、どうしてみんな言わないのでしょう。
きっとみんな、そんなことを言ったらいけないと思っているのでしょうね。


ごめんなさい。話が逸れてしまって。私まで頭がおかしいことを口走ってしまいました。
辛くて、しんどくて、だけどどこにも感情の行き場がなかった頃のことを思い出していたら……申し訳ありませんでした。本当にすいません。

テープをお聞き頂いたように、連日連夜、嫌がらせの電話が続きました。
 その中でも、毎日声色を変えて電話を掛けてくる常連がいました。

内容は、私と息子への殺人予告とも言うべきものでした。声の主に聞き覚えはありませんでしたが、ひょっとしたらと思い、表示された電話番号とクラスの連絡網を照らし合わせてみたところ、犯人はあっけなく見つかりました。温之の同級生の親、兵庫でした。

どのようなつもりでこんな電話を掛けてくるのかと問い質したのですが、しらばっくれたので警察に通報しました。証拠になるテープも一緒に提出して。
しかし驚いたことに、警官は口頭注意のみで、兵庫が検挙されることはありませんでした。兵庫は自分が毎日嫌がらせの電話を掛けたことを認めたものの、
「そういう方に町に居座られるのは、みんなが困ると思った」
と弁解したそうです。いったい何が「そういう方」で、「みんな」とは誰と誰のことで、「困る」とはどういう意味でしょうか。今も理解に苦しみます。

その後、PTAの集まりで初めて顔を合わせました。兵庫は背の高い痩身の男で、どこか神経質な感じが窺えました。詰め寄ったのですが、正式な謝罪はおろか、目を合わせようともしませんでした。ギロリと私を睨んで、
「大変でしたね」
 そうひとこと言い残すと、その場を去って行きました。

兵庫だけではありません。みなさん最初のうちは同情してくれましたが、それに飽きるとすぐに非難する側に回ったのです。

「だって飛行機を墜としたんでしょう?」

 それじゃあ殺人予告の電話が掛かってきても仕方がない。昼夜問わず家の呼び鈴を鳴らされても、道を歩いていて石を投げ付けられても、町内の掲示板や電柱に、「大量殺人者の妻と子供の連絡先です」と貼り紙が回っても、我慢しなさいと彼らは言いたいのです。
何度も警察に駆け込みました。お忙しいでしょうけど家の周りを多くパトロールをしてもらえませんか。貼り紙に指紋が付いているから犯人を捜し出して頂けませんかと。その度彼らの答えは、判を押したように同じでした。

「おたく、引っ越しは考えていないの」

 二十年ローンで買った家でした。中無と別居したときから、覚悟はしていました。整備士をあきらめても、子供の手が離れたらまた働くつもりでした。いくら保険金と遺族年金が入るとはいえ、もうこの町にはいられないのか――。

ある日、私は温之の手を握りながら、玄関の脇に置かれたパキラの木を眺めました。縁起の良い観葉植物で、室内でも水さえ与えれば十分に育ちますが、晴れた日には外に出して日の光を当てることにしていたのです。当時は三十センチ前後。子供の成長とともに伸びて楽しいよと、新築祝いに贈って下さった方も、事故の後はぱったりと連絡が途絶えました。こういうときに人ってわかるものですね。

「ハル」

 私の声に温之が顔を上げます。

「どうしようか。このお家にいても、パパは帰ってこないし」

 私はその場に座り込みます。温之と同じ目の高さになって語りかけたかったのではなく、これまでのことやこれから起こることを考えていたら、ぐったりと体に力が入らなくなったのです。温之は心配そうに私の目を見つめていました。この子を育てながらわかったことは、喜びも、苛立ちも、えも言えぬ悲しみも、そして涙も、「こういうときに笑うんだよ」「悲しかったら泣いてもいいよ」とわざわざ教えなくても、子供は生まれながらにして、ちゃんと大人と同じ感情を持っているということでした。

 ーーきっとこの子も、すでに多くのことを知っている。

これから、小さすぎるその心と体で、数え切れないほどの悲しみや試練に耐えなければいけないのか。そう思うと、この子が不憫でした。

温之の手を握る力がぐっと籠った、そのときでした。
かつんって、乾いた音が耳の端を過りました。家の角から顔を出すと、小学校の高学年でしょうか、男の子の三人組が、家に投石をしていたのです。

