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アクシデント・レポート(selection02)
中村すずの証言(8200字)
そうですか、あれから十七年も経ちましたか。わたしもあの日から同じ分だけ歳を取ったはずですが、時間が止まったように感じられます。こんなことを言ったらあの人に、「ど阿呆。お前だけ婆にならへんつもりか」などと叱られるかもしれませんね。
初めて会ったときは、あの人はとうに有名な方でした。わたしも娘だった時分からテレビなどで存じ上げていました。女嫌いの色好きのお客様がお連れになったのですが、あの人はわたしだけでなく、わたしの友達にも着物や帯を買ってくれたり、おこづかいをくれたりと、実がある御人でした。でも後で訊いたら、芸者遊びはそれほど楽しくなかったそうです。お座敷でわたしと知り合ったのにねえ。
今でも目を瞑らなくても思い出せます。真ん丸な顔と人の良さそうな笑顔で、ふたりきりになると「ひざまくらしてえなあ。おかあはんみたいに頼むわ」と甘えてきました。わたしもどうにも草臥れているときがありましたが、
「しんどくてしゃあないが、おまえといるときだけは落ち着くのお」
などと言われると、肩のあたりがスーッと軽くなったものです。
あの頃はお互い忙しげでしたけど、お約束の座敷を抜けて中もらいで駆け付けました。五分しか会えないときでも喜んでくれましたし、わたしもあの人といると初心な気持ちでいられました。一緒にいられるだけで幸せだったのです。
十六の誕生日に、わたしは芸者になりました。お披露目の日は、先輩のお姐さんが厚板の丸帯を締めて、着付けの介添えをしてくれました。箱屋が三味線を入れた細長い桐の箱を肩から担いでわたしの後を付いてくる様子は、歌麿の浮世絵の光景そのものだったでしょう。一軒一軒、お出先に挨拶回りしたのが昨日のことのように思われます。
出会ってから三年で旦那になり、毎月決まったものを頂くようになると、だいたい月に二度は泊まっていきました。仕事で東京に一週間来て、帰りに一日、うちで下駄を履いていくのです。普段のあの人は派手や贅沢なものを好みません。家でごろごろと、テレビを見るときだけ身体を起こして、ニュースなどに見入っていました。
食事はわたしの手料理。胡瓜の酢の物に鰤の照焼、それに甘く煮た高野豆腐を大振りの賽子みたいに切ったものを盛るだけで、美味しそうに食べてくれました。あの人は「わいは育ちが悪いんや」と言っていましたが、ご飯を食べるにも褄はずれの上品な人でした。
「おまえの作った飯がいちばん美味いな。店が開けるんとちゃうか」
言わず語らずのうちに、奥様の食事より上だと褒めてくれたのだと思います。
人前で手を繋ぎ、肩を抱かれて歩くなどということは許されませんでした。だからといって日陰者だと思ったことはありません。あの人とわたしの仲が最後まで秘め事でしたが、忍ぶ恋だったがゆえに、深みに嵌まっていったのです。わたしが芸者になったのは、あの人に会うためだったのだと、そう思っていました。
話を聞いていると、奥様にすっかり眉毛を読まれていたようです。お子さんもまだ成人していませんでしたし、本当なら愛想づかしをするべきだったのでしょう。けれどもわたしがちょっと拗ねてみせると、
「おまえ、そないなこと言うて、それでわいが、さいでっか。ほな、さいならとでも言うと思っとるんか」
と、逆に臍を曲げる有り様でした。
身ひとつで家に来てくれて構わなかった。それこそ、「竹の柱に茅の屋根、手鍋提げても厭やせぬ」と腹を決めていましたが、あの人のイメージも大事にしなければなりませんし、土台叶わぬ話でした。
一度だけ、日本橋でばったり、あの人と奥様にお会いしたことがあります。息を止めて立ち止まるわたしに気付かれたようです。
「主人がいつも」
