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『アクシデント・レポート』(selection04)

湯本滋の証言(5370字)

 はい、どこからお話ししましょうか。事故があった年ですか。その前からですか。

 不動産業を営んでました。高校を出て使い走りから叩き上げで勉強して、資格を取って、二十七のときに独立しました。

 もともとは東京の生まれですが、親父が転勤族だったので、五歳から三年間、十二歳から二年間は関西だったんです。土地勘とか文化とかわかっていましたから、店で知遇を得た名士にも相談して、大阪の物件も扱うことにしたんです。

 七十ぅ、七年か八年だから、景気も良かった。世の中も今と違って明るかったしね。出張も多かったから、企業が梅田駅近くのウィークリーマンションを年間契約とか、珍しくない時代でした。もっとお金があるところはホテルを借りていましたから。

 当時の生活は、週に五日は東京。二日は関西といったところです。大阪にも店を構えて人を雇いましたが、億とかモノが大きくなると私も同席して。

 とにかく羽振りが良かった。だけどそれは私だけでなく、あの頃はみんながそうでしたから。

 三十を機に結婚して、すぐに子供も生まれて。一姫二太郎です。私の世代ではそれが普通でした。今は女性も男勝りに働くようになったから晩婚も多いし、未婚も珍しくないだろうけど、私の年代では考えられなかった。よっぽどの変わり者か。いまはダメなんでしょ? 夫婦でも子供がいないと「可哀想に」って、面と向かって言われても仕方がなかった。地方ではいまだにそうでしょう。

 これは私の持論なんだけど、コンビニが悪いんだと思うよ。どこにでもあるし、何時に帰ってもやってるでしょ? あれが良くないんだよ。便利になったかもしれないけど、それが本当に人の幸せに繋がっているかどうかは疑問だね。そう思いません?

 あとね、女がガマンしなくなった。別に夫の暴力を耐え忍べって言ってるわけじゃないよ。夫に女がいなくても、DVじゃなくても、借金がなくても、女のほうから別れたいって言うんでしょ? いまどきは。困ったもんだよね。

 まあ、いいです。若い人たちのことはわからないから。




 どこまで話しました?

 ああ、そう。九五年ね。バブルが弾けた後でしたけど、今よりよっぽど経済も回っていました。不況と言っても冷え込みを肌で感じるほどではなかったし。郊外にある2LDKのマンションとか、その当時からぼちぼち独り身の女性が購入し出していました。

 まさか。そんなことおくびにも出さないですよ。馬鹿にせんで下さい。

 女性のお客さんには、女性のスタッフで応対してました。そのほうがあちらも安心しますし、こっちも親身になって相談に乗れました。

 はい? そこまで言うの? あー、そう。カノジョはよく働いてくれました。短大を出て大阪の店舗で働くようになったんです。あの頃で言うとね、ほら、あのコ、貝殻を水着代わりにした、そそそ。それに似てた。背が高くてね。

 これはウチだけでなく、不動産屋をやってるところはみんなそうなんだけど、女だったら大きいコを選ぶんですよ。部活はバレーをやってました、みたいな。男の客と部屋の内覧に行くとき、小さいコだと暴行される心配があるでしょ? これも私の持論というか、警察の人と飲んで直接聞いたことがあるんだけど、レイプされちゃうコはね、やっぱり小っちゃいコなんだって。「与しやすし」って男も思うんじゃないかな。腕力にモノを言わせればいいって。男の力にはかなわないもんね。

 文香、そう、文香。有能なコでした。勉強熱心でしたし、仕事もできた。明るくて、何が可笑しいのか、よく笑うコでした。箸が転んでもってむかしは言ったんだけど。

 本当にここだけの話でお願いしますよ。私のコレでした。

 文香も家が転勤族で、子供のときに神戸で、いったん離れて、短大でまた神戸に戻ってきた。私と境遇が似ているから、親しみやすかったと思うのよ。

 最初のうちは私のことを社長と呼んでいたけど、他の従業員に示しがつかないので、社内はだめだけど、ふたりきりのときはシゲさんでいいよって言ったら目を輝かせて、下の名前で呼ぶようになった。可愛いコでした。

 私のどこが良かったんでしょう。お嬢様育ちのフミからしたら、同世代の若い男は物足りなかっただろうし、丁稚から這い上がってきた私に、まあ何と言うんですか、男の魅力のようなものを感じたんでしょうな。