「あんたたち……!」
 驚きのあまり、一瞬声が止まったのですが、それでも喉の奥から体が反応していました。

子供たちは、私と目が合った瞬間こそたじろいだものの、温之を視界に入れた途端、ニッと笑いました。温之のほうはというと、私の背中にさっと隠れます。子供たちは体を窓のほうに向けて、再び石を放りました。

「あの子たち、知っているの」
 温之に訊ねたと同時に窓が割れた音がして、子供たちは嘲りの言葉を吐き捨てながら、足早に去っていきました。彼らの姿がとうに見えなくなった後も、温之は私の背中から離れようとしません。改めて問い質さなくても、この子の学校の境遇を察しました。

 しばらくの間、そこに立ち尽くしていたと思います。さっきまで座り込むしかなかったのに、今度は微動だにできずにいたのです。

 私のなかで、知らない私がいました。闘志のようなものがめらめらと燃えあがるのを感じていました。私は亀裂の入った窓に目をやり、決心しました。
 絶対に、ここから離れない。

 人の噂も七十五日と言いますが、人々が忘れかけそうになるたび、マスコミに向けて荒唐無稽な自説を展開させる人がいました。

山吉文次郎です。どうしてマスコミはあんな男の主張に耳を傾けたのでしょうか。自分のことを、「鬼の八兵衛」の薫陶を受けた「捜査の神様」だと触れ回っていました。

グリコ・森永事件の「キツネ目の男」をあと一歩まで追い込み、朝日新聞襲撃事件の核心に迫り、宮崎勤を召し捕った――。ほとんどが未解決事件じゃないですか。大ぼら吹きのあまり、警察から追放されたような人です。

山吉の自説はスキャンダラスで、非常にワイドショー向きでした。

中無が愛国者で、戦中の神風宜しく、東海発電所を攻撃したというフィクションは、陰謀論が好きな人たちの間で話題をさらいました。これは彼にとって予想外の事態、いや、望外の喜びだったでしょう。長年にわたり、行き過ぎた捜査と冤罪事件を生み出したことから警察を辞めざるえなくなった後、浮気調査以外これといった仕事がなかった。

なのに出版社からページの穴埋め用のコメントを求められていくうち、いつの間にか「事件の真相を知る伝説の元刑事」に祀り上げられていったのですから。

最初のうちは、山吉も過激なことは口にしていませんでした。それが一部でカルト的な人気を博していくうち、もっと刺激的で、さらに恐ろしいことを喧伝しなければと本人も思い込み出した。そして中無の原発突入にまで話が飛躍したのです。

そういう方、今もいますよね? フクイチの原発事故があった後、「東京電力を批判したからTBSラジオのレギュラーを降板させられた」とか、「三号機が爆発して煙を出している写真は、事故から一年経っても日本のメディアでは公開されていない」とか、「チェルノブイリ近郊では、二十歳から二十五歳の人口はみんな死んでしまってほとんどいません」とか、そういうデマを広めたジャーナリストが。NHKの正社員だったとか、『NYタイムズ』の記者だったとか、経歴も全部ウソだった人。

どうしてウソにウソを重ねてしまうのでしょう。そういうの、いつかは全部暴かれてしまうのに。

山吉のお孫さんがあの事故で亡くなったことは事実ですし、その件に関してはもちろん同情します。しかし、だからといって事故を起こしたパイロットの妻と子供を誹謗するのは、どのような神経でしょうか。そしてその発言を検証せず掲載するマスコミとは、いったい何なのでしょう。根拠のない被害者の訴えを垂れ流したかと思えば、フクイチでは、東電という加害者の会見をそのまま右から左に移す仕事をする人たち。理解できません。

見ない、聞かないようにすればいいのですが、ご丁寧に家のポストに入れていく人がいます。中身は山吉のインタビューが載った雑誌のコピーでした。

「大洋ジャンボ操縦士をノイローゼに追い込んだ鬼嫁」

その見出しは、今も瞼の裏に焼き付いています。

中無が亡くなって、養育費が入ってこなくなったため、私はすみやかに働く必要に迫られました。整備士は無理だとしても、古巣に仕事の空きはないか、ジャンボが墜落した直後、私に電話で教えてくれた元同僚に問い合わせてみましたが、その答えは、取りつく島もないものでした。

「あのね、気を悪くしないで聞いてね。ユキエが復帰しても、みんな快く思わないんじゃないかな」

 受話器の向こうから、冷水を浴びせられた気がしました。度重なるイタズラ電話で免疫はできたつもりでしたが、同じ釜の飯を食べた者の言葉だけに、否応なく自分の置かれた立場を知らされました。

「ユキエが事故を起こしたわけじゃない。中無さんとユキエは別の人格を持った他人だよ。それはわかっている。でもね、世間はそう思ってくれないし、社内でもそれは同じ。第一ね、マスコミにこれだけ騒がれている今、故意ではなかったとはいえ、あれだけの犠牲者を出した操縦士の妻が、事故の責任のある会社で働くってありえなくない? 

