【体験談】人々が神さま仏さまと言う存在は実在する。疑いなく確信を持って断言します。
あけましておめでとうございます。
もう夏ですが新年1発目なので恒例の役立つ記事を真面目に書きます。
今回は神さまは実在するという話し。
それは事実だと俺は毎回、確信をもって迷いや疑いなく断言します。
この記事の前に、あくまでも体験した事からの証言であり、説教や説法のような意図はありません。
とてもセンシティブ、繊細で慎重に話さなければいけないのがこうした話です。軽々しく語れるものではないので、はじめに注意点をお読みください。
【この記事を読む上での注意点】
※信じない人に信じてと押しつける記事ではありません。ここに俺という本当に事実としてそういう存在に遭遇し、改心させてもらい、病と絶望の底から救って貰った恩がある人間がいますので自身の体験から証言します。貴重な体験だと自身で自覚しているので情報としてもちろん無料で提供しています。
※しばらく年月を経てキッカケがないと理解が難しい事もありますし、さらに俺は他者に言われるだけでなく’自身で自覚があるほど人に説明するのが下手’な面があるのでより理解が難しいでしょう。なので普段は俺の役割ではないと弁えてこうしたことについて黙っている訳です。
決して皆さんを見捨てるとか、自分さえ知っていればいいという理由で黙っている訳ではなく、そういう理由です。
※俺は預言者でも何でもない無知で愚かな皆さんと身を同じくする一般人なので誤解なきよう。それがどういう体験か、自身でもそのたびに驚く事です。それを伝える為にブッダやイエス・キリストの弟子達の話しを出したりしますが、俺は神さまや他の何者かがあなた方につかわしたものではなく自ら書いています。
※俺自身は宗教団体や集団と関わりを持たない一般個人であり、その体験以来、個人で毎日あれこれ思索し、自身や身近な人や世の中を観察し、神さまを思い、自省し、知恵を求めに聖書や経典も読むし、人々の話しも聞きます。
こういう立場の個人を宗教的には信仰者や単独者などとも呼びますが大昔からいます。
ちなみにこの体験を21歳頃にする前はふつうの無神論者で悪さばかりしている若者でした。
※こういった話しで人から相談料名目だとか金品を稼いだりするような霊感商法は一回もした事も関わった事もありませんし、神さまや仏さまはタダで与えてくださるのに、それでもって金儲けをするなんて行為は畏れてしまいます。まあそれを自身の懐に一円も入れずかかった経費やその日の食べ物を買う分以外は慈善で寄付するならわかりますが、大抵は大半を懐に入れる畏れを知らない人が多く見受けられる世の中です。
そういった人々が神さま仏さまの名誉を貶め、不信仰がさらに不信仰を広げています。
俺は他人に期待したり見返りも求めていません。(むしろ金品の報酬を得よう、騙されて寄ってくる女性で性欲を満たそう系は信用しないようにご注意ください。まあ騙される人も独りよがりな貪欲さでそういうのに自ら引き寄せられるので自業自得でもあるんですが←SNS、ブログ、youtube、書籍、など人目につきやすいところほどこういう人がとても多いので注意喚起の意味でも書く記事です)
※俺の記事は人から一切報酬や利益を受けとっていませんし、必要な人が読めば役に立つ事もあるだろう、縁がある人は目にするだろうくらいの好意で書いており、読む人を増やす気もなく、人からの賞賛や名声や名誉などに価値を感じないし、人間に世直しなどできようがない、信仰の薄れた国で人心乱れた国に善き前途を期待できようか、俺は世直しよりまず自身を改め直そう。という考えなもので特に人々に見返りを宛てにして期待する下心もないからこそ匿名で書いています。
あくまで体験者の証言、感想です。
【奇跡を体験する人々は稀ではあるものの古今東西、老若男女問わずいる】
神さまか、仏さまか、御使いか、天使か、精霊か、何なのか?そういう存在に遭遇する体験をする人々が古から現代においても世界中にいます。
実際には日常すべてが奇跡的なんですが、日常で繰り返される刺激に人間は鈍感になるので奇跡的とは感じずに日常を過ごしていると思います。
この日常の刺激で鈍感になり飽いていまうのは天界に住む人の内にも起きる事ですが、あまり好ましい心の状態ではありません。
しかし、奇跡とはその鈍感になった感覚でも凄まじい奇跡と感じるようなこととイメージされ、滅多にない、ありがたいことと一般的には受け取られているでしょう。
ただ見るだけならまだしも、それは温度や体感を伴い、その影響がその時だけではなく長く、精神的な影響は一生持続します。
当然、自身、人生、思考や感性、生き方、話し方まで激変するほどの強烈な影響力があります。
その間に「あれは夢か幻だったのか」と段々に半信半疑になる人もいるでしょう、自分も1度目はそうでした。
しかし2度、3度と続くとさすがに総合的に疑ってみても自分に起きたことを否定する材料を見つける事の方が難しくなります。
イエス・キリストの弟子も神さまの啓示を実際に日常で目にするのですが、複数回それを目にしてもそのたびにびっくりして「幻覚か!?」とすぐに状況がのみこめずにいる様が記述されています。
しかし複数回体験する内にあぁ、間違いない。夢や幻ではなく、どういう仕組みかはわからないけれども、普段は目に見えて認識できていなかっただけで現実の存在だと認めざるを得なくなりました。
【姿を現す状況にある程度、共通点がある?】
聖書や経典など様々と神さまや仏さまや聖霊と呼ばれる存在が姿を現した人の体験談が古から語られています。
①幼少から地域、両親が信仰厚く、当人も幼い頃から神さまを疑わず悪事、悪心を避けて育った。
神さまに認められ預言者など重要な役割を任せられた。
②上記ほどではないが、修行をしたり、善業を積むなどして到らない点を解消して成長した。
成長したタイミングで姿を現し、激励の言葉をかけて貰えたり、もっと成長できるように助言をして貰えたり、その当人に可能な水準で仕事を任せられたりする。
