第9章 E.T.メンサー / ダンスバンド・ハイライフの王様
E.T.メンサー、またはE.T.(=Emmanuel Tettey)として知られる彼は、1919年にガーナの首都アクラで生まれた。
かつて、ダンス・バンド・スタイルで演奏された、都会的でモダンなハイライフを開拓したのは彼のバンド、テンポスである。
E.T.メンサーは、小さな男の子のフルート奏者として、アクラ・オーケストラに参加したことで音楽的キャリアが始まった。 アクラ・オーケストラは、スクールボーイ・バンドをもとに、1930年頃にティーチャー・ランプティによって結成された。
ジェームズ・タウン小学校の校長だったランプティは、1920年代初頭に結成されたガーナで最初のダンス・オーケストラのひとつ、ザ・ジャズ・キングスのメンバーだった。しかし、戦前で最も有名なオーケストラとなったのは、彼のアクラ・オーケストラで、メンサー、ジョー・ケリー、トミー・グリップマンなど、後にガーナのトップ・ミュージシャンとなる者の多くがそこで演奏した。
その後、メンサーと彼の兄であるイエブアは、彼ら独自のアクラ・リズミック・オーケストラを結成する。1939年にキング・ジョージ・メモリアル・ホール(現在の国会議事堂)で行われた"ラムベス・ウォーク・ダンス・コンペティション"にて、賞を獲得している。
イエブア・メンサーは、”ハイライフ”という名称の由来について、以下のコメントを残している。
「1920年代前半、私が幼年期の頃だ。”ハイライフ”という名称は、ロジャー・クラブ(1904年に建てられた)のようなダンス・クラブの周りに、クラブの中で楽しんでいるカップルを見るために集まっていた人々によって作られた。”ハイライフ”は、ジャズ・キングス、ケープ・コースト・シュガー・ベイビーズ、セコンディ・ナンシャマン、少し後には、アクラ・オーケストラなどのバンドによってこのクラブで演奏されていた、特定の曲のキャッチ・ネームとして始まった。クラブに入って楽しむためには、比較的高い入場料を払わなければならなかったし、おまけにシルクハットを含む、フル・イブニング・ドレスを着なければならず、周りで見ていた彼らにはそんな余裕はなかったし、中に入る"ハイクラス"のカップルにはとてもじゃないけどついていけなかった。だから彼らは、中で演奏されている曲を”ハイライフ=ハイクラスの連中の為の曲”と呼んだのさ」
アメリカとイギリスの軍隊が駐留していた第二次世界大戦中には、ハイクラスなダンス・オーケストラが彼らに囲われた。駐留していた彼らは、ジャズとスウィングをもたらし、ナイトクラブでは、”カラマズー”、”ハバナでの週末”、そして”ニューヨーク・バー”と言った名前のパーティーが開催され、進駐軍の彼らはダンス・コンボを結成し、地元のミュージシャンを交えてプレイした。
最初のコンボは、レオパルド軍曹によって結成された、ブラック・アンド・ホワイト・スポッツだった。メンサーは、1940年に兄のオーケストラを去り、レオパルドのジャズ・コンボにサックス奏者として参加している。
スコットランド人のレオパルド軍曹は、イギリスにおいてはプロのサックス奏者だった。メンサーによれば、ジャズのテクニックを教えてくれたのはこのレオパルドだったと言う。
「イントネーション、ビブラート、タンギング、そしてブレス・コントロールの正しい方法を私たちに教えてくれたのはレオパルド軍曹だった。彼のおかげで、私たちの技術は町の平均的な基準を超えたものになったんだ」
戦後、メンサーはガーナ人のピアニスト、アドルフ・ドクとイギリス人エンジニアのアーサー・ハリマンによって結成されたテンポスに加わった。結成当初、バンドは何人かの白人兵士を巻き込んでいたが、戦争が終わってヨーロッパ人が母国に去ったとき、バンドは完全にアフリカ人だけとなり、メンサーは最終的にリーダーになった。
それは7人組のバンドで、メンサーがトランペットとサックス、ジョー・ケリーがテナー・サックス、そしてガイ・ウォーレン(コフィ・ガナバとしても知られている)がドラムだった。
ガイ・ウォーレンはイギリス留学していて、アフロ・キューバンとカリプソを演奏していた為に、バンドに重要な貢献をした。おかげで、テンポスはジャズのタッチで演奏しただけでなく、カリプソをレパートリーに組み入れ、ボンゴとマラカスをラインナップに追加することができた。