私、ムチャなこと言ってないよね? 事務方のどこかに紛れ込んだとしても、陰口を叩いたり、嫌がらせをしたりする人が必ず出てくると思う。社内でも、あの便で身内を亡くした人もいるし……。嫌な人は嫌でしょ。あ、私は違うよ? でも、そう思っているんじゃないかな、みんな」

 事故後、一度も私に顔を出すことのなかった友人の、偽らざる助言でした。

 大洋航空の従業員数は子会社と各部門を合わせると、延べ四万八千人にもなります。今回の事故で直接被害を受けた人がひとりもいない部署だってあるはずです。しかし彼女は確かに「みんな」と言いました。
「みんな」が私を憎んでいると。

 たとえ事故が遭っても、操縦士も、副操縦士も、全力で回避しようとするもの。彼らにすべての責任を押し付けることはできない。整備士にも、管制官にもできない。スタッフは全員、自分の仕事を全うしている。万が一、何かが起こっても、特定の誰かを恨んではいけない。持ち場こそ違えどみんな(・・・)、そう教育されてきたはずなのに。

しかし――だとしても、事故が過失でなく、操縦士の意図的なものだとしたら? 

それを大声で喧伝する手合いがいたとしたら? 

人は大きな事件が起きると、必ず犯人探しをします。犠牲者が多いほど、人々の関心を誘い、幾つもの説が飛び交っては、その中でも、より奇抜で、より正気を失い、より偏っているものが、遠くへと飛距離を生んで、人に届きます。

――右翼崩れの操縦士が、家庭不和から大惨事を引き起こした――

こんな涎が止まらない怪情報を、世間が放っておくわけはありませんでした。

山吉のデマゴギーは、かつての身内にまで効いていたというわけです。

「私はユキエのことを思って言っているんだからね」
〝あなたのことを思って言うけど〟――この言葉が、偽善に塗れたものであることを、このトラブルを機に知りました。

「話してくれて、ありがとう」
 そっと電話を切りました。そして、ここまでこんな目に遭っても、どこか甘えていた自分を、ここで断ち切ったのです。



 私はハローワークに通うことにしました。苗字も中無から柴田に戻しました。これで銀行や病院で名前を呼ばれて、「あいつが大洋ジャンボ事故の犯人の家族だ」と冷たい目で見られたり、カラまれたり、といったことを恐れなくて済みました。

思わぬ火の粉に長く苦しめられたわけですが、それでもまだあの頃で良かったと思うのです。今のほうが当時とは比べものにならないほど、世の中がネット社会になっていますから、何者かの手によって、私の旧姓を調べ上げられ、それこそ顔写真まで晒されて、普通に道を歩くこともできなかったかもしれません。どう見ても親しい友人が出処としか考えられないスナップ写真がネット上に流出していることを知って、もっと酷い人間不信に陥っていたと思います。

 電車を二回乗り換えて、十五分ほど歩いた町で仕事を見つけました。自動車整備工場です。工業科出身なので、車のエンジンの構造はわりとすぐに理解できました。ガソリンの臭いが充満する中、油まみれになって手足を動かしていると、一時自分の窮境を忘れて、息をつける自分がいました。あれがなかったら、生きていなかったかもしれません。

 ――もうめそめそと泣いているヒマはない。私がしっかりしないでどうするの。

 そうした気負いも、仕事ですべて発散させることができました。

 労働時間が長いため、母に温之を預かってもらうことにしました。学校から帰った後、夕食を食べさせてあげるようお願いしました。

「可愛そうに、可愛そうに……」

 母は温之の頭を飽きることなく撫でていました。父が亡くなった年に、温之は生まれました。夫に頼り切りの人生を送ってきた母にとって、「温之はお父さんの生まれ変わりよ」と、目に入れても痛くないほどの可愛がり方をしてきました。温之が望むものを簡単に買い与えるので、何度も注意してきたのですが、母は行いを改めませんでした。そして、事故を機に、母の温之への溺愛は深みを増していました。