③俺みたいな信仰とはあまり関わりがなく、自身の無知や愚かさや悪に気づかずに社会生活をしていたが、そんな自身の罪に気づいて痛烈に悔い改め、存在に気づいた。
そのタイミングで姿を現し、悪因の報いで負っていた病を癒したり、奇跡を体験する。
③の俺は特に何か優れている訳でもなく、ただ一点、悔い改め存在に気づいた点を祝福して頂けた。
凡人なので油断するとまだまだ失敗や自覚なく悪事を繰り返してしまうため自身に注意しながら慎重に歩んでいかないと元も子もないことに以前の自身に逆戻りしてしまいます。
この3つがすべてではなく、他にも雑多にケースはある。ただこの3つが文献などでもよく目にするケースです。
【肉眼を通して脳で見ているのか、他の何らかの要素で見ているのか】
医学的にそういう存在を見ることを考えると誰しも幻覚などを疑うと思います。
体験した人も自分自身でそれを疑います。
古代の人達ですら幻!?幻じゃないの!?どうなってんの!?とにかく大変だ、村のみんなに伝えなきゃ!と狼狽しますが、それは現代人も変わりません。
普段は誰だって日常を過ごしている際と同様に、見たことがない存在に遭遇したら現実的に合理的にあれは何だったのかとそれまでの日常の経験で蓄積してきた情報の中から考えざるを得ないからです。
しかし、現時点の人類の医学はまだ人体に関してもわからない事だらけなので、医学的に判然としない事があるのは仕方ない。
二酸化炭素中毒や低周波音や電磁波などで人間の脳が不安や焦燥、幻覚を見ることなどきちんと自分で調べます。
しかし、それも違う、何故なら二酸化炭素中毒に陥るような状況ではなく(外出先から家の中に移動している)、低周波音による異常が生じる環境にいない。強力な電磁波などもない。
それに低周波や二酸化炭素中毒は極度の不安や恐怖などから不安や恐怖に応じた怖いものを見る訳ですが、それで悪霊のような怖いものを見ることはあれど喜ばしいものを見ることはありません。
もちろん統合失調症などもありません。その数ヶ月前くらいに脳のCT撮られていますが異常無しだったし。
他にどんな可能性が?
それを説明しようにも調べた範囲では現代の科学、医学に答えが見つからないので説明できません。
科学的にそういった事を真面目に究明しようという学者より、そういった自身が経験したことがなく理解しがたいものは錯覚や迷信や嘘イカサマだと先に結論をつけて、その結論に都合がいいように自論を構築しだす学者が少なくないので一向に学的にその研究や調査も進んでいないような印象です。
今は科学を信仰している現代人が多いので宗教と科学をミックスさせて無知な人々を騙そうとする人々がいますし、仏教でも仏教は宗教ではなく合理性に基づく科学なんです!なんて言う人々がいますが、誰しも結果的には合理性は方角を確認するコンパスのような道具になりはしても目的地に着いたら必要がなくなるものです。
信仰のない、頭で考えて理屈こねるだけに経典や聖書を用いる事に善き結果などありません。
これはクリスチャンでも仏教徒でも心得ている事でしょう。
ふつうは真理・仏を求めて経典を読むし、ふつうは神を求めて聖書を読むんであって、ただ知識を求めて読んでも意味がない。
無駄にはなりませんが、それで驕り昂って聖書や経典を振り翳して他者を攻撃するようになると末期といいますか、そこで自身を省みて気づいて改めないと悪魔の手下になります。
そういう人々は経典や聖書の知識を自身の保身や、我々の宗教組織が正しく他は邪道と決めつけて神や仏の許しなく勝手に裁き手となるが為に読むため、神や仏に帰るではなく各々の思うところに帰ってしまいます。
同様の体験をした人は他にも自身で学術書を読み漁ったりするでしょう。
物理学の量子論などならイケるんじゃないかと物理学の本を読み漁る人もいるでしょう。
粒であり波である、ここに可能性を感じるんですよね。
しかし、結局それも現代の科学でははっきりわかりません。
そもそもさらに厄介な事にこの世の物事は追究すればするほど、問えば問うほど実体が見つからない。
なので一見、理論的に筋が通っていて辻褄が合う=真実とは限らない→年月が経ったら異論がたくさん出てきて定説がひっくり返る。
これは途方もないことです。
自らの知識や知性で知ろうというのでは寿命が千年あっても足りないんじゃないかと、知識は宛にならないと知性を過信するのもやめました。
それに知識、知性、知恵、言葉が違うと意味も違うもので、知恵は大切だと思っています。
知識と知性は使い方を誤るととんでもないことになるので過信盲信は危険だと。
無知は確かに愚かな間違いに向かう要因になってきたが、その無知を恐れ知ろうと知識を収集することでは無知を離れる事を得られず俺の迷える魂を磨き高める事ができなかったという事です。
2020年、ノーベル賞を受賞した物理学者に量子ソウル理論という理論を唱える人が現れました。
量子論に感じとるものがある人が多いんでしょうね。
その直感が正しいかはともかくです。
俺個人はこれまでの他の物事を考えてきた経験上では、右でもないなら左でもなく、上でないなら下でもない、知性で答えを出そうとすると結局堂々巡りしてこうなる→∞
答えを量子論に期待してもこれまで同様、粒であり波だと思ったら、さらに奥深くて粒でも波でもない、その中間でもない、他探すしかないなと振り出しに戻るになるんじゃないかと思っていますが…。
そのくらい知るという事が途方もなく感じています。
人間の頭で考えることからの結論は何故か相対化されてしまう仕組みがあります。
これはイエス!とデータ付きで根拠を添えても、いいえノー!というデータ付きで根拠を添えて反論が出てきます。
中間でどちらもイエス!それ以外でどちらもノー!切りがありません。
少なくともそうなったら仮説や他の結論の材料にはなっても、真理じゃないなと思って他のことを考えた方が回り道のようで近道だったり。
皆さん未だに地動説が科学的に正しいと思っていませんか?
それは大昔のガリレオのいた時代の科学です。
現在では地動説、天動説どちらを正しいとするかは人によるが最新の科学的結論です。
なぜ?
