第10章 ザ・テンポス・バンドの西アフリカ・ツアー / 後編
●↓↓↓前編・ナイジェリア〜シエラレオネまで↓↓↓
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●ギニア
テンポスはギニアで新年を過ごす為に出発した。道がかなり荒れていたので、メンバーのうちの2人はコナクリ(=Conakry。ギニアの首都)まで飛行機で向かい、残りは車で向かうことになった。
飛行機組の2人、ダン・アクアイエとアレックス・マーティーが最初にギニアの空港に到着した。
ダンはその時の話を取り上げる。
「アレックスは少しフランス語が話せたから、彼は空港の男性に『私たちはミュージシャンだ』と国際的な言葉で伝えたんだ。するとその男性は、タクシーで私たちをレストランへ連れて行った。レストランの店長は、国会議員長官と情報大臣に電話をかけ、オレたちが保護されるべきであるという指示を出した。それから彼が、オレたちをギニアに出来たばかりのガーナ大使館に連れて行くと、そこには国務大臣だった故ウェルベックと国会議員のE・K・ダドソンがいた」
「彼らは、オレたちが適切な手続きや予告もなしに、ギニア・ガーナ連合を利用したと考えて、オレたちを責め立てた。それに対して、オレたちはいつも予告なんかしなかったし、それらはいつでもメンサーを頼っていたから詳しいことは分からない、と彼に説明した。 セク・トゥーレ(=Sekou Toure。ギニアの初代大統領)は知られていたから、オレはこれが彼公認の公式の訪問だと重ねて彼らに言ったんだ」
「ウェルベックが、オレたちは(今夜)どこで寝るんだ?と尋ねたから、オレは『自分の神の家を占領する犬よりも、邪悪なテントの中に住むくらいなら、ベランダで寝る』と彼に言ってやったんだ。実際のところ、彼が我々に対してとった行動は、オレたちをハナっからまるで悪党かのように扱い、ギニアに何しに来ているのか、ほとんど理解しようともしなかったんだからね」
「彼らはオレたちを寝かせるために軍事キャンプに連れて行ったが、途中でメンサーの乗ったステーション・ワゴンを見かけた。オレはウェルベックに止まるように言い、メンサーは彼にツアーに関する書類と電報を見せた。これはウェルベックたちを満足させるように思われた。そして、我々は皆、セク・トゥーレの指示で、最初の夜のためにホテル・ドゥ・フランス(=Hotel De France)に連れて行かれたのさ」
メンサーが物語を続ける:
「私たちが最初に国境に着いたとき、彼らはガーナからの人々がそのように来たのを見たことがなかったので、とても歓待された。スウィッシュ(ラテライト)道路はそれほど良くなくて、サバンナを通過していたが、コナクリから約60マイルに到達したときに、ファースト・クラスの道路が見つかった。当時は既に暗くなっていたけれど、町から6マイルのところにはたくさんの明かりもあった。幸いにも、私たちは飛行機組の2人に会うことが出来たんだ」
「当時ギニアでは、ウェルベックやダドソンを含む、特定のガーナの大臣が休暇を過ごしていたんだ。彼らは、電話でセク・トゥーレと連絡を取ってくれたギニア人の”大物”の一人である、ドクター・ディアロ・テリ(=Dr.Diall Telli。ギニアの政治家であり、後のアフリカ統一機構の初代事務総長)の家に連れて行ったその夜は非常に優雅なホテル・ドゥ・フランスに泊まる手配をしてくれて、翌日以降は私たちが滞在する為に学校をアレンジしてくれた。彼らはベッドを与えてくれて、さらによく世話もしてくれた。私たちが食事をするところの手配もしてくれて、朝になればレストランへと連れて行ってくれた」
実のところ、テンポスはとても危うい時期にギニアに到着していた。
シャルル・ド・ゴール(当時のフランスの大統領。ギニアはもともとフランスの植民地)による9月の国民投票に対し、ギニアの人々は”ノー”と言って、1958年10月に独立を勝ち取った。しかし、フランス人は撤退する前に、新しい独立国家を破壊しようとするべく、徹底的な妨害を行っていった。
メンサーのコナクリに対する最初の印象は、この事態を反映していたようだ。
「この都市は、フランス語圏の他の西アフリカの都市と同様に一流であったが、独立が認められたとき、フランス人たちは、夜を通して警察と軍からすべての銃を奪って川に投げ捨てた。彼らはまた、すべてのファイルを事務局に持ち込み、それらを焼いてしまった。その為、住民たちは身分証明書がない可能性があった。ギニア人は、まさにそのような状況下に残された。そして、我々は偶然にも、そんな時に到着したのだった。町全体が非常に奇妙だった。人々は無給で街を掃除していて、軍の何人かはやはり無給で、無造作に壊された物を片付けるためにブルドーザーを使っていた」