「お母さん、あんまり可愛そう可哀そう言わないで。同情ばかりして育てていたら、この子にとって良くないよ」

「そうは言っても、温之が哀れでねえ……」

 皺だらけの手の甲の下で、温之は困った目をしていました。どう振る舞うべきか、自分でもわからないようです。

「どこで調べてくるのか、うちにも何度か電話があったよ。おまえの娘の教育が悪いから事故が起こったんだって」

「やめて!」
 私は温之の表情を窺います。笑顔の数は明らかに減っていました。無力の自分が歯痒くて仕方がありませんでした。

後日、学校の先生に呼ばれました。担任の話によれば、「あの子と遊んではいけないぞ」と、親が子供に仲間外れをするよう指示を出していると言うのです。すぐにその首謀者が誰か、頭に浮かびました。

「先生、何とかして下さい」

私は机越しに、手をついてお願いしましたが、逆に転校を勧められる始末でした。

本来なら怒っていいところでしょう。しかし「加害者」の私たちには、腹を立てる資格さえ奪われていました。

「もう結構です。わかりました」

 それだけ言うと、教室を出ました。職場に戻る気はなかった。バックを開けてクラスの連絡網から兵庫の住所を調べると、タクシーを止めるため手を挙げていました。座席に身を沈めて、ひとつ深呼吸をします。私はバッグの底に手を伸ばします。工場から持ち出したスパナが、ただひとつの存在証明のように思えました。


 タクシーの中で不穏な考えに支配されていました。しかし、なぜか目の前を、中無の笑顔が通り過ぎていきます。

初めて彼と出会ったのは、社内の交流会でした。
「そうか、僕はきみに命を預けているのか」

 中無は嬉しそうに、握手を求めてきました。操縦士のイメージとはかけ離れた、華奢な手でした。ガテン系の私のほうが掌が厚くて、顔が赤らみました。彼と話しているうちに、気が付いたら恋に落ちている自分を見つけました。そのときにはもう、「この人と結婚をするのだろうな」という、動かし難い確信がありました。

私たちは忙しい合間を縫って会い、ふたりきりの時間を過ごし、いつまでも一緒にいたいと思いました。付き合いだして一年で、私たちは籍を入れました。とても幸せでした。このままずっとうまくいくのだと、安穏とした気持ちでいたのです。

 しかし温之と双子の知之が早すぎる一生を終えてから、歯車がおかしくなった。

どんな慰めも、中無の心には届かなかった。私たちは話し合い、別れて暮らすことにした。いつかまた笑顔で、一緒に暮らせる日が来ると信じていた。なのに、とうとうその日は来ませんでした。

 それでも季節の変わり目ごとに、中無から電話が掛かってきました。

あれは、虫の予感でもあったのでしょうか。実は事故の前日、電話がありました。特に変わった様子は感じられませんでした。「温之は風邪をひいていないか」とか、「ずいぶん大きくなっただろう。今度写真を送ってくれ」とか。
「写真なんかより、家に来たらいつでも会えるじゃない」
「そうだな。幸恵の言う通りだった」

 そう笑って、電話は切れました。十分ぐらいの会話が、この世で最後で彼との語らいになりました。

 中無は、他にもっと伝えたいことがあったのでしょうか。私が何かもっと違うことを言っていたら、事故は起こらなかったのでしょうか。本当は彼のことを、少しも理解していなかったのでしょうか。考えても詮無い思いに、今も囚われそうになります。

人は途轍もない不幸に見舞われると、自分の人生の生き方や考え方、それまで信じていたものなど、すべての見直しを迫られます。寝ても覚めても自分を責め続けて、以前の自分ではいられなくなるのです。

 タクシーの中で私は、明らかに普通じゃなかった。今でこそそう思えますが、そのときはもちろんそんな風に自分のことを、客観的に見てはいません。

 知之には、何もしてあげられなかった。

 いつか帰ってくると信じていた中無も逝ってしまった。

 温之まで失くすわけにはいかない。私は母として、あの子を守らなければならない。

 そのためには、手段は選ばない。

 目的地に着きました。兵庫の家は、私の家とは町の反対側にある、三階建ての一軒家でした。業界では有名な3D製作会社で、メジャーなテーマパークの造形物を請け負っていると聞きました。駐車場に止めてある高級車を見て、羽振りの良さを感じました。PTAの会長だった奥さんが家を出ていったというわりには、窓や庭は片付いているように見えます。ベルを鳴らそうか迷いましたが、しばらくの間、玄関の前に立って待っていました。バッグの中で握りしめたスパナは汗に塗れています。どのぐらいそうしていたでしょうか。いつのまにか陽が斜めに差し掛かっていました。