 誕生日プレゼントに何が欲しいか訊ねると、「私、それよりシゲさんと銀座とか六本木とか、東京の街を歩きたい」ってねだるからそれはダメだって、音がしそうなほどピシャっと言ってやりました。でもその代わりに関西では、京都のいちげんさんお断りの店で舌鼓を打ったり、神戸の一流ホテルに泊まったりして、うんと贅沢をさせてあげましたよ。

 フミのほうからプレゼントをもらったことがあります。

「シゲさんいつもオジサンっぽいのしか持ってないから、私が選んであげるね」

 あれは妻への当てこすりもあったのでしょうな。ちょっと派手というか、ヤングな人向けのネクタイをもらいました。着けてみると、「よく似合うよ」って、また笑うんです。若い女はいいなって思いました。

 人生の絶頂でした。仕事は順風満帆。妻と子供に恵まれ、べっぴんの愛人がいて、高級車を乗り回し、泳ぐように生きていた。何の矛盾も不満もなかった。この日々が続くと疑いませんでした。それでも自分のことを、特に幸せだとは思わなかった。そうした生活も当たり前になったら、ありがたみは感じなくなるものなんです。


 平成七年七月二十六日、その日のことはよく覚えています。平日でした。

 私は大阪で昼のうちに大きな商談をまとめて、東京で夜、用事があったので、その日のうちに戻らなくちゃならなかった。泰幸会系のスーパーの店長が新規で、もっと大きな店を開きたいから相談に乗ってほしいと言われていたんです。要は接待なんですけど、大口の取り引き先でしたから。

 四時半の飛行機でした。なので三時にはできたばかりの伊丹空港に着きたかった。ところが先約が押して、急がなくてはならないのに、こんなときに限って忘れ物を思い出したんです。

 その頃は大阪に泊まるときはフミのマンションでした。家賃も私が出してました。

その日も朝、家を出るときに、書類をいくつか、忘れないようにって言われていたんです。

「これ、大事なものだからね。シゲちゃんって、うっかり屋さんだから気をつけてね」

 私も受け取っておきながら他の荷物を出し入れしているうちに、マンションに置いてきたことに気がついたんです。出先のため大阪の店に電話したんだけどフミも外に出ているというし、当時は携帯電話もないから捕まらない。マンションにあるのは確実ですから、後でフミに送ってもらえばいい。だけどどうにも胸騒ぎというか、虫の知らせというか、私はそういうの、あまり信じないほうなんですけど、なぜかそのときはどうしても取りに行かねばと思ったんです。

 仕方がないから、堀江まで急いで戻って。それでそんなときに拾ったタクシーが渋滞に巻き込まれて。しかもやっと着いてもマンションのなかのどこを探しても書類が入った封筒が見当たらない。もう一度店に電話をかけましたが、相変わらず連絡が取れない。とうとうあきらめて伊丹まで急ぎましたが、やはり間に合わなかった。確か、四十分ぐらい遅れたと思います。461便はとっくに飛び立った後でした。

 次の便も次の次の便も売り切れだというから白旗で、新幹線に変更することにしました。あちらには「遅れます」と電話で伝えて。

 新幹線に乗っているときにポケベルが鳴ったんです。東京の事務所から何度か。どうしたんだろうと思って車内の電話から掛けたんです。

 それで初めて、事故があったことを知りました。
 へなへなと、その場に腰から崩れ落ちました。
 あのときのあの感じ、どれだけ言葉を尽くしても、うまく話せません。

 東京駅に着いて会社に寄って、ようやっと家に帰りました。

 不思議なものですな。そういうときは空気が違うというか、家に一歩足を踏み入れた途端わかるものなんです。殺伐としているというか。呼んでも誰も迎えに来ないから、おかしいなとは思っていたんです。玄関に女モノの靴があったから、はっと気がついて、そっと踵を返せばいいものを。でも男は自分が買ってあげた靴の色なんて覚えていません。居間の扉を開けて、俺な、今大変な経験をしたんだ……と言いたいところに、妻が般若のような形相で立っていた。こっちはもっと、それどころじゃなかった。

 妻が乾き切った声でひとこと、こう言った。

「あなた、お客さん」

 それが誰か、言わなくても、わかるでしょう?