慇懃な頭の下げ方に、胸の内で巣くうものがありました。それ以上は言葉を交わさず、お互いにその場を去りました。ほとぼりが冷めてからと思ったのでしょう。あの人が家に来たのは、それからひと月ほど経ってからです。
「奥様は、それ者あがりなのですね」
あの人は丸い目を、お月様のように大きく張ります。
「なんでや」
「丸髷の結い方、手絡の色、お辞儀の仕方……見る人が見ればわかりますよ。芸者の名残が出てました。どうして秘密にしていたのですか」
「訊かれんかったからや」
「お座敷は好きじゃないと言っていたのに」
「…………」
あの人にかかわらず、都合が悪いと黙る男の人は、下手な弁解をする男の人より、ずっと嘘つきではないでしょうか。
「わたしもお蚕ぐるみやけど、あんたのためなら世話場で辛抱できます」
わたしのところにずっといてほしいという意味を込めて伝えました。目はきっと潤んでいたと思います。けれどあの人はじっとして、困ったような顔を浮かべていました。
「気性の激しい女は、可愛いけれど手に負えんわ」
そうして抱きすくめられると、黙るのはわたしのほうでした。
まだ祝言に未練のある年齢でした。引祝いの巻紙とお赤飯を配ってお嫁に行く年下の妓を見るたび、わたしの中のあきらめの悪い女が顔を覗かせるのです。
「此の度、私こと『春よろ津の○○』結婚致す事に相成り」と、水茎の跡も麗しき他人の筆に、恨めしい心になりました。たとえそれが芸者の儚い夢だとわかっていてもです。
この世界もずいぶん様変わりしました。わたしは古い世代に躾けられてきましたが、今の人たちは違います。腰掛け程度の気持ちでこの世界に飛び込んでくる娘さんも多く、麻巳子もそのひとりでした。踊りがそこそこ上手くても、部屋ではジーパンで寝そべりながらお菓子を頬張っているようでは色消しもいいところです。
わたしの若い頃といったら、普段着でも縞や絣の御召に紬が当たり前でした。寒いときはそれに黒衿の付いた半纏や茶羽織を引っかけたものです。トレーナーを肩から結んだりしてみっともない。なのにちょっとでも注意しようものなら逆に恨まれる始末です。麻巳子は胡坐をかいて口答えをしてきました。
「あたしはここに芯まで染まるつもりはないから。高望みの売れ残りじゃ意味ないンで」
いけ好かないったらありゃしない。わたしの頃のお姐さんだったら大変だったでしょうね。でもそんなみそっかすを贔屓にするモノ好きな方もいるようで、あの娘も流行っ妓を気取って、「あー忙し忙し」と袷の合わせ目に天紅──逢い状とも言いますけど、それを七枚も八枚もヒラヒラさせていました。
あの人はわたしやすずめちゃんを誘って美味しいものを食べに行くときも、あのすれっからしに声をかけるので、苦々しい気持ちになりました。
「ええやんか。仲良くしときぃな」
誰に対しても人当たりが良くて優しかった。あの人のことを茶人だと思っていました。
あれは旦那になってから七年目のことでした。正体をなくすほど酔ったあの人が、ひざまくらでぽつりぽつりと零しました。話す内容が、普段とどうも違うのです。
「わいもな、歌や芝居だけやったら気が楽やったと思う。アメリカで当たったんが運のツキやった。わいの親、朝鮮やろ。先祖が両班で、教育のために金を惜しまん家系やった。鼻たれ小僧の頃から親が英語を喋れるようにしたんがそもそもの間違いや」
何を言っているのか意味がわかりませんでしたが、聞くとはなしに耳を傾けていました。
「アメリカでもな、プロデューサーでテレビの司会をやるおっさんがCIAやってんで。そいつの番組出たときにな、楽屋で俺も同じや言われてゾッとしたわ。わいもそうやけど、『まさかこいつが』みたいんがええんや」
それからあの人が挙げていった名前は、政治や経済界の有力者ばかりでした。きっと寝惚けて、役の話をしているのだろうと思ったのですが、どうやらそうではないようです。
「あいつらにとって都合が悪くなってきた。ヒッチコックやないけど、わいは『知りすぎていた男』のようや。こないだかてそうやで。ドラマの収録中にやってきて、楽屋に閉じ込められたのに助けを呼ぶこともでけへん。スタッフはわいのわがままやと思うたやろな。こんなことばかり続いたら仕事を干されてまうがな」