確かな観測基準がなくどこに観測点を置くかで答えが変わるから。
学的に判然としないのでは、あれがどうして起きたのか、あの存在は何なのか、結局は同じような体験をした人がいないかを調べて情報を集めるアプローチをしだすしかありません。
なので、この記事に導かれるようにやってくる人もいるだろうと先読みできますよね。
ただ同じ体験をした人の話しからは体験としてキッカケや前後の状況などのヒントまでしか集められません。
事実を集められるだけでも貴重な情報ですけれどもね。
他にそういう話しは宗教がよく語っていますよね。
今度は経典や聖書を読み漁って探すようになる人が大半でしょう。
そこには同様の体験をした人物が古からいる事を見てとれるからです。
そして同様の体験をした人物を近代、現代にいないのかをネットなどで調べていると、いるにはいるのです。
神様とああだこうだペラペラと話したとかは流石に、おいそれ自分自身の自我(悪魔)か悪戯な悪霊と話してるだろwと言わざるを得ない話しが多いので困りますが。
耳障りのないような聞こえがいい綺麗事で騙そうともしてくるので霊媒みたいなことはやめた方がいいです。
悪霊でも経典や聖書に書いてある事を利用もします。
自身の内で語りかける?祈る?というのか、そういう神さまとか御使いとか呼ばれる存在が返してくれる事は事実としてあるんですけれども、その状態にも色々ありまして、これは話し長くなるな。脇道にそれるので一旦省略。
なので、そこでまたどういう存在なのかわからない。
しかし、人々が神さま、仏さま、聖霊さま、天女さまなどと呼んで口づてでも言い伝え続けてきた存在なのは間違いない。
様々と考え調べもうすぐ20年になります。
果たして肉眼で見ていたのか?それすら言い切れない。
何故なら周りに複数人がいて自分だけに見えているという事まで起きます。
肉眼で見えているのなら周りの人の肉眼に見えていない事の説明に行き詰まる。それは霊感がどうのって自分は特別な選ばれしものなんだぜって馬鹿な中二病みたいな仕組みではないことはわかっています。
条件さえ揃えば誰にも起きうる。何故?神は公平だから。
なので、神さまは実在すると自分からは言えるものの、それ以上のことは下手なことが言えない心境で過ごし続けています。
【世界の仕組み~肉眼で見えている世界や物事は自身の外にあるのか、内にあるのか、中間やそれ以外の答えなのか?】
これも別にして書いておきます↓
ただ宗教信者なだけでは「経典にこう書いているから、聖書にこう書いてあるから」というだけで、「あなたの意見は?」「あなたは見たの?」「あなたは経験したの?」「又聞きの又聞きの又聞きな話を、自身で確認もできていないことをあなたはどうして真実であるかのように言うのよ!」と一般の人々に詰め寄られてしまうとなかなか理解して貰えなくてもどかしい気持ちになるでしょう。
実際には見なくても信じている人はとても運がいいんですが。
だって結局、見る人は見る前から信じています。
無神論者にもいろいろいて、単に怒りや不満などの感情で否定している人もいれば、聖書や経典の矛盾や、世の宗教組織とその信者達の日頃からの悪辣なやり口を見て犠牲者への憐れみと義憤から宗教を疑ったり、中には憎み、その延長で神を否定する人もいますし、科学でわからないことや合理的に再現しようがない確かめようがないことを真実とは結論つけできない思考もあるでしょう。
宗教が悪事を働くから神や仏を信じられない人がいる、それは宗教が神や仏の法、戒律を守らず神仏の名を貶めた事に起因しています。
しかし、宗教がそんなことだからって実際の神仏がした訳じゃのにそれを神仏のせいにして信じないというのもおかしな話です。
それは単に悪霊を喜ばせるだけです。
宗教信者を見ていると、この人は教義や団体にばかり熱心で神さま仏さまに関心がないのかな、半信半疑なのかなみたいな人も見受けられますし。
宗教団体じゃなくて神さま仏さまを信仰するんですよ。神や仏を求め愛を求め真理を求める気持ちで人から言われる教義に執われてないで。
そう言われて頑な心(我執)で拒むのはむしろ宗教信者によく見受けられます。
「あいつは悪魔の手先だ!教祖様が教義に従わない奴らはポア(浄化)されるべき悪魔の手先と言っていたから奴らは殺した方がいい」
こんなのしょっちゅういます↓
大抵、霊媒師、占い師という悪魔にそそのかされている人々。
こんなの古代から毎年のようにありますよ。
なのに人々は世の中を意識して見ていないから霊媒師や占い師は悪魔にそそのかされているから気をつけろって言ってもキョトンとするだけ。
今でもネット検索するとズラッと霊媒や占いの勧誘、誘導だらけでしょ。
そうやって悪魔は虎視眈々と口開けて待っているんです。
ユダヤ教でもキリスト教でもイスラムでも仏教でも、大抵こういう自身が悪魔の手下に成り下がっている事に気づかずそのまま犯罪や教祖と姦淫など諸々の罪を負って自ら神さまとは逆の道に行く人々がわんさかいます。
神や仏を信じるんですよ?
