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第37章 ビクター・ウワイフォのベンデル・ステート・ハイライフ

ビクター・ウワイフォは、アフリカの現代音楽家の中で最もダイナミックな存在だった。

1965年にメロディ・マエストロズを結成して以来、100枚以上のシングルと12枚以上のアルバムを発表した。彼の音楽は、ナイジェリアのベンデル州(現在はデルタ州とエド州に分割されている)に伝わるビニ族の民謡をベースに、現代的なタッチで融合されたドライビング・ビートであった。

1966年、彼と彼のバンドがフォノグラム・レーベルから3曲のスマッシュ・ヒットをリリースしたのがすべての始まりだった。「Sirri-Sirri」、「Joromi」、「Guitar Boy」の3枚のシングルである。

"GUITAR BOY & MAMYWATER"

ベニンシティの伝説的英雄の物語を題材にした「Joromi」は非常に人気があり、1969年にはウワイフォはナイジェリア、西アフリカ、アフリカとしては初のゴールドディスク賞を獲得した。さらに「Joromi」は鮮やかな布のデザインの1つの名前にもなった。

"JOROMI"

その後ビクターは有名になり、ヌスカ大学の学生たちから”サー”・ビクター・ウワイフォと爵位を授与されて以来、その名は彼と共にある。

メロディ・マエストロズは、これまでに何度も海外公演を行っている。

1966年にダカールで開催されたブラック・アート・フェスティバルにナイジェリア代表として参加し、1969年にはアレグリアン・アート・エキスポ、1970年には日本万国博覧会で演奏している。

"EXPO '70 MALAIKA" ーー来日時の音声かは定かではないが、ラストで「ありがと」など日本語での挨拶が録音されている楽曲。

"OSALOBUA REKPAMA"

私がビクターに初めて会ったのは1975年、ブラック・ベル(=Black Bell)からリリースされたビクターのアルバム『Laugh and Cry』にハーモニカで参加し、そのトラックを録音していた時だ。その年のクリスマスに私はベニンシティで彼と合流し、彼のグループとナイジェリアの東部をツアーした。

ベニンシティでは、町外れにあるビクターのホテルに滞在した。このホテルは、彼の最初の大ヒット曲の名前から「Joromi Hotel」と呼ばれていた。

バンドは、彼が街の中心部に新しくオープンしたエアコン付きのナイトクラブ「CLUB400」を拠点にしていた。

彼らの典型的なライブは、10人のメロディ・マエストロズがソウルやポップスのナンバーでウォームアップするところから始まる。そしてビクターが登場し、彼がデザインした華やかな衣装を着て演奏を始める。

ビクターは踊りながら歌い、フルートやオルガンなど、さまざまな楽器を演奏するのだが、彼はその楽器をなんとあごで弾く。しかし、彼のメイン楽器はギターであり、その腕前はまさに魔法使いだ。「Joromi」のソロでは全ての人を魅了する。

演奏中、ビクターのバックには小人のミュージシャンが2人いて、クリップとマラカスを演奏している。2人はステージを行ったり来たり、ビクターの足の間をすり抜けたりしている。そのうちの一人、故キング・パゴは、1950年代にラゴスの有名なボビー・ベンソンのダンス・バンドに在籍していた。

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ビクターは1941年、ベニン王国の古都ベニンシティに生まれた。家族全員が音楽家で、彼はギターに興味を持つようになった。

「下町のパームワインのギタリストのところによく出入りしていたんだ。ベニンシティのギタリストの中で一番有名だったのは、第二次世界大戦の兵士だったウィー・ウィー(=We-We)だった。それで、弦は高張力ワイヤー、フレットは自転車のスポークを使った粗末なギターを自分で作ってみたんだ。町のギタリストのひとりにチューニングを教えてくれと頼んだら、パームワインの水差しを買ってくれないと教えないと言われたよ」

父親がアコーディオン奏者にもかかわらず、ビクターがギターを弾くというのは、酔っぱらいを連想させるという理由で父親は嫌がった。

「自作のギターはとても見劣りするので自分でギターを買うことにした。しかし、父にどう言えばいいのかわからないし、父も納得しない。それでも、1ギニーを稼いで、中古のギターを買ったんだ。私がそれを弾いているのを初めて見た父は、ギターを取り上げて壊すぞと脅した。しかし、母がそれを助けてくれた」

