制作年譜
1986年(0歳)
・11月3日大阪市天王寺区の病院で生まれる。
父は大手建設コンサルタントに勤める技術士(建設部門)、母は大学卒業後、劇場の舞台機構や遊園地の遊戯機械をつくるメーカーに勤めていた。二つ上によく出来た兄がいる。僕は次男で末っ子。
育った場所は繁華街からは少し離れた四天王寺という大寺院の東側に社寺と住宅が混在するエリアで、大阪中心部にしては静かな場所だった。
4歳まで暮らした最初の家は小さなアパートで、幼児の低い目線から見た部屋の様子と、当時出始めの家庭用コンピュータを操作する父の姿を覚えている。兄と仲良しで両親が大好きなどこにでもいる子どもだった。
1989年(3歳)
「脳内味変」を習得する。
嫌いな苦いピーマンもチョコチョコチョコと念じれば、脳内で甘いチョコレート味に変換して食べる事ができた。嫌いな食べ物は母に内緒で、勝手に好きな味に脳内味覚変換して食べればいいのだ。チョコかカレーに味変することが多かった。大人は信じてくれなかったけど、能力は小学生の頃まで続き徐々に薄れた。
1990年(4歳・幼稚園年小)
・五条幼稚園に入園する。
入園早々「ボール消失事件」が発生する。
お気に入りのボールを友達と取り合いになったので独占しようとボールを砂場に埋めた。しかし自分で埋めた事実を忘れ「ボール置き場からお気にりのボールが消えた」と酷くショックを受ける。卒園が迫った2年後、砂遊びの最中に偶然自分でそのボールを“発掘”。真実を思い出し雷に打たれた思いだった。犯人は僕だったのだ。
・物心がつく頃には絵と工作が何よりも楽しくて夢中だった。牛乳パックやラップの芯、緩衝材のプチプチなんかを駆使して背丈よりも大きな鶴を作った。幼心に「これは傑作だ!」と確信した。何だって誰よりも一番上手に作れると思っていた。作ったものを母が毎度褒めてくれた。数々の傑作を生み出し始める。
1991年(5歳・幼稚園年長)
・「世界の秘密」を知る。
母の自転車で通園中、たんぽぽの綿毛が咲いている駐車場によく立ち寄った。そんな時ふと、この大阪の都市を延々覆っているアスファルトの下は土なのでは?と気づき一人驚愕する。「世界はアスファルトで覆われていて公園や中央分離帯に植木鉢のように土が盛られている」訳ではないのだ。世界の秘密を暴いてしまった気がした。
1992年(6歳・小1)
・大阪市立聖和小学校に入学する。担任は定年間際のおばあちゃん先生だった。幼稚園で勉学を拒絶して図工三昧だったので周囲に遅れを取っていた。毎日めっちゃ叱られて居残り勉強をさせられたけど先生は優しくて好きだった。忘れ物も毎日で休み時間に家に取りに帰らされたけど、先生には内緒で家で牛乳を飲んでまったりしたりした。先生は6年生のときに亡くなった。人が死んで初めて泣いた。
・父方の祖父母の家はいわゆる標準的な大阪長屋で自転車で10分くらいの所だった。銀行員だった祖父はカメラが趣味で撮ったものをよく見せてくれた。2階には父が若い頃に描いたリンゴの油絵が飾ってある。狭い路地の光景と玄関で近所の人と談笑する祖母の姿をよく覚えている。風呂は庭に簡易なものを設置してあったが、家族が集まる日は決まって、歩いてすぐの⚪︎⚪︎温泉という名の水道水の銭湯に通った。「大阪の銭湯は湯船横の段差に座って掛かり湯をするんだぜ」と東西の銭湯比較の本に必ず書いてあるけどそういうことはネイティブに知って育った。二十代の前半は物作りをしている仲間とよく銭湯に集まって赤裸々に仕事を語り合いこれを「全裸クリエイターの会」と称した。
・母方の叔父は近所の臨済宗寺院の住職で時々遊びに行った。大きな本堂は走り回るのに最高だった。年に一度座禅会に参加させられるのが嫌だったけど、お菓子とおもちゃに釣られたふりをして(大人達の空気を読んで)参加した。お陰で今でも結跏趺坐(両足組むやつ)で足が組める。寺院への興味が大学院での茶室研究に繋がった。
1993年(7歳・小2)