神以外のもの、教祖を崇拝するなという事です。
現代、雨後の筍の如くに愚かな宗教組織が沸いてきますが、未熟な教祖しかいません。
有能な人ほど名誉欲などの欲からも離れ人前に出ず、隠れている訳ではないけれど世の人の目から隠れているんです。
【神は神、宇宙人じゃなく神です。】
最近、宇宙人が神とか言い出す人がいるので。わざわざ書きました↓
龍は実在するという記事。
【この世の人間のどんな美しい女性をも遥かに凌駕する美しさでした】
こう言って想像がつきますか?つかない。鏡を見ると我が肉体の姿が恥ずかしくなるような、世の中の人々は誰々が一番美男美女だ、いや我こそはと競ったりしますが、それが馬鹿馬鹿しくなるくらい目くそ鼻くそに感じ…(口を慎みこれ以上は言いません)
しばらく人間の美女を見てもみんな色褪せて見えて残念に感じるような感じになります。
ただ卑屈になるのはよくないので気をつけますが、比べるのは甚だ愚かなくらい差が遥かにありすぎて比較する気がしなくなります。
俺らの肉体はそもそも金色や白光で輝いていないし。まあ相応なんでしょう。
だって俺の前に女神が現れて「あなたが落としたのはこの金色に輝く姿ですか?銀色に輝く姿ですか?それともこのヒゲ生やした長髪の武士や縄文人みたいなオッさんの姿ですか?」「あ、そのヒゲ生やした長髪の武士みたいな縄文人みたいなやつです。」「まあ正直で素晴らしい!あなたにはこの金色に輝く美しい姿を差し上げましょう!」
しかし、中身が今の俺のままだったら?不釣り合いで悩むようになりそうです。
人々は金色に輝く美しい俺を見て「神さま!仏さま!どうか私たち人間に教えてください!どうか私にあれこれの願いを叶えてください!私を守ってくれてありがとうございます!」
中身が今の俺のままですから、何もできない無力さに、何も知らない無知、愚かで欲もあるので教え導くならミスリードになるばかり。
とても申し訳なくて隠れたくなるでしょう。
じゃあ、ああいう姿に相応しいだけの美しい心と行いを積み重ねって考えても途方もなく感じてしまいます。
どれだけの量り知れない徳を積んだらあんな姿に生まれるのか。
あの美しさはこの世にあるものでは再現しようがありません。
どんな画材や宝石やテクノロジーを使ってどんな職人が挑もうにも、人間の想像力の遥か上を突き抜けています。
よく神は人間の脳や想像力が創る妄想だなんて言う人がいますが、それこそ妄想です。
人間の想像力はそれまで経験し見聞きした情報を基にしかイメージを形勢できない仕組みなので、人間の想像力を遥かに超えた物事や存在の姿を思い浮かべることができません。
これが合理的、科学的な思考というものです。
これを否定するなら今すぐあなたの想像で神を創造し苦しむ人々を救い病を癒し死者を蘇らせたり奇跡を起こし人々を天国に導いてください。
あなたには想像力があるし、神は人間の脳や想像力が創るって言うならあなたにも今すぐ神を作れるじゃありませんか。
現実は?できない。
妄想とはそういうことです。
【宗教も鵜呑みにしない】
こういう話しをすると大体は「何かの宗教団体と関わる人じゃないか?」「人を惑わして利益を得ようと嘘をついているのではないか?」そういう事を疑います。
それはそういう人がいたら俺も疑います。数百円でも見返りを求める時点で疑います。
俺自身は宗教団体と関わりなく、スピリチュアルとやらも興味がなく、また、人にああだこうだ言えるような身でもないんです。
欲もあるのでそういう「この力で一儲け、女をはべらせる教祖さまもアリか?」なんてろくでもない事を俺も23歳頃だったでしょうか、若い頃に考えたことはもちろんあります。
しかし、幸い自身は思いとどまり人々が霊感等と呼ぶ力を神さまに願ってお返しして、その願いを受けて頂けたので、そういう欲にのまれずに静かに平穏に暮らせています。
すぐ願いが叶ったという事は少なくとも御心に障りがない動機の願いだったんでしょう。
試されたのかもしれません。こいつは欲を選んで力に溺れるか、それとも欲を捨てて神に従うかと。
パートナーは霊感の話しや心霊話しが好きなので神さまか何か見て助けて貰えるくらいの霊感があるなら動画サイトの霊媒師みたいに人の役に立てればいいじゃない!なんて安易に言ってくるんですけれどもね。
まず霊媒や占いは悪霊の誘惑手口であって結果は破滅しかもたらさない。
よーく長い目で見ているとほんと全てと言えるくらいじゃないかってほど。
毎年、霊媒師、占い師、教祖が女性信者に性的どうこう、億円の詐欺、殺人、そういうニュースが流れているでしょう。
これ古代からですよ。
占い、霊媒、スピリチュアルとか、今の宗教、みーんな欲望願望でドロドロ。
最近も新興宗教の教祖が自身の預言を外して早死にしたでしょう。
たまにそういうくだらないのとは全く違って実際に霊能が強力な人もいるんですよ。しかし、その死に様の凄まじいこと。妻子もろとも病気や事故で最後には不幸と禍いに沈みました。
霊媒や占いにはそうして破滅しかもたらしません。古代から。
俺は別に人の役に立ちたいとあまり思わないというかその力がないんです。身の程をわきまえているだけ。それにこの世はこれで完全なんです。
凄まじく精密に出来ています。この世界がイヤと思わないとこの世界を離れたいと人々が求め、どうしてこの世に置かれたのか、どうすれば抜け出せるのか探さないじゃないですか。
そりゃあみんなが安心してニコニコ平和に幸せに善良に暮らせる世界になったらいいな!と思ってますが、そうなれないのは人間1人1人の貪欲さ愚かさ故なのを日頃から見ているのでどうしようもないじゃないですか。
人間じゃ人の世の世直しなんて無理だなぁと思っています。
霊感は基本的に人の役に立ちません。
こういってもわからない人がほとんどでしょうけれどもね。
むしろ霊感で亡霊や悪霊と関わって人から金品を得たり迷惑をかけている人ばかりですし。
少なくとも、誰でも霊なんですから亡霊に興味を持つ必要がありません。
それに神さま仏さまを信じたり、人々に仕え献身したいと思うなら霊感は必要ありません。
霊感がなくて役に立とうとしない人は霊感を持っても金儲けや人を唆すことで迷惑かけるだけです。
そこらで見かけるじゃないですか?
相談料1時間うん万円!女性の信者や弟子を周りに集めたり、贅沢な衣服やバッグを集めたり、ああならなくて良かったと思います。
俺も欲にのまれそうな気配を自身に感じとって返す決断をした訳ですから、我ながらナイスな選択だったと今でも思います。
そういうものを見る変な力を持つとそういう変な欲にも駆られるので、その欲に流されて人を惑わす悪事を働くようになる人の方が多いんです。
それを霊感が開けた人には悪魔が誘惑しにくるという言い方をする人もいますが、わかる表現です。
どのみち人間は自身の内からわく悪で破滅するので自身を棚に上げて自身の外に悪魔を見て恐れるのはいかがなものかと思いますが。
毎日、神さまの事は考えても、悪魔のことはたまに宗教や神話を調べている際に調べる程度です。
説明がつかないことや第三者が再現して確かめようがないことを悪用する人は古から絶えない。
なので俺もそういう人に対して自己防衛としても節度ある範囲で疑います。
聖書や経典など読み漁っていますが、宗教が正しい、誤り云々とは言い切れません。
なにせ長い年月を経て真偽を確かめようがないことや、矛盾、開祖が言っていたとは断定できないような事が混ざっていたり、時の権力者や自分達教団組織に忖度して教義を曲げたり、民族から民族、国から国へと伝える間に他の宗教と混ざったり、誤訳などの問題が積もってしまって首を傾げざるを得ない矛盾が出てきたりします。
また論理的に合理的で筋が通った論理が確かとも言い切れない世界ですから、それも鵜呑みにできない。
最終的には「神さまにそう言われた訳ではないから、自分の考えや人の言うことも本当かわからない」という事もあります。
それに一般的に人々がいう過去という物事も絶えず変化するんです。
過去が変化する訳がないと思っていませんか?
