第10章 ザ・テンポス・バンドの西アフリカ・ツアー / 前編

-THE TEMPOS TRAVELS IN WEST AFRICA

この章では、私はE.T.メンサーと彼のテンポス・バンドの西アフリカ周辺の広範囲なツアーについて扱いたいと思う。

●ナイジェリア

 彼が最も頻繁に訪れた国はナイジェリアで、テンポスの最初のツアーは1950年のラゴスでの1週間だった。

 その時は、ジョー・ケリーとガイ・ウォーレンがバンドにいた。

 次のツアーは、トミー・グリップマンが去った直後の1953年で、バンドはスパイク・アニャコルを入れて再編成された。バンド全員がラゴスに行き、2週間ほどボビー・ベンソンの兄の家に滞在した。しかしその後、ガーナに直帰するのではなく、急遽変更が行われ、バンドはイバダン(=Ibadan。ナイジェリアの南西部に位置する都市)と中西部の州(ウォーリ州=Warriとサペレ=Sapele)に行くことになった。

この2週間の滞在期間の延長は、帰れると思っていたバンドマンたちにいくらかのストレスを引き起こしたそうだ。

ボーカリストのダン・アクアイエが当時を思い出す。

「オレ達の何人かは、帰りたいと思っていたのに事前に相談がされなかったことに気分が悪くなった。その理由は主に食事で、ケンキー(発酵させてから調理したトウモロコシの生地)のようなアクラの食べ物がなかったから、オレたちは(アクラに)戻って自分たちのスープを楽しむことができる日を切望していたんだ。だから、オレたちは抗議し、それ以降は市場で自分たちの食べ物を買って、自分たちで料理をすることにしたんだ 。 それからはだいぶマシになったよ」

 バンドはその年のうちにナイジェリアに戻ると、今度は3ヶ月ほど、エヌグ、オニシャ、ポートハーコート、カラバルなど、当時の東部方面もカバーするツアーを行った。

 メンサーは、これら両方のツアーで、彼のバンドがとてつもなく歓迎されていることに気付いた。

 その理由は、ハイライフがレコードを通じて人気を博し始めていたにもかかわらず、ナイジェリアにはまだ、テンポスのようなタイプの音楽を演奏するダンス・バンドが存在しなかったためだった。

 この時から、テンポスは定期的にナイジェリアへのツアーを始め、年に1、2回、ステーション・ワゴンを走らせながら、ナイジェリアから、トーゴのロメ、ダホメ(現在のベナン共和国)のコトヌーとポルトノボまでを行き来することとなった。

 ナイジェリアの入国管理法を侵害することなく国内で過ごすことができる時間には、90日間の制限があったので、彼らは一度に3ヶ月ギリギリまで滞在した。

 ミュージシャンは皆一様に受け取った報酬に満足していたが、これらのツアーはメンサーにとっても、非常に経済的に成功したことが証明された。実際、ガーナにはバンドが活動していく価値のあるものにするための、十分な働き口がなかったので、バンドが1953年にプロになることを可能にしたのは、これらのナイジェリアのツアーのおかげだったのである。

 これらのツアーは、頻度が多かった為、メンサーは彼がいない間に家を管理するべく、1954年に第二のバンド、スター・ロケッツを結成したりもした。

 当時、ナイジェリアのサミー・アクパボット・バンドや、ボビー・ベンソン・バンドなどのダンスバンドは、ほとんどがスウィング・ジャズとボールルーム・ミュージックを演奏していた。ナイジェリアのギター・バンドによって作られ、西欧化された民族的ないくつかの音楽は、ハイライフとどこかしら似ていて、例えば、ヨルバ・ジュジュ・ミュージックみたいな音楽もあったが、当時は立派な都会のナイトクラブやホテルでは演奏されたことはなかった。

 1950年代半ばまでには、ナイジェリアでのテンポスの継続的なツアーが、ナイジェリアのダンス・オーケストラにも影響を与え始め、彼らはレパートリーにハイライフを取り入れ始めた。

 もともとボビー・ベンソン・バンドのトランペット奏者だったビクター・オライヤは、彼のバンド、クール・キャッツを結成し、ハイライフを演奏した最初のナイジェリアのミュージシャンの一人となった。また、以前はボビー・ベンソン・バンドに参加していたエディー・オクンタも、リド・バンドを結成しそれに続いた。

 レックス・ローソンとE.C.アリンゼはどちらもエンパイア・バンドを離れ、独自のバンドを結成した。事実、レックス・ローソンは彼の代表曲としてE.T.メンサーのナンバーのうちの1つを演奏していたし、テンポスのボーカリストであるダン・アクアイエは彼のアイドルだった。