わたしは黙って、あの人の頭を撫でていました。テレビでは陽気な人となりを演じていますが、うら悲しい生え際に、思わぬ素顔を見た気になりました。
「おかん恨むで。わいを子供の頃からテレビに出して。嬉しいのは親だけや。わいがニコニコしててもホントは腹ん中何考えてたか、ちっともわかろうとせんかった。挙げ句アメリカの走狗や。恨むで……ホンマに恨むで」
わたしのひざは、その夜ずっと濡れていました。
あくる朝、あの人はいつもと変わらない様子でした。わたしのほうから訊いたりはしません。普段と違う顔を見せたのは、後にも先にもあの夜一度きりでした。
それからは毎日神棚に手を合わせて無事を祈りました。神棚に上げるお神酒は一対の徳利に入れてあるものですが、これをお神酒徳利と呼びます。自分とあの人の姿を重ねて手を合わせました。
八官神社に願掛けをしに参りました。こんもりと木が生い茂る中に小さな鳥居があって、季節に関係なく雀が寄ってきます。よく晴れた日などは木漏れ日に目を細めて、心が洗われた気になります。
「八官様、私の大好きな餡蜜を一生断ちますから、どうかあの人を助けてあげて下さい。よろしくお願い致します」
痛くなるほど目を閉じてお祈りしました。
「これはこれは。いい人のお願いかい。そいつが羨ましいねえ」
声に振り返ると、意味ありげな目で洋一が立っていました。まぼふゆ亭という北参道にある料亭の息子です。ずいぶんむかしですが、わたしの客情人だったこともあります。二代目ですが、すっかり店を傾けていました。お茶屋にも来られず、玉代もろくに払えなくなると、苛立ちからわたしに手を上げるようになったのです。それでもどこか憎めない人品で、別れた後も何度かちょっかいを出してきました。よく見ると、いつかふたりで拵えた比翼紋の入った紬を引っ掛けています。
「やらとらのあごあしで、どこかに行こうぜ」
洋一の手を払い除けて、わたしは置屋に戻りました。
年の瀬も押し迫った時分でした。少し前から麻巳子も含めた芸者が何人かまとめて辞めていたものですから、そのしわ寄せがこちらにもきて、てんてこ舞いでした。
お座敷の後で、三回続けてクシャミをしました。
「あら、いい人かしら」
すずめちゃんがクスッと笑います。花柳界ではクシャミをしたとき、「一、そしられ、二、ほめられ、三、ほれられて、四、風邪ひく」と言われています。すずめちゃんは、誰かに想われているんじゃないの?という意味を込めて微笑んでくれたのですが、その後すぐにもう一回大きなクシャミが出ました。
「珠枝ちゃん、おまじない」
「うん」
わたしは両肩をポンポンポンと、右手で左の肩を、左手で右の肩を三回ずつ叩きました。これで大丈夫のはずが、三が日を布団の中で過ごすことになりました。
あぶくが弾けた直後とはいえ、景気も今より良かったので、先生方がお元日から七草まで、七日間通して空約束を付けて下さいました。ここで言う空約束とは口先だけの守らない約束ではなく、遊んだことにしてお金を支払うことを言います。それを粋に感じて下さる方たちが当時はまだいらっしゃいました。もっとむかしに遡ると、千両役者と呼ばれた大スターは、通りの向こうの店をすべて一週間借り切るなど、近頃とは規模が違ったそうです。今では想像もつかない、大らかな時代の話です。
真夜中にひとり、布団の中で暗い天井を見つめていました。あまりの心細さに、いろいろと悪いことばかりが頭に浮かんできます。ちょうどそんな折、玄関の格子戸をガタガタと揺らす音がして、心臓が止まるかと思うほど驚きました。
「おーい、わいや」
両手に抱えきれないほどの楽屋見舞いを持って、あの人が突然やってきました。
「かまへんかまへん。そのまま寝てんか」
あの人は自分でお湯を沸かして、わたしの分までお茶を淹れてくれました。こみあげてくるものがあって、あの人に悟られないように堪えました。