本当はどうなのか?
ただ少なくとも頭で認識できる範囲ではみんな絶えず変化して留まる事がない。
歴史だって時代時代時期時期でああ言われたり、こう言われたり絶えず変化して伝えられるし。
仮に過去に罪を重ねて、自身の罪に気づき悔い改めて神や仏のような存在に赦し洗われたとしましょう。
その人にはその瞬間から過去も今も、自身も生まれ変わったかのようになります。
そうなった時、過去の悪い自分も悔い改める今に至るのに必要な失敗だったのかもしれないと過去の意義も変化します。
罪人が神さま仏さまが赦し洗われたら無罪放免だなんて!
そりゃあ本人もそう思うでしょう。
しかし、救って貰いながら自身は救われてはいけない、洗って浄めて貰いながら汚れているなんて思っても言ってもならないんです。
そういう存在からそう言われますよ。失礼ですよね普通に。
しばらく戸惑うでしょうが確かにそれを思ったり言うのは施して下さった相手に無礼だとわかるでしょうし、感謝で満ち溢れるでしょう。
悔い改めて洗われて生まれ変わったように、死人が生き返ったかのように、心から言葉遣いから行いまで改まっているでしょう。
【自身、身近な人や物事に注意深く】
例えば年末年始、40歳にもなってまだ自分が昔目標に定めた段階まで成長できていないな、神さまに恩返ししたい役に立てたらなあと思いながらさっぱり役立たずな自分に悩んでいた訳ですが、すぐ身近な人や物事を通してお返事がありました。
年末年始なのでパートナーの家の方で集まって過ごしている間、彼女は猫を飼っているので、俺がなるべく猫のトイレ掃除をしています。
彼女は家事やら何やら忙しいのでなかなかマメに掃除する余裕がないし、うんちだらけのトイレなんて自分がその立場だったらイヤだろうな可哀想だなぁと思うのでする訳で、俺は別に猫は好きじゃありません。
養子でもある継子が学校から帰ってくるなり、猫のケージを掃除している俺を見て何か手伝えることある?なんて珍しく聞いてきたんですよ。
珍しく。なにごとかと戸惑います。なぜ急にそんな心を起こした。なぜこのタイミング…。なぜ今日だけはゲームに一直線に向かわなかった。
心のアンテナが何かを感じとる。
嬉しいけどさ、気持ちだけ受けとり「じゃあ猫をケージから出してあげて、すぐそっちも掃除するから」と軽い作業だけお願いしました。
生き物の世話はお手伝いなんて感覚ですることじゃないですか。
自分を愛するように愛や慈しみの気持ちから自然とそうしたいと思い行うのが自然な事で、(手伝いの感覚で言われてもなあ。普段、家で同級生にチャットしながらゲームで遊んでいるだけなんだから、猫のトイレくらい普段から自分で汚れているな可哀想だな掃除してあげようって慈しみを起こせるよう育ってほしいな)と心に思ったんですが、、、
「…ああ、なるほど。それを俺に伝えてくださったんだ。だから普段、手伝うなんて言って来ない子を通してお返事くださった訳か。お返事が早い。ほんとおっしゃる通りだ」
「神さまに恩返し出来たら、役に立てたら…気持ちは嬉しいけど普段しない癖にそんなお手伝い感覚ではなく、自分から他者や命を愛し慈しむ気持ちを起こして普段から自然とそれが行える人間になってほしい。」と俺が言われたんだ。
それをあえて血の繋がりがある実子ではなく、血の繋がりはないが子として愛してきた継子の方を介して。
それはつまり、俺とは血の繋がりはないが我が子のように愛してくださっているという意味も重ねている。
一回のほんの短い間の出来事で複数の意味を持たせてスッとお返事くださる。
相変わらずすごい知恵。
自心?に直接、耳に聞こえない言葉?で、お返事くださる事もありますが、身近な人や物事を通してそうして教えてくださる訳です。
あと夢?でもあれ普通の夢と違うんですよ。なんて言えば良いのか。
まさかそんなことある訳ない?たまたま偶然?