・放課後の遊びといえば秘密基地での集会だった。ビルとビルの隙間の体がやっと通るくらいの空間が秘密基地で室外機が会議机だった。基地は公園の木の上にもあったけど木が小さくて何人も上がれないので基地として機能しなくてすぐ廃れた。基地では数人集まってゲップの連続回数や音色を競った。時にはちょっとだけ秘密の話もした。
・このころ路地の奥でお婆さんがやっている書道教室に通っていたけど、時々指に力が全然入らなくなって鉛筆が持てなくなることを先生が理解してくれなくて嫌になった。正座も足首が痛くて嫌だった。母に内緒で月謝を持ったまま公園でサボっていたらいつの間にかフェードアウトしていた。足首痛は後にサッカーをしているときに悪化し三角骨障害が原因だと分かった。指の力は今でも時々全然入らなくなるけど原因は未解明。
・友達と岡山県で開催された子どもキャンプに参加した。親抜きで遠出は初めてだったし、虫がいっぱいいるキャンプ場というのも初めてだった。人生で一番甘い桃を丸かじりして、夜は原っぱに寝っ転がって流星群を観察した。田舎はいいなーと思い始めたのはこの頃。
1994年(8歳・小3)
・学校で作った宇宙船の立体作品が入賞して桜宮のユースアートギャラリー(旧桜宮公会堂)というちゃんとした場所で展示された。おばあちゃんも一緒に見に行った。作品は返却されず大人に利用されたような気がして不信感を抱いた。
1994年(9歳・小4)
・のりのりで白と黒だけで絵を描いていたら担任の先生に「(子どもらしく)カラフルに描きましょう」と指導された。全然納得しなかったけど、そのカラフルな作品を大人達はめちゃくちゃ褒めた。置いてけぼりで嫌な気持ちになった。今でも根に持っていて、ワークショップの時は反面教師にしている。
・クラスのみんなで学校の花壇でジャガイモを育てていた。収穫できたらみんなでジャガバターにして食べる約束で楽しみにしていたのに、長期休み明け様子を見に行くとジャガイモは花壇ごと無くなっていた。校舎の建て替え工事で撤去したという。先生は「仕方なかった」と学校側に立ってものを言った(ように感じた)。泣いた子もいた。この先生は結婚して途中で学校を辞めた。
1995年(10歳・小5)
・小学校の校舎が新築されて、これまで使っていた旧校舎が取り壊された。旧校舎はなかなかいい感じの昭和レトロな建物で語り継がれる七不思議なんてのも一応あったのに、確認せぬままあっけなく解体されて新しいけどなんにもない普通の校舎になった。だけどそんなつまんない校舎も今では懐かしくなった。
・二度目の引っ越し。嘆願が実って同じ校区内だった。四天王寺という大きなお寺の東隣りのマンションの一番上の階だった。窓からは五重塔を備えた伽藍越しに通天閣や難波、梅田のビル群が一望できた。四天王寺は古くから夕陽の名所で、毎日夕暮れの空をぼーっと眺める時間が好きだった。
・この頃夏休みの家族旅行は決まって沖縄だった。この年は初めて離島で沖縄の伝統的な建築と集落を見た。昼間はどこまでも澄んだ海で延々泳ぎ、夜は船上から天体観測した。来るときに渡った関西国際空港連絡橋の設計に父が携わったと聞いて設計っていいなって思った。
1997年(11歳・小6)
・休日は家族でよく難波に出かけた。難波は一番身近な繁華街で、天王寺七坂の一つ学園坂を下り日本橋の電気街を抜けると難波の端に位置する大阪球場(当時は既に球場としての役目を終えていた)まですぐだった。心斎橋のアーケードを抜けて大丸やそごうに向かう。大丸の幾何学的な装飾、そごうのスキップフロアの不思議な空間、新歌舞伎座の連続する唐破風やソニータワー、キリンプラザの近未来的な姿に衝撃を受けた。それら僕にとって幼少期の原風景とさえ思えた風景はことごとく解体されて今はもうない。ただ心斎橋アーケードだけは顕在で後に師事する狩野忠正先生の作品だと知る。
・相変わらず学校では図工の時間だけが好きで傑作を数々生み出していた。他はてんで駄目だった。だけどクラスメイトの智多ともさんは絵も工作ももっと上手だったし、別にそれで将来どうこう考えていなかった。将来田舎住むことはこの頃から決めていた。
続く