今日の一曲 #2【冬、頬の綻び、浮遊する祈り / 小林私】
※注意
当記事は投稿者の個人的な見解と自己満足によって成り立っています。「自分語り乙」「隙自語」といった具合にアレルギー反応を示す方にはブラウザバックを推奨します。
2023年もあと2か月足らずで終わろうという今日この日に、2022年に最もリピートした曲を語らせてほしい。小林私が昨年リリースしたアルバム「光を投げていた」に収録されている一曲、「冬、頬の綻び、浮遊する祈り」だ。季節的にもこの曲が似合う時候になってきたからちょうどいいだろう。
まずは曲名。なぜここまで攻めた命名を試みてしまったのか。散文的なタイトルは無条件に胸が躍ってしまうし、自然とハードルが上がる。巧みな言葉遊びや文学性を期待してしまうのからだろう。“冬”と入っていることからは、その季節に聴きたくなるような音作りへの期待も膨らむ。
そんな上がりきったハードルを軽々飛び越えてきやがったのがこの一曲だ。「いくらなんでも言いすぎでは」と怪訝そうにこちらを見ている未聴の皆様は安心して聴きにいってほしい。自分が思い描ける期待なんて所詮陳腐なものだと思い知ることになるだろう。
歌詞は全文をひとつずつじっくりと見ていきたい。解釈について明言することは自分の想像の余地を押しとどめてしまいそうで気が引けるのだが、それよりも溜まりに溜まった“好き”を発散させるのを優先したい。
ここから僕が語ることはあまり真に受けないでいただきたい。聴き込んで思ったことを適当に呟いているだけなので、話半分に受け取ってほしい。
ここの“冬景色”は世間がいう“まとも”や“普通”からはじき出された自分。そんな自身に嫌気がさしている人、今や過去に暗い部分がある人の中には、自分の傷を愛でる人というのが一定数いる。瘡蓋ができたらそっと剝がして、時々爪先で触ってみたりして、その痛みにほくそ笑むのだ。それなのに現状を嘆き、なんとか傷を癒したいという意思表示だけは常に見せている。
一見移ろう季節を描いた情緒深い散文にも見えるが、それを自分自身に置き換える解釈も可能とは。粋が渋滞し過ぎている。
悩める人には様々なタイプがあるけれど、“立ちはだかる敵と、それにやられて苦しみながらも足掻く者”という構図に自分を落とし込み、それを世界規模で捉えるタイプは少なからずいる。それを“その場凌ぎの言い訳”と言い切ってしまう小林私の冷酷さがたまらない。この世で最も酔ってはならないのは酒でも異性でも自分自身でもなく、苦しみだ。
ちなみに、先程から小難しいことを分かってる風の顔で語っているが、普通に雪を“雑菌まみれの白”と書いてみせる表現力が天才的なのは言うまでもないだろう。
サビはなんといっても出だしの歌い方。小林私は“浮遊感”を“ふゆ”で区切っている。これぞ日本語の強みであり魅力といえる言葉遊びだ。聴くのと読むことで二度美味しい。
歌詞の内容に話を戻すが、「俺って社会不適合者なのかな」「大人になりきれてないのかな」みたいなぼんやりとした不安を“浮遊感”と表現するのが的確過ぎる。そういった不安を口にしてみると案外あっけないので、人前では平気なふりをしてしまう。そんな心の揺れへの解像度の高さも尋常じゃない。
最後の「洒落じゃないんだ」にも着目したい。韻を踏んだ後の照れ隠しにも聞こえるし、「今の俺は洒落にならない状況なんだ」というSOSにも聞こえるし、傷を抱え込むことはお洒落でも何でもないとバッサリ切り捨てているともとれる。ここまで多義的な解釈ができる日本語、並びに小林私の歌詞、まじで面白すぎるな。
肥大化した自意識、挫折、諦観。そんなニヒルな雰囲気が漂い始める。
小林私のアーティストとしての苦悩を描いているともとれるけれど、人生の視界がぼやけてしまったり、ふとしたきっかけで道を踏み外してしまうことは僕たちにだっていくらでもあるだろう。
“まとも”になろうと奮起したはいいものの、変わろうとする自分を俯瞰してみると照れてしまって、結局自分と同じ社会的に不器用な奴らと共に冬景色へと帰って行ってしまう。その逃避先は他人だったり、作品だったり、人によって様々だろう。僕にとっては音楽が逃避先になることが多かったな、とこの歌詞を読んでいて思い出した。
聴き手である僕たちと道連れになってくれているのか、勝手に堕ちていく僕たちを揶揄しているのか。小林私はどちらなのだろうか。
これまでの比喩に富んだ叙情的な歌詞からは一転して、ストレートな想いの吐露がされはじめる。これこそが僕がこの曲をこれほどまでに推す理由だ。始めは気丈に振る舞ってみたものの、強がりはいつまでも続けられるはずもなく、本心からの弱音を吐いてしまうのがなんとも人間らしい。
それにしても「他の誰でもやれることを出来ずに息する」とは、シンプルながらも毒のある良い歌詞だな。でも、この曲に共感する人が多くいるということは、“他の誰でもやれること”なんて実はほとんどないのかもしれないよな。大人になってみると、案外いい加減な状態でも社会はおかまいなしで進んでいくものだって気づくものだし。
終盤に最も強烈な一節を叩きこまれて、初めて聴いた時は眩暈がした。
僕は去年、新卒で入った会社を辞めた。最近は転職のハードルがかなり下がっているとよく言われるが、それはあくまでひとつの会社に留まることだけがキャリア形成の全てではないという価値観が広まっただけであって、僕の場合はただ逃げ出したくて辞めただけの落伍者だ。
そんな時分に、次の仕事を探しながらずっとこの曲を聴いていた。いい歳した大人として早く仕事を見つけなければという焦燥と、このまま自分の機嫌をよくすることだけをしながら細々と生きていきたい煩悩の狭間にいたので、この一節に共感してしまった時はたまらなく恐ろしかった。それでも、“恐ろしい”と思えている時点でまだ救いはあるのだろうと信じて、今日までこの曲と共に生きてきたのだ。
今は無事転職も果たして、成功も失敗も重ねながらなんとか業務に食らいついている。誰にでもできる業務以外にも、自分のための役割を与えられたりしている。そうなった頃から、自然とこの曲から耳が遠のいていった。一生好きでい続けられる音楽がいいのは言うまでもないけれど、ある特定の時期に特別な意味をもって好きになって、然るべきタイミングで卒業できる音楽も人生には必要だと思う。この曲は僕にとってそういうタイプの音楽だ。
そういえば、この部分の「どうしようもないまま」の歌い方もすごく良い。最初は小林私らしいがなるような歌唱で始まり、この部分では一転して諦観を滲ませた自身を嘲笑するような歌唱に様変わりする。
歌詞の話ばかりしてしまったが、曲も本当に魅力的だ。
これはMVのイメージに引っ張られているのかもしれないが、この曲の音は冬の早朝のイメージがある。ひやりとしているけれど、突き刺すような鋭利さはない。かといって優しく寄り添ってくれるわけではなくて、どちらかといえば何も言わずに綺麗な花を一輪差し出して、そのままいなくなってしまうような儚さがある。鍵盤の音がその感じを演出しているのだろうか。僕は楽器が全くできないので、音楽的なこだわりを上手く読み取れないのが少し悔しい。それはそうと、小林私と言えばアコースティックギターだが、その音色が縁の下の力持ちのような鳴り方をしているのも良い。
小林私の楽曲はまだまだ好きなものが沢山あるので、気が向いたらまた語らせてほしい。今日はこの辺で。
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