「クワメ・エンクルマ(=Kwame Nkrumah。ガーナの初代大統領)が、彼らに融資をしたと聞くまで、彼らは自己犠牲的な仕事をしていたんだ。彼らがそのフレッシュなお金を手に入れたとき、ちょうど私たちはそこにいた。このため、セク・トゥーレが個人的に、我々に33,000フラン(約55ポンド=当時)をくれたんだ」
「我々が港に行ったとき、全体の場所でただ1つだけバナナの束を見ることしか出来なかったので、我々は非常に落胆した。中では何のあてもなく労働者が歩き回っていた。事務局の人々は制服を着ていたけれど、仕事がなかったので彼らもまた歩き回っていた。フランス人は、ギニア人をある程度まで教育し、それから彼らが引き継ぐことができる方法で、彼らに様々なことを引き渡すことにおいて、全く協力的ではなかった。彼らはギニアが独立を望んでいるのか、それともフランスと共に歩んで行きたいのかを尋ねた。彼らは国民投票を行い、ギニアは独立を選んだ」
「だから、すぐにフランス人はすべてのファイルや銃などを押収した。また、それまでの政府職員のすべての賃金は、毎月ダカールから送られてきていたが、これらは止められ、すべてのフランス人役人は国からいなくなった。フランス人が去ったとき、地元の人々が直ちに色々な仕事を引き継がなければならなかったので、大きな混乱が起こった」
「例えば、空港で主人に仕えていた若い男性は、突然入国管理を引き継がなければならず、やるべきことを知らなかった。我々が到着した時に彼がやっていたことはパスポートを集めることだったが、それぞれに小さなメモが与えられ、3日後にパスポートを取りに戻らなければならなかった。関連文書はすべてフランス人によって捨てられていた。私たちが、ダンとアレックスのパスポートを受け取るために行ったとき、彼はその業務に慣れていなかった為、渡して良いのかためらっているようだった」
ダン・アクアイエのコメントも、同様の流れを示している。
「オレの町の印象は、人々が何か”決心”しているということだった。彼らは無給で何ヶ月も働いていた。 食料は供給されていたが、軍と公務員も給料なしで働いていた。ところが、オレたちは(彼らから)どんな不満の徴候も感じなかったんだ。誰かが盗みをしていれば、盗難の事実は消滅した。それはとても深刻だった。国は丸裸のままで、盗みがあったとしても、持って行った者は破壊者だったのだから」
メンサーとバンドマンは、そのツアーのほとんどを街の見学に費やし、彼らが唯一演奏したのが大晦日だった。
まずは防衛大臣官邸の民間パーティーで、その後、セク・トゥーレが会長を務めていた労働組合が主催する、大きなダンス・パーティーで演奏した。トム・トムはパーティーで酔っぱらっていたため、組合のダンス・パーティーで代表曲をバンドが演奏した時、席から落ちてしまい、ダンが引き継がれなければならなかった。
この出来事がメンサーの逆鱗に触れ、リベリアに着いた時にエドと呼ばれる別のドラマーを連れてきて、トム・トムは運賃を支払ってアクラに送り返されてしまった。
当時のコナクリのポピュラー音楽はチャチャチャ、ボレロ、サンバだった。
しかし、ダンとメンサーは、ナイトクラブでいくつかのヨーロッパのバンドが演奏しているのを見たが、アフリカのミュージシャンとダンス・バンドを見たことを覚えていなかった。
これに関するダンのコメントが残っている。
「オレたちは、白人のミュージシャンがプレイしているのをナイトクラブで見た。ご存知の通り、ギニアとこれらのフランス領だった西アフリカ諸国は、白人と混在していた。コートジボワールのフットボール・チームが、ガーナでプレーした時、君は白人のサッカー選手だけを見ると思うかい? ノーだ。黒人と白人が混在していた。君がアビジャンに行くとき、黒人だけがバスやタクシーを運転するのを見るとは思わないだろう?彼らはフランスの音楽をプレイしていた、だからオレたちは白人のバンドだと思ったんだ」
●リベリア
テンポスは到着した方法でシエラレオネに戻り、旅客線でリベリアに連れて行くための手配をしながら1週間ほど再びフリータウンに滞在した。
その後、モンロビア(=Monrovia。リベリアの首都)に到着すると、彼らはナイトクラブを所有していたメンサーの古い学校の友人、アイ・マッカーシーの元へと直行した。彼はバンドを推し上げて、町のクラブで稼がせてくれたのだった。
