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やっぱり僕は、とっ散らかったまま生きて行く

僕の頭はとっ散らかっている。ADHDの症状だそうだ。
常に、頭の後ろ45度30センチくらいの空中に、文字でできた糸くずみたいなのがこんがらがりながら、モヤモヤぐるぐる浮いている。24時間いつだってそこにいる。モヤモヤ君と呼んでいる。
このモヤモヤ君、使いようによっては便利で、僕は付き合いが長いから手懐けることに成功している。
わざわざ意識して考え事をしなくても、モヤモヤ君が、寝ているときも人と喋ってるときも、勝手にアイデア同士を繋いで練って、仕事を進めておいてくれるのだ。ありがとうモヤモヤ君。

頭がずっとそんな状態だから、アイデアは自動的にどんどん湧いてくる、
だけど、モヤモヤ君は、ぱっと答えを言ってすぐに別のことを考えだすから注意が必要。生活をもやもや君のペースに合わせる必要がある。後でまた教えてね、なんて甘ったれたお願いは通用しない。
だから、彼に呼び出されたら、夜中だって飛び起きて制作しなくちゃいけない、大切な用事の最中だってそう。すぐに実行しないといけない。
だけどモヤモヤ君は一流のクリエイターだから、きちんと期待に答えてあげると、自分でもびっくりするようないい作品が生まれたりする。

モヤモヤ君は34年苦楽を共にした親友だ。一緒にたくさん作品をつくった戦友だ。
君だけならまだよかった。だけど彼“ら”は一人じゃなかった。
僕もこいつの存在にはっきり気づいたのはここ数年のことだ。
でも思い返すと確かに昔からいた。
全てを台無しにする、モヤモヤ君の悪友 “ダラダラ君” だ。

小中高の宿題や試験もそうだったけど、大阪の芸大にいたとき学部と修士の卒業制作が間に合わなかった。一生懸命真面目に取り組んだのに、だ。普段の成績はよかった、ここぞというとき駄目なのだ。

学部は10人くらいの後輩と同級生に手伝ってもらってなんとか卒業させてもらった。
修士に至っては提出せず留年したうえに、翌年再挑戦したけど間に合わなくて提出前日に未完成もまま全てを放り投げて帰宅してしまった。
すべてを辞めてやろうと思った。心配して深夜に様子を見に来てくれた友達の宮ちゃんが、無人のアトリエをみて驚いて叱られて呼び出され、二人で泣きながらなんとか仕上げて卒業した

あのときは僕はもう何も作っちゃいけない人なんだ、と思って。本気で落ち込んだ。

ダラダラ君はとにかくモヤモヤ君の足を引っ張る。モヤモヤ君の最高のアイデアを実現させたくなくて「まだいいじゃん」とそそのかすのだ。

なんども彼に泣かされた。
僕が今建築をやっていないのは、このモヤモヤ君の存在によるところが大きい。計画が長期に及び段取りが多くを占めるデザインは向いていないのだ。

だからここ数年は、モヤモヤ君が生きて、ダラダラ君が問題にならないように、自分が楽しめて、瞬発力でできて、多動が生きて、なるべく一人でこなせることをしようと決めて実践した。
精一杯の数のスケッチ・デザイン・絵画・アート・イラスト・プロダクト・テキスタイル・イベント・教室を手がけることができて最高の数年だった。珠実のどろの仕事も手伝ったし、畑もしたし、育児も頑張った。

だけど、2020年の後半体調を崩した。
近所のメンタルクリニックを受診すると、
僕がこれまで時間を掛けて付き合い、やっと親友になったモヤモヤ君は、「ADHDという発達障害の症状。エラーですよ。」と診断された。
ダラダラ君の二次障害で不安障害なのだそうだ。このとき初めて彼の存在をはっきり認識した。

そしてそれは問答無用で治療する対象だという。
人にはない特性で強みだと思っていたこと、自分自身の好きだった部分が全て「症状」だと診断されたのはショックだった。
主治医曰く僕の症状は投薬で不可逆的に治るのだという。悩んだけど、このときはしんどさがピークでこれが解消されて、生活が立ち行くならいいかと思って医師に従った。

数ヶ月後、薬が効きはじめ、モヤモヤ君が薄まっていくのが実感できた。それと同時に、創作意欲がなくなったように感じた。
大概のことが苦手な僕にとって、創作は唯一の取り柄だ。
こんな恐ろしいことはない、すぐに薬をやめた。

僕の創作意欲の源泉は、モヤモヤ君と衝動など、症状が基で、それは生まれたときから一緒にいたのだ、それを34年かけて身体に馴染ませたのだ。
薬でそこだけ取り去ることなんて出来ない。

やっぱり僕は、とっ散らかったまま生きて行く。(2020.4.22 樋口真規)

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