偶然なんてあるんですかね。もちろん確率論などの一般的な知識は目を通したことはあります。
しかし少なくとも自分の人生で偶然を見つける方が難しかったです。
22歳頃に神さまの存在に気づくまでは自分も偶然や運で自分や自分の人生が流れていると思っていましたが。
神さま仏さまを信じられない!これは他人がどうこう言って何とかなるもんじゃないと思うんですよ。
疑わしいもんは疑わしいと本人が正直に言ってんですから、
この記事は信じさせる為に書いているのではなく、あくまでも実在するよと体験した事実を証言しているだけ。
信じる人、信じない人、どちらにも参考になればと思っています。
【見なくても神さま仏さまと呼ばれる存在を確信する】
これは不可能ではなく、むしろ姿を見せる前に存在を確信していた人が多いんじゃないかなと俺は推察しているのですが推察の範囲です。
世界中の体験者にアンケートをとった訳じゃないので正確にはわかりません。
人間、普段から見ようとしない、見ていない事だらけなんです。
視界に入っているのと見えている見ているとは違うものなんです。
目は見るための道具なので視界の範囲で物事を映しますが、目が見ている訳ではなくて、目から送られてくる情報を見るか否かはその人の意識次第ですよね。
いや、俺は普段から見ているし見えていると言う人は普段から自分を見ていないです。
それは自分が普段、通勤などで通う際のよく通る道にあるものを正確に地図に起こしたり、描いたりできない事でわかります。
俺は土木の施工管理をしていましたが、現場を巡回する際はそれに気をつけて車の速度を落とし、確実に確認しないといけない事は止まって、指を指したり触れたりしながら慎重に確認していました。
昔はそんな慎重ではなく、自分には見えていると根拠なく思っていて何も見ていない少年でした。
例えば自分の場合は「どうして自分がこんなに絶望的な状況に追い詰められているのか」を、ただ考えるしかない状況に陥っていました。
なにせ未来を考えても未来の展望が良くなる材料が1つもなく、未来を考えるだけ余計に落ち込み苦しくなるだけの状況です。
心身は深く病んで医師も原因がわからないとあちらこちらの病院に紹介状を渡されて、脳や血液や眼球やあちこち検査されました。
部屋にこもって床に伏しているしかありません。
光線過敏症とかいうのにもなって家電製品の小さな電源ランプの光すら目に入ると瞳孔が痛んで痛みが頭の奥まで響くので部屋の家電製品のコンセントも抜いてカーテンも閉め切って隙間をテープで塞いだり、生き地獄の中で泣きながら過ごしていました。
薬の副作用で顔はぶくぶくに浮腫み、見るからに病人、恋人も背を向けて去り、独り、味方もいません。
実家に連れ戻されましたが、もはや実家を飛び出せる元気もなく、肩身の狭い思いで親からの扶養でいるしかないが、親からは仮病じゃないか甘えだろ働いたら直るだろと責められます。
そこで責められるのが辛いので面接に行くと「見た目がふつうじゃない。病気じゃないか?」と言われてその場で不採用。泣きながら家に帰る。やはり他人には自分はそういう姿に見えているんだと人前に出るのが余計に怖くなる。
人間、いい時は集まってくるが、苦しい時ほど背を向けて離れていきます。
若くて容貌麗しい時期、お金がたくさんある時期、何か才能などでヒットして称賛を浴びている時期。その時期を過ぎるとサアーっといなくなり態度も変わります。
起きているとイヤな事しか頭の中に浮かんでこない。眠剤や安定剤にすがってとにかく無理にでも自分を寝かしつけて睡眠に逃げ込むけれども、ずっと延々と寝ていられる訳じゃない。
起きている間、過去のことを考えるしかなくなるんです。
良かったなあ楽しかったなあって事がもはや未来に僅かも望みようがない状況を絶望という訳ですからね。
過去や睡眠中に良い夢見れたらなと、それをかき集めるようにして、そこに逃げ込んでいないと苦しくて辛くて耐えられない。
過去のことを考えるしかないので幼少期から思い出せるだけ自分が歩んできた道を確かめていきました。
毎日、毎日。
すると自分がこの苦しい状況に陥った現在に至るまでの一本の道が繋がり、そこでようやく自分が現在どうしてこの状況に行き着いたかが判明します。
悪因悪果というやつです。
人の人生は自身の選択肢も大きく影響しますが、悪い選択肢を選択するとその場はやり過ごせたつもりでも、その悪い選択肢によって生じる制約によって次の選択肢も悪い選択肢を選択してやり過ごす選択に流れる悪循環に陥るんです。
どういう事か?
嘘をついたらそれがバレないよう、その次にどんな事を言い、行うかも縛られるし、盗みを働いたらそれを隠す為にやはり次に何を言い行うかの選択肢が歪んだものになります。
人に対する意や行いも同様に後々のことを考えて慎重にしていないと、必ず自身に跳ね返ってきます。
当人が些細なこととして忘れたり、正当化して自己弁護を並べ立てようと、積もり積もって結果を受ける時に人生そのものを破滅させる威力を持っています。
俺は中学卒業後すぐ実家を飛び出していますが、親とのすれ違いは本当に些細な事の積み重ねが山になって起きていたし、過去に良かった事がないか探すしかありませんから、その中で親も昔、あれこれ幼い俺に優しくしたりしていた事があるのを思い出しました。
子によって反りが合う合わない、意思の疎通や関係が円滑に上手くいくいかない、可愛い可愛くない、親も人間だからある訳です。
しかし全く愛情をかけなかったというのは自分が憎しみに溺れて親を否定する事を重ねる上で、自分で親が愛情をかけた瞬間を記憶から排除していたんですね。
なんで親はあの頃、夫婦喧嘩ばかりしていたのか、いつもヒステリックに不安定だったのか、当時はわからなかった事情も21歳ですから記憶からああそういう事情かとわかりました。
自分は自分の弱さを知らなかった、だから親の人間としての弱さも知らなかった。
自分を支配している親は完璧なんだろうと子ども心に知らずに勘違いして、その完璧な筈の親が自分に対して不理解があると自分に対して愛情がないからああやって厳しく責めたり打ったりしていたと勘違いしていたんだな。
その親を憎み軽蔑して自分を正義と正当化して生きる内に、自分の非を見ないよう頑なになり、その癖に自身が悪事をしても見ないように避け、自分を棚に上げて人の不備だけ許さない身勝手な方へ行った訳か。大人は汚い大人は汚いと憎みながらいつの間にか自分が一番汚い大人になって…その結果がこれか。自分はこんなに弱かったのか。親も。中2から前に進むどころか憎しみに縛られて全く前に進んでいなかったのか。未来だ夢だと振り払うように家出して何とか生き抜いてきたけど、描いていた将来とはずいぶん遠く離れたところにたどり着いた。なんだった今まで。疲れた。心身もどうにもならない。憎む元気ももうない。
他者からの許しを求めても自分がしたことが消える訳じゃない。しかし自分が他者を許さないと自分が自分を許せないんだな。自分の罪を自分に見られていることがこんなに恐ろしい事だったなんて。
まさか自分を裁いて拷問の責め苦を与えるのが自分の内にあるだなんて。
後悔先に立たずか。
とにかく親と和解しよう許そう。俺も悪かった。他は神さまとかに謝るしかないか。許されるか否かはいい。原因がわかったよ。
しかし、あえて忠告というか、俺は因果だけが影響しているとは考えていません。
悪因悪果を気づくと同時に因果で説明できない隙間があったんです。
自分が外出して災難に遭う前に母や身の回りの人、物事を通して何故か「今日くらい外出するのやめて家に大人しくいたら?」など引き止められていた。
しかし、普段はそんなこと言わない人がなぜあの時だけ?