――やるべきか、帰るべきか。

逡巡が、ありました。やっぱりやめようと、踵を返したそのとき、玄関が開いた。振り返ると兵庫が立っています。無精ひげと、扱けた頬と、虚ろな目が印象的で、兵庫は私の姿を確認すると、口をぽっかりと開けたままでした。私の殺気立った表情を感じ取ったのか、その声はどこか怯えを含んでいました。

「あんた、こんなところで何をしているんだ」

 答えずに、その目を睨みつけます。しかし兵庫の顔が強張っていたのには、他にもっと大きな理由があったからです。彼は、次にこう言ったのです。

「温之くん、誘拐されたぞ」



 日付が変わる頃、保護された温之が警察署へと連れてこられました。よほど怖い思いをしたのでしょう。臆病な目がいつも以上に青く、慄いていました。私は通路で膝をつき、あの子を抱きしめます。声を張り上げたいのですが、混乱と安堵が交錯して、そこに心のブレーキがかかり、感情を自然に発露できない自分がいました。

「大丈夫? 何もされていない? どこかケガをしていない?」

 温之はコクリと頷きます。もう一度、温之をきつく抱きしめました。そばに警官がやってきて、私に耳打ちをします。

「犯人を、別室に連れています」

 警察に温之を預かってもらうと、そちらへと急ぎました。

「お母さん、ちょっと行ってくるね」
 すると温之が、私の背中に呼びかけます。

「悪くないよ。僕、何もされていないよ。責めないで」

 何と答えるべきかわからず、あの子のほうを振り返ることもなく、別室へと急ぎました。

机を挟んで、犯人が椅子に座っていました。その肩や背中は、いつも以上に縮んで見えました。

「……なんで、なんでこんなことを」

 下を向いたまま、私の問いに対して何も答えません。どうして……?と、まともな返答などないことを知っておきながら、それでも問わずにはいられませんでした。彼女は顔をあげてひとこと、ごめんよと呟くのがやっとでした。
犯人は、母でした。



温之を連れて、警察に「誘拐した」と電話をした母は、半日あの子を連れ回しました。

どうしてこんなことをしたのかと何度も訊きましたが、母もよくわからないと返すのがやっとでした。大学で犯罪心理学の勉強をした刑事の方によると、不測の事態に巻き込まれた遺族が、常軌を逸した行動に出てしまうことが、往々にしてあるそうです。例えて言うならば、母猫が心配するあまり子猫を食べ、「これでもう何物にも奪われることはない」と安心するように、母もまた自らの手で温之を亡き者にしようとしたのではないかという分析でした。

「そんな、ありえません。そんな」

 母は懸命に否定しますが、警察に掛かってきた誘拐電話のテープを聞いたところ、紛れもなく母でした。私も警察に弁明する気が無くなりました。

「今夜はお母様をお預かりします。その後は病院で検査しましょう。こちらとしても穏便に済ませたいと思います」と刑事さんに言われて、私も母も頭を下げるばかりでした。

 庶務係の部屋を出ると、兵庫が立っていました。
連絡網でことの次第を聞いた後、母と温之を見つけ出すのに奔走してくれたのが兵庫でした。彼が広い人脈を使って、あちこちに手分けして、小さい男の子と老婆の二人連れを見ていないかと、訊いて回ったのです。そこから目撃証言が相次いで、近所のデパートの屋上に佇む母と温之が発見され、保護されたというわけでした。

 礼を伝えました。兵庫は無表情のまま、淡々とした声で、
「これでもう、借りはなしだからな」
 と言い残して、その場を去って行きました。いつかと同じようでした。



 温之の元に戻ります。署内の暗い廊下の長椅子に、あの子はひとりで足をぶらぶらとさせながら座っていました。さっきまで誘拐事件だと大騒ぎしていたのに、刑事や大人の人たちがひとりも傍に付いていませんでした。

「温之」
 私は駆け付けます。膝をついて、温之と同じ目線になります。
「ひとりで心細くなかった?」
 温之は首を振ります。
「ひとりじゃないよ」
 温之は、まっすぐな目で訴えます。
「いまも、いっしょ」