「お座敷で、初めてわたしに言った言葉、覚えてますか」
「おまえやっぱり寝てえな。ずいぶんな鼻声やで」
「覚えてますか?」
「知らん」
「ホンマに?」
ついついわたしにも関西弁がうつりました。
「なんて言うたん」
「はんなりした色、着てはりますな。そう言って、わたしの着物を褒めてくれたのですよ」
「忘れた。それホンマにわいか?」
「わいです。わたしにお酒を勧めてくれました。でもお客様にいくら勧められても、芸者はお座敷で飲食することは御法度です。そう説明したら、あなたはすっかり拗ねた顔で、手酌で飲んでいました」
「そうだったかいのお」
布団から出ると、さっきより体が軽く感じられました。あの人に買ってもらった三味線で『娘道成寺』を唄いました。白紅木でできた、継ぎ手の部分に九金の金細を嵌め込んだ逸品です。布団のなかで一緒に寝たくなるほど大事にしてきました。
恋の手習つい見習いて
誰れに見しょとて 紅かね付きょぞ みんな主への心中立て
(誰のためお化粧をするのか、ご存じですか。
あなたひとりのためにお化粧をするのですよ)
わたしなりの心中立て、恋の気持ちでした。あの人は聞き終えると、ひとことこう漏らしました。
「わいもおまえの名前を腕にでも彫ろうかな」
わたしは声を立てて笑いました。江戸時代にはこうした心中立てに応えるため、一生心変わりをしないと、男と女がお互いの名前を腕に入れ墨をしたそうです。そうした文化があったことを知ってつぶやいたのです。久しぶりに心が温まる思いがしましたが、あの人は腕時計をちらりと見やりました。
「そろそろいかんと」
「もう帰るのですか」
「わいも忙しうてなあ」
訊きたいことが喉まで出かかりましたが、あの人は衣桁に掛けた背広を急いで羽織りました。
「お。ぽつぽつ来とるな」
格子戸を開けると同時に、あの人は空を見上げます。その日は一日中降りみ降らずみの天気でしたが、ちょうどやらずの雨が降ってきました。帰したくないわたしには御誂え向きでしたが、あの人は家の中に戻ろうとはしません。
わたしは玄関先で、火打石を使って切り火を浴びせました。
「ほな、さいなら」
藤色の蛇の目が次第に小さくなるのを、追いかけもせずただ眺めるだけでした。
それから一週間ほどした朝まだき、ぱりんと割れる音が聞こえました。地震があったわけでもないのに、お神酒徳利が落ちたのです。嫌な予感がしました。案の定、届いたばかりの朝刊を開いたら、「円藤万亀男さん、再婚へ」とありました。
わたしは離婚したことさえ聞かされておりませんでした。しかもその相手が、あの麻巳子だというのです。へなへなと、その場に座り込んでしまいました。
あの夜いきなり家に来たのは、わたしに縁切りを伝えるためだったのでしょうか。しかしわたしが心中立てを伝えたために言えなくなったのか。あの人のやさしさが酷なものに思えました。
あんなばらがきのところに行くとは、悲しむよりも驚くほうが先立ちました。いつ手玉に取られていたのか。やはり男の人にとって、「女房と畳は新しいほうがいい」のでしょうか。家まで買ってもらったと人伝に聞きました。私は彼女のすご腕にやられたわけです。よせばいいのに、見たことも行ったこともない新しい家で、ジーパンの格好で胡座をかくあの娘が目に浮かびます。ひとしお怨みが増しました。
なのにあの人が銀流しとわかった今も、心の底からは憎めないのです。
悪いことは重なるものです。すずめちゃんが肺炎を拗らせ逝ってしまったのです。
すずめちゃんには好きな人がいて、すでに二度、女として悲しい思いをしていました。有名なスポーツ選手で、妻子がいらっしゃった。それでもその人のことがあきらめきれず、活躍するようにとお百度を踏んだのが仇となったのです。すずめちゃんは入院しましたが、男は一度も見舞いには来てくれませんでした。わたしは仕事を休んで看病しました。強く握れば壊れてしまいそうなほど華奢な彼女の手を両手で包み込んでいると、ひとことこう漏らしたのです。