当然、母はエスパーじゃありませんから、外出したら悪いことが起きるなんて未来を知る由がありません。そういう辻褄の合わない事があちらこちらに残り、そこで確信しました。
何か自分を守ろうとしていた存在が確かに介在している。
そうして神の存在を見た、確信したという経緯でした。
なので実際にそういう存在の姿を見る前に、その存在を見て確信しています。その後に姿を現して俺を救ってくださり、改心させてくださった訳です。
それまでに悔い改めているものの、この奇跡がなかったら俺は悔い改めに確信が持てず長続きせず、やっぱり神はいないかもしれないとまた悪さするようになっていたかもしれません。
身の回りの物事や身近な人のふとした言葉や行為、そして自分自身に神さま仏さまは足跡を残すんじゃないかと。
その人が見るべきところに。
俺は自分なんて全く見ない若者でしたから、いつも自分の外、遠く、他人ばかり見ていました。自分の悪い部分は見ませんが人の悪い部分だけは見ていましたし。
そこに幸せがあるんじゃないか、良いことが待ち受けているんじゃないか。
自分を見ないから人や家族は利用して自分の思い通りにいかない人は利用価値がないと逆恨みしたり興味も持ちませんでした。
なので俺は自身の内、そして身の回り、身近な人に注意深くなりました。
若い頃は夢や希望や幸せとなると遠くばかり見て身近な物事を軽んじて、遠くの他人ばかり気にして求めて、身近な人や家族を軽んじて、故郷を出て東京や長野や神奈川やとあちこちに転居していました。
なのに自身の故郷、実家で暮らすことになりその末にこの体験をすることになります。
人間は自分の過去から現在までの軌跡を辿れる事はそうそうないと思います。
人は自分がいつも歩く道の途中に何があるのかすら視界に入っていながらもほとんど見ていませんから、自分の歩む日々の物事も同様に自分ではほとんど意識して見ていません。
これを過去から細々と思い返して見つめる作業は容易ではありません。
なので大きなキッカケでもない限り人は自分自身の事すらほとんど見ずに日常を流されるように暮らしているものです。
俺だって今から15年前くらいの期間、自分が何を思い何をしていた結果、今現在こうしているのかを詳細に正確に答えよ!と言われたら、
えー!またあの根気のいる作業を!?と出来るか半信半疑です。
追い詰められ窮していたから藁をも掴む思いで原因を見つけることに集中できた側面があるので普段簡単にできる事ではありません。
自分が見なくても存在を確信した経緯はそうして説明することが出来ます。
その後に奇跡を体験して遭遇した訳です。
見たから存在を信じたという順序ではなく、姿を見なくても存在を見て確信したら現れて、一度で終わらずもはや疑うことの方が難しいまでに確信しているという順序。
俺の場合はです。
【見たから特別に優れた人などの選民的な驕りはないし、事実として神さまは誰にでも無神論者にも呼びかけている】
が、人々は頑なでエゴに覆われていて自ら拒否してしまいます。
見ずに信じる者は幸いだ。
俺はそれまでふっつーの無神論者(心の隅では神さまいるなら助けてくれよ!いるならこの世の中マシにしてくれよ!などのおこがましい期待もあり)でした。
俺は平均的な人々より悪い事をたくさんしていた悪ガキだったので、俺なんかより善良に生きている人の方が多い事を自覚しています。
その事実は俺が他者より特別だったから神さまが助けてくれた訳ではない事、神さまはそんな悪人すら慈しみを注いでくれる事を俺に示しています。
しかし、自身の罪を認めない人は多いものです。
なので無神論者の感覚も何をどう感じどう考えているか察しがつきます。
見た人は我慢しても結局は人に話します。
そうじゃないんだよ、本当にいるんだよと伝えなきゃいけない気持ちに駆られるからです。
神も仏もあるものか!と荒んでいた自分が刹那的に生きて自身の悪を見ずに罪を重ねて苦痛の底に沈んだ事から、そういう人や世の中を見ると、そうじゃないんだよ、本当にいるんだよと言いたくなるものです。
まあ俺が言う必要はないとも思いますが、かといって具体的にこうして体験から語れる人は僅かなので証言として人々や後世に伝え残しておかないとという気持ちもあります。
人々が神さまと呼んでいる存在は俺だけじゃなく人々の1人1人に呼びかけていると俺は思っているからです。
特別というなら、神さまにとってはみんな特別な存在なんだろうなと。
俺が嫌いな人、俺がムカつくと思う相手も神さまからしたら特別なので、つい言葉で傷つけてしまったりすると反省して神様に謝ったりします。
馬鹿な俺とは次元違いな慈悲深さですし、俺は愛が薄いやつだなとよく思います。
そんな俺のことでも、
くそ生意気な悪ガキで愚か過ぎて神さまにすら反抗的だった俺の事すらああやっていつも守ろうと呼びかけていた訳です。
俺より良識的に慎ましく生きている人なんてザラにいますよ。
これをありのままに話すのは「自分なんて…神さまは愛してくれないだろう」だなんて疑いの仕方をする人もいるでしょうからです。
神さまは呼びかけるが来るものは僅かだと聖書にはあります。
それはそうだろうなと自分も思います。
残念ながら、種々の欲求に足をとられて進めなくなる人間が99.999…%だと思います。
【因果が物事のすべてではない】
日本にありがちによく見聞きすることが、全ては因果で生起すると聞いて→今世では金持ちになる人は前世で善い事をしたから、障害者に生まれるのは前世で悪い事をしたから…という過大に一因論に突っ走る誤った見方です。
一般の人間が因果で考えられるのはせいぜい自分の物心ついた頃から現在までの範囲、さらにその極一部です。
一般の人間はその極一部すら見えずにいる人もいるほど見ても見ない、いわば心の盲目といわれる状態にいる人もいますし、そのまま寿命を迎える人が大半です。
なので日頃の煩悩まみれな曇った眼で抱いている認識が結論をさらに歪めます→金持ち=良いこと、貧乏=悪いこと、五体満足=良いこと、障害=悪い事。原因は?前世に違いない(根拠なし)。
そうして証拠もなく人を裁きまわり自ら口の罪禍や、差し伸べられる手を差し伸べなかった悪因を積んでいくという…。
基本的に金品に富む事は禍いを招きはしても幸いは遠ざけてしまいます。
それが理解できている人は余分な物は持たないよう、余分に与えられたものはそれを必要とする他へ分け与える事で禍いを免れます。
金品に富む事が禍いだなんて理解しがたいかもしれませんが、後で肉眼で見えない世界や本当の富や幸いについて説明します。
この一生というものは本当に一瞬です。人間の寿命80年くらいは長いようで畳の上で死ぬ時もみんな一瞬の夢幻だったかのように言って亡くなっていきます。
夢の世界はそういう一生を体験する上で重要ですから、俺は夢の中で自分がどんな行動をするかも気にかけています。
夢の中では例えば内心に不純な淫欲があれば現実にパートナーがありながら、夢の中では他の女の子とエチエチしたりと自分の本性がよく現れますから、油断している分、夢の中の自分で自分の身の程がよくわかります。
夢で自分がいかほどの者か試されていると思っています。
それがわからない人は夢の中で金持ちになったり、美男美女とエチエチしたりする夢を見て「良い夢を見た」なんて呑気に思うでしょう。そんな自分に危機感を抱く人はまず滅多にいないでしょう。
夢の中で自分が善い事を思い行なっていたらウンと喜ばしい、夢の中で自分が邪なことを思い行なっていたら悲しい、「夢は現実に影響しないんだから考えすぎだろう」と思う人もいるでしょう?