 時折、ナイジェリアの音楽家は授業の為にテンポスの元にやって来たといい、ダンはその時のことを覚えていた。

「エンパイア・バンドを率いていたアグ・ノリスは、いつも私達のところへ来て、トランペットをメンサーからレッスンしてもらっていたよ。それから、ベニンシティの、当時少年だったヴィクター・ウワイフォは、ディジー・アクアイエがギターを教えてた。ディジーは、楽器の梱包や掃除を手伝ってもいたね」

 しかし、テンポスとナイジェリアのダンス・バンドの関係は、完全に一方通行ではなく、ナイジェリアのバンドが独自のハイライフを書き始めたとき、メンサーはそれらのいくつかをガーナに持ち込んだ。例えば、ヨルバ・ハイライフの”Nike Nike”と”Okamo”を。

テンポスはナイジェリアのダンス・バンドに多大な影響を与え、そこに多くの友人を作ったが、それらはすべてが単純な航海ではなかった。この文脈では、ダン・アクアイエをもう一度引用する価値がある。

「レコードを作ったら、レコーディングの後で、オレたちはしばしば歌を改良して、それをより良く歌った。プロフェッショナルとして当然のことだと思っていた。ところが、ナイジェリアの聴衆はあまりそれが好きではなかったみたいだったんだ。彼らは、オレたちがレコーディングでミスをした場所では、パフォーマンスでも同じミスをすると思っていたんだよ。
ナイジェリアのミュージシャンたちの中には、オレたちがナイジェリアの市場を独占し、すべてのファンがオレたちをフォローしてくれてたことを、非常に妬んでいた連中もいた。彼ら(ミュージシャン)は、オレたちがハイライフを演奏することしかできないと言っていて、人々の関心をオレたちそらすことを望んでいたみたいだったね」

「一度、オレたちがプレイしていた時、一人の男がフロアから、何人かの連中(ミュージシャン)が、"あいつらはウェスタン・ナンバー(西洋のスタンダード・ナンバー)をプレイすることができないから、ハイライフをプレイさせるな"と、提案して来てると言った。この男は、これを提案してきたミュージシャンに悩まされていて、オレたちがあらゆるタイプの音楽を演奏できることを観客に見せてほしいと言ってきた。だからオレは "Unchained Melody"と "Answer Me"を歌ってやったんだ。すると、観客たちはとても感動していた。この時点で、その男は立ち上がって、"どうだ!?何人かのナイジェリア人はハイライフしか演奏できないと言っていたが、彼らはスタンダード・ナンバーも演奏できるじゃないか!!"と叫んだ。その男は公に、そのミュージシャンたちを、辱めようとしていたみたいだったね」

「1958年のラゴスでの別の事件は(西アフリカのグランド・ツアー中)、ナイジェリアのミュージシャン・ユニオンの役員が、オレたちが演奏しようとしていた場所に駆けつけたときだった。そこには隊列があり、それらは実際にオレたちがプレイすることを阻止した。役員の一人がガーナ出身で、当時は北軍の執行委員会にあったことをオレは覚えてる。彼はラゴスにあるアンバサダー・ホテル付きのビル・フライデーズ・バンドのメンバーでもあった。最初、ボビー・ベンソンは彼らと一緒ではなかったが、後で彼らと一緒になった。オレたちがそのツアーでプレーするのを完全に止めたわけではなかったけど、それは彼らの憤りを示す方法だった」

事実、ボビー・ベンソンは、ナイジェリアのミュージシャン・ユニオンのリーダーであり、テンポスの長年の友人でもあったが、彼でさえ、テンポスをナイジェリアから遠ざけるような裁定を、ユニオンが下すことを妨ぐことはできなかった。その結果、1958年以降、バンドはナイジェリアへの定期ツアーを中止しなければならなくなり、ラゴス大学の学生の招待で1964年に訪れた時を除いては、二度とそこに行くことはなかった。

 ナイジェリアでのテンポスは、地元のダンス・バンドとの競争が激しくなったため、また、これらのツアーからの収益が減少したため、何年にも渡って物事がより困難になっていた。 メンサーはそれをよく覚えていた。

「私は経済的な困難に陥ってしまった。最初の頃にナイジェリアに行った時、バーのオーナーは利益の3分の1でその場所を提供してくれていた。しかし、最後の方に行ったときの条件は、全てが所有者の利益に変わった。物事は厳しさを増していった」

 テンポスがこれまでに西アフリカで行った最も大規模なツアーは、1958年10月から1959年2月にかけて行われた”グランド・ツアー”だった。9人組のバンドは、最初に彼らのモリス・ステーション・ワゴンでナイジェリアに旅立った。