ビクターが最初に作った音はアクウェテ・ビート(=Akwete Beat)で、最初の3枚のシングルはこのリズムがベースになっている。 色を使って音符を表現したのは、美術の知識があったからだと、彼は説明する。

「美術学校で、音の中に色があること、色の中に音があることに気付いたんだよ。”ド”は黒、”レ”は赤、”ミ”は青、”ファ”は緑と、音符を移し替えることができた。ニュートラルな色と音である "ソ "は白、"ラ "は黄色、"シ"は紫になった。しかし、ナイジェリア東部の手織り布「アクウェテ」の色に置き換えたとき、そのすべてが変わったんだ。とても美しい布で、異なる色が繰り返し出てきて、色彩の動くリズムが生まれた。これを解釈した時、アクウェテの音になったんだ」

1960年代後半になると、このアクウェテのビートにポップスの影響を融合させるようになった。

「アクウェテとツイストを融合させて”シャドウ”(=Shadow)を開発した。 シャドウは1年続き、LPも作ったけど、ソウルがやって来て、ファンが興味を失い始めたのでそのギャップを埋める必要があったんだ。自分の音だけでなく、ソウルに近いリズムを作る必要があった。それが”ムタバ”(=Mutaba)だった」

"DREAMING OF YOU (SHADOW / ENGLISH)" 


"TAKE THIS MESSAGE TO MY DARLING (MU-TA-BA / ENGLISH)"

ビクターが現代的な影響を大きく受けていることを非難する批評家もいるが、ビクターはこう反論した。

「私の音楽の基礎は、ビートと歌詞に示されるように非常に文化的なものであることを彼らは見逃している。そうでなければ、歴史家がパーカーのペンと紙のような近代的な道具(今ならばPCだろうか)を使って古代の歴史を書くのは茶番だと主張するのと同じことだ。彼らが歴史を書くために使う道具は、その本の事実と日付を変えることはない。 アフリカの古代文化には実験と進化があり、私の音楽もその例外ではない」

ビクターは自分の音楽の多くを、エカッサ(=Ekassa)のようなベニンシティの純粋なリズムをベースにしている。

"DO LELEZI (EKASSA)"

"SIMINI SIMINI (EKASSA RAP 91)"

「これは新しい王の戴冠式で行われる王室のダンスだった。王が生きている間に”エカッサ”を聞くのは忌まわしいことだという人もいたが、最初の曲が見事にヒットし、他の曲も続いたので、私は気にしなかった」

“ササコッサ”(=Sasakossa)も、トランジションに基づくビクターのスタイル
の一つであった。

"OMINIGIE (SASAKOSSA)"

「その昔、ベニン王国が圧倒された時期があった。イギリスの王がアフリカに探検家を送り、ベニンの王と交易をしたときのことだ。しかし、王様は大事なお祭りがあるので、イギリス人に謁見はさせないと言った。だが、彼らはどうしても来ようとしたので阻止され殺された。何人かはイングランドに逃げ、そこで増援を受け、復讐のために戻ってきた。その時、ベニンはほぼ完全に破壊され、オバ(王)は身を隠した。王にはササコッサという従者がいて、危険が迫ったとき、隠れていては危険だと警告するために、流行りの歌い方で歌っていたそうだ。そこで、ササコッサのリズムをとった」

ビクターは長くじっとしていることができず、その後、レゲエとベニンシティの力強いビートを組み合わせて実験するようになった。ビクターは、新旧の音楽を融合させる天才であり、彼独自のユニークな才能を発揮している。

"FIVE DAYS A WEEK LOVE (REGGAE)"

"HOLD YOUR ROMEO"

1980年代には、ナイジェリアで最初の個人所有のテレビスタジオを設立し、彼はナイジェリアのテレビで30分番組を制作していた。
1983年にはナイジェリアの国民栄誉賞をミュージシャンとしては初めて受賞し、マイティ・スパロウから祝福のメッセージを受けている。

彼の趣味は水泳とボディビルディング、ゲーム、読書、執筆など多岐に渡り、クリスチャンでもあった。ベニンシティの大学で応用芸術学部の講師もしていた。

2021年8月28日彼は亡くなった。80歳だった。
これからも語り継がれてゆくだろう功績を残したナイジェリア・ベニンシティの偉大なアーティストのご冥福を心よりお祈りします。

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