「珠枝ちゃん……つらいね」
それが何を指しているのか。女なのか、芸者なのか、人生なのか。訊き直せばよかったのですが、呼吸が小さくなるばかりの彼女に訊ねることはできませんでした。
あくる日の黄昏どき、一枚の絵のように美しい夕映えが窓から飛び込んでくる時分、すずめちゃんは息を引き取りました。まだ三十歳でした。
わたしが腹を決めたのは、身寄りのない彼女の細い骨を、拾い上げた後のことでした。
あの人が用意してくれた家を出る日、何か残していきたいと思いました。気性の激しい、わたしなりの小さな復讐でしょうか。誰も聞く者などないのに、ひとりで『娘道成寺』を弾いたのです。
恋の手習つい見習いて
誰れに見しょとて 紅かね付きょぞ みんな主への心中立て
おお嬉し おお嬉し 末はこうじやにな
さうなる迄は とんと言わずに済まそぞえと
誓紙さえ偽りか 嘘か誠か どうもならぬほど逢いに来た
ふっつり悋気せまいぞと たしなんで見ても情なや
女子には何がなる 殿御殿御の気が知れぬ 気が知れぬ
悪性な悪性な気が知れぬ
恨み恨みてかこち泣き 露を含みし桜花
さわらば落ちん風情なり
わたしも蛇になって、あの人を焼き殺したかった。
唄い終えたわたしは三味線の上の部分、天神を両手に握ると、床の間に振り下ろしました。棹も胴も粉々に砕け散りました。
ここに至るまでには幾つもの逡巡がありました。お恥ずかしい話ですが、寂しさを紛らすため、かつての客情人と縒りを戻したこともあります。
しばらくしてあの人から「すまなんだ」と電話がありました。風の噂では、うまくいっていないとのことでした。電話の向こうから悲愴な感じが伝わってきましたが、わたしは黙って受話器を置きました。
そしてそれから三年ほどして、あの旅客機事故があったのです。
すでに心の中で断ち切ったはずなのに、テレビであの人の名前を聞いた途端、わたしは気を失ってしまいました。
あの人の遺体は最後まで見つかりませんでした。お守り用の笠間稲荷のペンダントと腕時計で本人と断定されましたが、わたしの名前をどこかに彫ってくれていたら、それで本人と確認されたのではないかと、都合のいい妄想にとらわれたことがあります。
あの人は本当は生きているに違いないと信じ続けましたが、もしそうだとしたら、わたしのところに電話一本寄越さないわけはないですから、本当に逝ってしまったのですね。
他に覚えていることですか。
そういえばあの人、こんなことを言ってました。テレビで行方不明のニュースを伝えていたときのことです。めずらしいことではありませんが、痴話喧嘩の縺れから男を殺害し、隠した遺体が見つかって御用という顛末を伝えていたときのことです。なんとはなしといった感じで、あの人がつぶやいたのです。
「賢い人間なら小石をどこに隠す? 浜辺がええな。樹の葉だったらどこに? 森の中で決まりやな。それじゃあ、人間を片付けるなら?」
わたしが答えあぐねていると、あの人は続けてこう言ったのです。いつもと声色が違ってヒヤリとしました。
「死体を隠すなら、死体の山をこさえてそこに隠す」
どういう意味か、わかりますか。
そうそう、こないだね、枕元に立ったんです、あの人が。
ひとつも歳を取っていないんです。でもあの人は、何も言いません。じっと、むかしみたいに大きな丸い目でニコニコしているだけ。夢の中なら誰に見られてもいいのだから、もっと近くに寄って、抱きしめてくれたらいいのにねえ。
芸者以外何もできないわたしですが、いまは定食屋で働いて、時間のあるときは若い人に三味線や踊りを教えています。いまも餡蜜を口にしていません。
この歳なので来し方行く末を考えると暗くなりがちですが、そんなときは気晴らしに八官神社にお参りに行きます。
雀がそばに寄ってきて、あの子らに古米をあげるのが何よりの楽しみです。
「すずめちゃん、いっぱい食べてね」
あの子たちが、わたしの足元でちゅんちゅん鳴き声をあげて、日が暮れていくのです。