 当時のバンドはメンサーと彼の2人のボーカリスト、クリスティアーナとダン・アクアイエで構成されていた。他には、ジョー・ランスフォード、トム・トム、ディジー・アクアイエ、そしてレックス・オフォスに、トロンボーンのA.P.メンサーとコンガのアレックス・マーティーの2人が新たにバンドに加わった。

彼らはラゴスで3週間滞在し、多くの主要なナイトクラブ、リド(=The Lodo)、アンバサダー(=Ambassador)、ラゴス・アーケード(=Lagos Arcade)、シェ・ピーターズ(=Chez Peter’s)、サボイ・ホテル(=Savoy Hotel)、そしてカバン・バンブー(=Caban Bamboo。ボビー・ベンソン所有のクラブ)でプレイした。 ナイジェリアのミュージシャン・ユニオンとトラブルが起こったのはこのツアー中だった。

●シエラレオネ

 ラゴスから、バンドはシエラレオネの首都であるフリータウンまでボート(旅客船)で行き、最初はホテルを見つけるのに苦労した。幸いなことに、彼らは町の郊外の軍の住宅街であるジュバ(=Juba)でナイトクラブを所有していたレバノン人の男性と出会った。彼はバンドの滞在用に家全体を提供し、バンドは毎週末、彼のクラブでプレイした。

 バンドは、プライベート・パーティーでシエラレオネの首相ドクター・マルガイに会い、彼らはマルガイの娘の一人と結婚していた仲間のガーナ人、ジャッジ・オーケイにも会った。

 このパーティーでフリー・コンサートのアイデアが提案され、これは後にビクトリア・パークで行われるように、フリータウン市議会によってオーガナイズされた。

 当日の昼間、フリータウンのほぼ全ての人々が、パビリオンの下でプレイしていたバンドの元に詰めかけた。バンドが十分に強力なアンプを持っていなかったので、群衆はテンポス目掛けて前方に殺到した。しばらくして、彼らは演奏をやめることを余儀なくされたが、ショウが終わる頃には誰もがそれが大成功であったことに同意していた。

 バンドはフリータウンに約6週間滞在したが、その中には、ボー(=Bo。シエラレオネ第2の都市)とケネマ(=Kenema。シエラレオネ第3の都市)への短いツアーと、1週間ほどのギニア訪問が含まれている。

 メンサーのシエラレオネとギニアに対する印象は鮮やかである。彼は特に、フリータウンの町自体に”くらった”みたいだった。

「フリータウンの家は、木と亜鉛でできていたので、錆びた屋根がたくさん見えた。スラム街や貧民街のように、私の目には特有のものに映った。まったくもって印象的な場所ではなかった。しかし、住宅街のジュバでは、アクラのエステート・ハウスのように、たくさんの良い家があった」
「フリータウンの主な市場を通り抜けて走っている非常に小さな旅客列車が、私達が見たもう一つの独特のことだった。市場の人々が列車の警笛を聞いたとき、彼らは素早く自分のものをレールからどかす。そして、彼らがものを動かすことができるように、電車はゆっくり動く。列車が通過した後、彼らは屋台を元に戻すんだ」

「それから、ダイヤモンドをつまんでいる地元の人々の策略によって引き起こされることになった、貿易不況をめぐる多くのトラブルもあった。シエラレオネはダイヤモンドが非常に豊富で、これらが公然とブラック・マーケットで販売されていた時代があった。当時、彼らは自治を持っていなかったので、支配者、または帝国主義者は、このブラック・マーケットを禁止するために厳格な法律を作ったんだ。例えば、きみがダイヤモンド地帯に住んでいて、家を建てたいと思ったとしても、基礎のために3フィート以上掘り下げることを許されなかったりとかね」
シエラレオネには、内陸の小さな村に、私たちがガーナで見るよりもはるかに多くのレバノン人が住んでいた。また、ダイヤモンドがあるせいで、シリア人もそこに住んでいるようだった。彼らは店主やトレーダーだったが、実際にはダイヤモンドを扱っていたんだ。彼らが踊る為の蓄音機でレコードを流すクラブはあったけれど、シエラレオネにはダンス・バンドはいなかった。ハイライフはそこにあったが、有名じゃなかった」
「私達が滞在中に気づいたもう一つのことは、階級による格差があるということだった。上流階級は、労働者階級と一緒にされたくないと常に考えてるような、弁護士や医師で構成されていた。この上流階級の連中が、私たちのコンサートに参加するのなら、私たちは入場料を上げるか、2つの別々の料金を請求し、2つの階級のダンス・ファンを入れるために2つの別々のダンス・フロアを用意しなければならなかった。ガーナやナイジェリアにあるように、彼らは自由なミクスチュアを好まなかったんだ」


ー後編へ続く。

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