「社長、遅かったですね。忘れ物を届けに伺いました」

 封筒の中身がテーブルに広げられていました。最初の行が目に飛び込んできて、それだけで卒倒しかけました。

 手紙から顔をあげると、フミが、白い歯を見せて笑いました。

 あの年は阪神大震災とオウムがあったのに、夏になったらテレビはあの事故一色になりました。テレビや新聞や雑誌を目にするたび、全身が縮みあがりそうなほど身震いしたものです。

 ──自分は危うく死ぬところだった。時間通りに乗っていたら確実に死んでいた。

 そう考えたら、怖くて怖くて。汗びっしょりになって夜中に起きるのもしょっちゅうでした。

 そこに家庭のトラブルでしょう? とうとう私は神経衰弱になってしまいました。

「シゲさんはね、たとえあのまま飛行機に乗っていても、きっと助かったと思うよ。なんでかわかる? 私が愛しているから。私がついているから」

 フミは病院のベッドで私をそう慰めてくれましたが、いくら頭を撫でられようと、心から冷える恐怖を癒せるものではありません。

「わたし、シゲさんの命の恩人になったね。これからはいっぱい言うことを聞いてもらわなくちゃ」

 妻は一度も見舞いには来てくれませんでした。フミが大阪の会社を休んで、付きっきりで面倒を見てくれました。とても献身的でしたよ。私が真夜中に叫び声をあげて目覚めると、彼女は私の顔を胸に埋めてくれました。何度も命を救われました。

 フミに訊いたことがあります。なんであのとき突然うちに来たんだって。そしたらね、ケロッとした顔でこう言うんです。

「あのときスーパーの店長に会うってウソだったんでしょ?」

 フミには百も承知、お見通しだったんです。その頃私は東京にも新しい女を囲っていた。

 プライドからか、「他に女がいる」みたいな言い方をしないのがフミらしい。

 もっとも、それは口実でしょう。私と手を切る口実を狙っていたのだと思います。回数も減ってましたし、男としての魅力がなくなっていたのかもしれない。

 妻から三下り半を突き付けられて、フミも私から取れるものを取ってから半年後、別の男と結婚しました。ほら、あのお茶の先生だかで有名な男。弥勒院。驚きました。女はそういう芸当ができる生き物なのだと、その頃私は四十半ばでしたが、その歳になってやっと、女の怖さというものを知りました。

 若くてキレイな女は、わざわざ女優や歌手になんぞならんでも、自分の商品価値が高いときに玉の輿に乗るのが利口なんです。フミは賢しらな女でした。ちゃっかりしています。でも、憎めない。今も。

 それから私もどうにか仕事に復帰して、その矢先に、マルサが入ったんです。

 さっき、大阪ではフミのマンションに泊まったと言ったでしょう。でも私は税金対策に、大阪でホテルに泊まったことにして、浮いたお金でフミと一緒に美味しいものを食べたり、宝石を買ってあげたりしていました。他にも誤魔化していたことが、マルサに全部バレてた。腰を抜かしましたよ。連中にはバレないよう裏帳簿を作っていたのに、それも見破られていた。知っているのは、ひとりしかいなかったんですけどね。
 ええ、追徴金を払ったのですが、それから年が経つほどに不景気になって、見る見るうちに仕事が減っていった。大阪の店は人手に渡って、東京の店も閉めることになりました。働きづめだった人生がぽかんと空いて、それで、気がついたらフミからもらったネクタイで、首を吊っていたんです。

 今はご覧の通り、このアパートに年金で暮らしています。それだけじゃ足りないので、週に二度清掃のお手伝いをしています。後遺症が残ったせいで右手が不自由なのですが、他にできることもないので、汗をかかせてもらっています。

 子供ですか。二十年近く会っていません。孫ができたらしいのですが、一度も会えていません。誰も私に会いにくる人はいません。

 ときどき思うんです。あのまま飛行機に乗っていたほうが、幸せだったんじゃないかと。いっそ死んどいたほうが良かったなあ。こんなこと言っちゃあいけないんですけどね。いけないんですけど、言わずにおれんですよ。地震で家族を失った人が、仕事も家も故郷も失って、仮設住宅で自ら命を絶つでしょう。その気持ち、死ぬほどわかるんです。

 きょうも思いました。昨日も思いました。あしたもきっと、思うでしょう。

 ああ、あんときやっぱり、くたばっとったらよかったと。

https://ebook.shinchosha.co.jp/book/E036921/

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