 言っている意味がわからず、一瞬呆気に取られました。母に続いて、この子まで頭がどうかしたのかと思いました。
「どういうこと」

 温之は深い井戸の奥まで見通すかのように、じっと目を凝らした後、また目を伏せて、ぶらぶらと揺らしていた足を止めて話しました。

「……おばあちゃんに、はるゆき、出かけようかって聞かれたとき、どうしようか、こまった。おばあちゃんが、いつもとちがう顔をしてたから」
 私は、深く頷きます。「で?」

「でも」
「でも?」
「だいじょぶだよって、ともゆきが」
 私の中を何かが駆けていきました。
「だから、おくじょうで、おばあちゃんが、ぼくに目かくしをしたときも、こわくなかった。ともがたすけてくれるって、知ってたから」

 温之が私の頬を撫でます。溢れるものがあったからです。
 温之が、そっと囁きます。
「おかあさん、泣きたいときは、泣いてもいいんだよ」
大粒の涙を、温之が小さな手で拭います。

――子供に育てられているのは、親のほうかもしれない。
 二十代も半ばを過ぎていた私が、あのとき人生でもっとも学んだことのような気がします。


週が明けて、狂言誘拐のことで、温之がイジメられないか心配でしたが、特に表立って言われるようなことはなかったそうです。それどころか温之に対して、潮を引いたように無視や陰口が無くなり、他の生徒たちと同じように、普通に溶け込んでクラスの子たちと遊ぶようになったと聞いて、胸を撫で下ろしました。

 同じ頃、テレビに出るたび、中無や私を個人攻撃していた山吉が、遂に馬脚を現しました。

山吉は、自分が関わってきた事件について語った本がベストセラーになっていたのですが、彼に出版を断られたライバルの出版社が、それは「虚像」だと、バッシングする側に回ったのです。

「捜査の神様」と呼んでいたのは山吉ひとりだったこと。こうと思い込んだら最後、誰の意見にも耳を貸さなくなるため、署内でも煙たがられていたこと。違法捜査ばかりで、始末書や謹慎が多かったこと。グリコ・森永事件にはまったく関与していなかったこと。朝日新聞襲撃事件は、山吉の初動捜査のミスでいまだに犯人が捕まっていないこと。宮崎勤を逮捕したのは、別の刑事だということ。暴力団に借金があるため、長年にわたり捜査情報を漏洩していた疑いなど……数えきれないほどの不審な点が浮上しました。

 大洋航空を批評して大衆の支持を得ていた山吉は、テレビのコメンテーターとして顔を売り、歯に衣着せない発言で、一時視聴率を取っていましたが、実は裏で与党の議員や企業と結託していたことも明らかになりました。

山吉には、「悪徳捜査の神様」というレッテルが張られ、彼の名は地に墜ちました。それは同時に、中無の名誉回復へと繋がっていきました。

年を追うごとに山吉のボロは出続けました。亡くなった奥さんの死因に不審な点があると報道されたことは記憶に新しいところです。しかも多額の保険金が掛けられていたことまで明らかになりました。「何者かによって、高度の放射線を持った石が庭に仕掛けられていた」という話も、放射線測定器の数値を操作していたことが判明しました。もちろん、彼の言う「不治の病」もデタラメでした。

いまや彼のコメントを掲載するのは、『WILL』とかいう雑誌だけです。

 私ですか? 今では近所の人たちともうまくやっています。私はこの町で「信念の人」として見られるようになりました。面映ゆい話です。母も健在です。誰も私たちのことを疑いの目で見る人はいません。整備工場の後輩は、ひと回り以上年下のため、私の名前が連日メディアで踊ったことを知りません。彼とのことも今後ゆっくりと考えていきたいと思っています。

 平穏な日々が続いていましたが、成長した温之が、パイロットになりたいと言ったときは驚きました。
 応援してあげるべきか、止めるべきか。迷いましたが、あの子の希望する道を後押しすることに決めました。

 操縦士の試験の日、私は家の受話器の前で、息を潜めるようにしていました。電話が鳴ることに、こんなに不安を感じたのは、何年ぶりだったでしょう。何も手につかず、受話器の前で座り込んでいたところを、突然ギギギギギギーン!と携帯電話が鳴りました。けたたましい音です。それこそ心臓が止まるかと思うほどの。私は着信のボタンを押します。受話器の向こうで温之の弾んだ声が聞こえます。

激しい着信音は、祝福を告げるものでした。

 中無と知之が眠るお墓に報告しようと、涙を拭いて家を出ます。
玄関には、あの子と同じ高さに伸びた庭のパキラの木に、一輪の花が微笑むように咲いていました。


https://ebook.shinchosha.co.jp/book/E036921/

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