“テンポス・スタイル”となったその独自のハイライフは大流行することとなる。
1950年代初頭までにバンドは西アフリカをツアーし、英国のDeccaにてレコーディングを開始した。薬剤師が本業だったメンサーは、これによって完全にプロフェッショナルのミュージシャンになることができた。
1950年代、メンサーが西アフリカの至る所で”ハイライフの王様”と称賛されたのは、西アフリカ郊外の農村地域ではパームワイン・スタイルのハイライフが人気であったにもかかわらず、ボールルーム・ミュージックと植民地時代のオーケストラが都会のダンス・シーンでは人気だったためだ。
ナイジェリアでは、コンコーマやジュジュのようなミュージックや、昔ながらのパームワイン・ミュージックは、田園地帯や、都会の中でもロウ・クラスのナイト・スポットで演奏されていた。
一方で、ハイ・クラスのナイトクラブでは、ボビー・ベンソン、サミー・アクパボット、エンパイア・ホテル・バンドのようなダンス・バンドが人気で、スウィング・ジャズとボールルーム・ミュージックのみが演奏されていた。しかしメンサー達のテンポス・スタイルのハイライフはすぐに彼らに影響を与え始め、ヴィクター・オライヤ、エディー・オクタ、E.C.アリンゼ、レックス・ローソン、チャールズ・イウェブエ、ヴィクター・チュクウ、チーフ・ビリー・フライデー、インニャン・ヘンショウ、キング・ケニートーン、そして、ロイ・シカゴのような、まったく新しい世代のナイジェリアのダンス・バンド・ミュージシャンを生み出した。
テンポスは、これらの成熟したナイジェリアのダンス・バンドのミュージシャンだけでなく、若き日のヴィクター・ウワイフォにも影響を与えた。
ヴィクター・ウワイフォはこの物語を裏付ける -
「私はE.T.メンサーと彼のテンポスがベニンシティで演奏する時はいつも観に行っていた。彼らのギタリスト、ディジー・アクアイェに会いに行っていて、いくつかのコードを見て勉強した。私はギターのコードブックを持っていて、そこに書いていたんだけど、コードの図がわからなかった。でも、ディジーが助けてくれたんだ」
ガーナ出身のジョー・ケリー、トミー・グリップマン(後にレッド・スポッツを結成)、サカ・アクアイェ、スパイク・アニャコル(後に自身のバンドを結成)、レイ・エリス、そして最初の女性ヴォーカリストであったジュリアナ・オキネなど、多くのミュージシャンがテンポスの指導を受けては巣立って行った。そこにはナイジェリア出身のジール・オニア、そしてベビーフェイス・ポール・オサマデもいた。
E.T.メンサーのテンポスは、1970年代にE.T.メンサーが引退するまで、ハイライフを広く普及させた。
私が(John Collins)E.T.メンサーの自伝"ハイライフの王様(1986年にOff the Record Pressによって出版された)"を書いたとき、アクラのダウンタウン、ジェームズ・タウンにあるテンプルハウスに住んでいた(1974-1979頃)。
メンサーは何度も私を訪ねて来たが、彼は家の裏側にあった古いテニス・コート(今は工場だが)で開かれていたコンサートで、少年の時にシルクハットとテールで着飾った「大人」へ演奏する為に、ティーチャー・ランプティのアクラ・オーケストラと一緒に来たことがあったことを思い出した。
奇妙なことにパーカッション奏者のコフィ・アイヴァーも1960年代ここに住んでいた。そして私が去った後、クリス・ベディアコ(ア・バンド・ネームド・ベディアコとサード・アイ・グループのリーダー。後にヴィザヴィにもキーボディストとして参加)は、このアパートに引っ越してきた。だから、この家は不思議なくらい、音楽と強いつながりがあったのである。
家は、前述のコンサートを後援したトーマス・ハットン・ミルズというガーナの弁護士によって1900年頃に建てられた。
彼の娘のバイオレットは、素晴らしいクラシック・ピアニストだったが、父の秘書になるために、渋々プロの音楽的キャリアをあきらめなければならなかった。
彼女は1971年に亡くなり、私に家の歴史を教えてくれたのは、彼女の義理の息子と娘、トムとバルビル・ウィタッカーで、彼らは私の家主だった。音楽的遺産のために、彼らは私のボクール・バンドが家でリハーサルすることを決して咎めなかった。
悲しいことに、E.T.メンサーは、長い病気の後、1996年7月に亡くなった。
続く