メンサーによる、モンロビアとフリータウンの印象の比較はなかなか興味深い。
「モンロヴィアの町はフリータウンに似ていて、木と亜鉛でできた家が建ち並んでいた。多くの道は荒れていて、雨が降ったら水が下に落ちるように、家の中には石が敷かれていた。モンロビア郊外には裕福な人々が住む姉妹の町があった。フリータウンでは、裕福な人々はフリータウンの中に住んでいた。モンロビアの生活費は非常に高く、彼らはそこに非常に豊かな人々を抱えていたんだ。貧しい男性でも自由に動けるように、モンロビアでのクラスの格差はお金だけに基づいていた」
「しかし、フリータウンでは、クラスの格差は違った。あそこでは、ハイクラスの連中が、それ以下のクラスを見下していて、一緒にされたくないと思っていたんだ。リッチな連中はモンロビアにファーストクラスのナイトクラブを持っていたんだけど、バンドはなかった。スウィングやジャズなどの音楽は、ハイファイ・アンプを使ってレコードで流されていたんだ。」
メンサーが指摘するように、リベリアのポピュラーな音楽はアメリカのものだったが、アメリカン・リベリアンの中のエリートには、”クワドリール(=Quadrille)”と呼ばれる彼ら自身のダンスがあった。
これはもともとアメリカ南部からリベリアにもたらされたクレオール音楽であり、テンポスがモンロビアにいた時、彼らはそれを演奏することを学んだ。
彼らは6週間滞在した。出発する前に彼らは、タブマン大統領が出席していた祭典でプレイした。タブマンは次の大統領の就任式のために、テンポスを招待すると、バンドの面々に言った。テンポスは旅客船でアクラに戻り、到着時にタブマンから次の電報を受け取った。
「あなたとあなたのバンドが無事にアクラに到着したことを嬉しく思う。私たちはあなたのバンドのメロディ、リズム、テンポを楽しんだ。この電報はあなたとあなたのバンドの就任式への招待状でもある」
1年後、メンサーとテンポスは、タブマンの第2期の就任式のために再びリベリアを訪れた。今回は、リベリア政府がバンドに3階建ての家を提供し、無料の食事も提供したので、彼らにとって物事はとても快適だった。
実際、お金にも困らず、物事は全て素晴らしく、セレモニーが終わったずっと後も含めて、バンドは3ヶ月間滞在した。
タブマン大統領はリベリアで巨大な権力を持ち、彼のそのパターナリズムな統治方法はよく知られていた。
メンサーはこれについてコメントしている、
「タブマンは、通常は大臣や幹部などがするべきであるような仕事も全てこなしていた。もしあなたが、大きな祭典のために椅子を借りたいのなら、タブマンに会いに行き、彼の大邸宅から椅子を借りることができるだろう。私達の場合は、私達の車が修理できそうもなくなっていたので、別のものが必要だった。すると、大統領に会いに官邸に行くように言われたので、私たちはそこへ行き、彼の秘書に会い、タブマンに会うための待合室で座っているように言われた」
「そこでは、何らかの個人的な事柄のために大統領に会いたがっている、あらゆる種類の人々に会うことが出来た。そしてタブマンは、彼らに何をすべきかを伝える。夫や家庭のことで問題を抱えていた老婦人もそこにいた。彼らは、タブマンに会うことで解決すると信じて問題を持ち込み、タブマンは一つ一つそれらに対応していたんだ。彼の言葉は法律だった」
「私の問題は、使う車が欲しいということだった。それを聞いた彼は、まだ誰も使っていない、真新しい車でいっぱいのコンパウンドに私を連れて行き、車を選ぶように言ったんだ。私はその中の一台を選び、それを運転して帰った」
「ガーナに向けて出発しようと言う時に、また別の事件が発生し、困難が出てきてしまった。旅客船が通過していないため、貨物船しかなかったんだ。貨物船には、乗客用の場所がほんの少ししかなかったため、私たちのバンドメンバーと、楽器、車を持ち帰りたかったんだけど、それが不可能に思えた。そこで、我々はタブマンに会いに行った。すると、彼はどうにかして私達全員がガーナに帰れるようにと、通過していた貨物船のうちの1つを、乗客用として行けるように甲板の上を個人的に修理してくれたのさ」
西アフリカでのツアーにおけるこれらの説明は、西アフリカのフランス語圏と英語圏の中の違いをとても多く引き出している。
1955年の2週間のアビジャン・ツアーに関するメンサーのコメントは、これらの違いのいくつかを浮き彫りにしている。
「フランス人はこの国(コートジボワール)を、自分たちのものとして扱っていたから、ヨーロッパ人のタクシーやバスの運転手をよく見かけたね。市場には白人と黒人の肉屋がいた。街を黒人だけに占有させないようにと、常に最新の状態にしていたようだった。フランス人らはナイトクラブを経営し、ヨーロッパのミュージシャンや俳優を輸入していた。クラブでは黒人より、白人を多く見かけたね。白人たちはナイトクラブの生活に余裕があるだろうと思った。白人のバンドは、ボレロ、チャチャ、タンゴ、それからフランスの音楽を演奏していたよ私たちがハイライフをプレイすると、ほんの数人のガーナ人だけが立ち上がって踊った。ツアーの終わりまでには、何人かの白人もそれに追いつくようになっていたみたいだったけど」
「1955年に行ったとき、アフリカのダンスバンドさえ見たことがなかったんだ。実際には、クージと呼ばれてた一人の黒人のコートジボアールのトランペット奏者が、私たちの家までついてきた。アクラに到着したとき、彼が私たちを待っているのを見つけた。彼は音楽を勉強したいと言った。それで私は彼を雇い、養い、そして、私の所有していたパラマウント・ナイト・クラブで店員になるように進めた。彼は私の下でトランペットを研究し、1957年に私のクラブが閉鎖されたとき、アビジャンに戻ってアフリカのミュージシャンと一緒に、新しく結成されたバンドに加わった」
メンサーはそれからフランス領全般についてコメントを続ける。
「イギリス側では、アフリカ人は社会的にはるかに先を行っていた。しかし、フランス領では、はるか上のエリートに少数の黒人がいるだけだった。1955年にアビジャンで、私たちはウフェ・ボワニ(=Houphouet Boigny。コートジボワール、旧アイボリー・コーストの初代大統領)が所有する大邸宅を見せられた。それは13階建の高さで、それぐらい高い建物を見たのは初めてだった。少数の黒人は非常に金持ちだったけど、大多数はイギリス側のアフリカ人の社会的基準をはるかに下回っていたんだよね」
「フランス人は黒人を社会的に支配していて、白人がすべてを支配していたので、それは音楽にも影響を及ぼした。彼らはパリから来た白人のミュージシャンを持っていたけど、アフリカのミュージシャンはフランスの標準に達していなかった。だからアフリカからのダンス・ミュージックの影響はとても小さかった。ギニアでは、アフリカのダンス・バンドのリーダーの一人と出会ったと思うけど、そこでも白人のバンド、通常はピアノ、ヴァイオリン、ドラムの小さなトリオをよく見かけたな。フランスの領における社会的、音楽的両方の発展は、主に独立以後に起こっていて、今や、彼らは(イギリス側)に追いつきたいと考えてると思う」
メンサーが、フランス領のアフリカ人の音楽が、フランスの標準より小さいか、あるいは標準以下であると言った時、彼は先住民のダンス・ミュージックについてではなく、西欧タイプのダンス・ミュージックについてだけ、言及していることを指摘しておかなければならないだろう。
当時のフランスの植民地では、先住民の音楽と都会の音楽の間には明確な境界があり、後者が白人によって支配されていたようだ。ただし、タンゴ、サンバ、チャチャなど、これらのフランスのバンドが演奏するダンス・ミュージックの多くは、実際のところ、部分的にはアフリカの音楽から派生したものであることを考えると、なんとも興味深い話でもある。
英語圏の西アフリカ(リベリアを含む)では、異なる種類の景色が登場した。この場合、西欧化されたアフリカの音楽と、それらを演奏するバンドはかなり早くから現れていたのである。
例えば、ガーナやシエラレオネのハイライフ、ナイジェリア西部のジュジュ、そしてリベリアのクルによるギター音楽などである。
しかし、1950年代までには、西欧化されたアフリカのダンス・ミュージックも、フランス領やベルギー領のコンゴで出現し始めた。この”コンゴ”音楽は、瞬く間にフランス領の西アフリカに広がり、メンサーはこの音楽が1957年に初めてライブで演奏されていたのを覚えていた。それを演奏していたグループは、ロメ(=Lome。トーゴの首都)から来たメロ・トーゴだった。
1950年代後半までに、コンゴのレコードがガーナで登場していたが、ガーナでこのスタイルを演奏した最初のバンドは、ダホメ(=Dahomey。現在のベナン共和国)のミュージシャン、イグナス・デ・スーザがリーダーシップをとっていたシャンブロスであった。
ーこの章は了。 続く。