ただ、これは俺の話しをしていますから、俺は自分のそういう内面的なことに注意して暮らしているという事です。
現実も夢と同じことで人生一瞬です。夢のように現実で自分が思うこと行うことで自分の身の程が表れます。そして夢と同様に現実も得たと思った金品や恋人や愛人やら一生から覚めた死後に持っていく事は出来ず、何も得たことはなかったと思い知らされ、ただ何を思い何をしたか後で省みることになります。これはいま自分がどこにいるのか、死後にどこで何を思う事になるかにも重要なヒントではないでしょうか?
夢を夢だと軽んじることは、現実の一生を軽んじるに似るし、夢の中の自分が愚かなら現実の自分も愚か、俺は夢によってもそうやって自分を見ています。
夢の中で得た金品や性欲の対象は目覚めると消えて現実に持ち込めませんよね?
それは現実から目覚めた肉体の死後にかけても同じことです。
さて、悪い事をすれば悪い報いがあると言います。
先に書いたように俺はそれをはっきり認識しました。
普段起きる事を合理的に頭で考えればそれはほぼ確かです。
しかし、因果が全てかというとそれも違うとも先に書いた通りに思っています。
因果で繋がることに気づいたからこそ因果だけでは説明がつかないところがある事に「あれ、なんでここだけ。変だな」と気づき、そこを見つめた時に神さまの存在に気づいたからです。
因果だけで説明がついていたらそこに気づきませんし、ただ自分の失敗を悔やむことはあっても神さまの存在に気づかないでは、あの時に心を改める事はなかったでしょう。
因果だけで100%片付くなら人間自分だけですべて解決できます。しかし、そうではないのはご自身の日常や世の中をありのままに見ての通りです。
俺がただ悔やむだけで終わらなかったのは、自分はいつだって1人ぼっち、自分の味方や愛してくれる人なんていない、神も仏もあるものかと人も世の中もすべてに憎悪を向けて生きていました、しかし、実は神さまはいつもそんな俺に呼び止めて守ろうとして、俺はそんなことを知らずに聞く耳を持たずに自ら災いに向かって災いに遭っていたんですから、それに気づいた時ほど自分の愚かさを痛烈に自覚した事はありません。
初めて愚かという言葉を思い口にしたのがその21歳頃の時でした。しかも自分に対して愚かと自覚したんです。
申し訳なさでいっぱいになると同時に、そんな俺をいつも守ろうとしてくれていた存在がいた事に感動で感謝でいっぱいなりました。
後悔の涙と同時に感謝の嬉し涙と数日ぐちゃぐちゃに泣きました。
その後、思いきって自分の過去を省みて気づいた自分の罪を洗いざらい神さまにうちあけて、魂の底から謝りました。額を地面に擦り付けるように込み上げる後悔の涙を止めることもできないまま、ただお詫びし、その間にも自分を守ろうとあの手この手で図ってくれていた事に感謝しました。
その後すぐ、姿を現しました。
【神さまの姿を見たのはイエス・キリストだけ?問題】
聖書には主、父、つまり神さまの姿を見たのはイエス・キリストだけという記述があるのです。
しかし、旧約聖書にはアブラハムが主なる神に食事を捧げた、とても美男子の御姿だったと記述があるんです。
仏教の南伝仏教のなんて言ったっけ、詩のような形式で書かれている経典があるんですが、独り犀のツノのように歩めという力強い詩があるやつ。
それだったかな、ブッダに色々と問うたり語りかける神霊の記述があるんです。
そもそも仏教の神と、アブラハム系の宗教の神は、なんていうか分類の仕方と云うか定義に違いがあるんで並べて語るもんじゃないんですが。
仏教は無神論と勘違いされていますが、あちこちに神や天人の記述が出てきます。
後世に宗教対立というか、権威づけで仏教の優位性を持たせようと、後世の人が仏を神格化して神より仏の方を上とプロパガンダしたのが仏教が無神論と勘違いされるような流れになっていったんでしょう。仏教は無神論ではありません。
どのみちどの宗教もそうやって神や仏を思うよりも、自身や自身の教団組織を思うようになり、自分達の利益や組織の利益の為に他の宗教を習合したりして現在の別物の宗教の形があります。
なので各所に(あれ、前に記述されている事と、後に記述されている事が矛盾する…)という事が起きてしまう。
まあ当然、俺は節度のある範囲で疑う姿勢なので、そこで短絡的に矛盾するから嘘とは断定しませんが、宗教=人の言う事でもあるので鵜呑み、妄信をしないようにしています。
宗教団体はすべてビジネスでありカルトだと思っていますが、すべての神父牧師僧侶ラビなどの教師、そして信者などが道を誤っているという極端な考えもありません。
信仰が厚くあくまでも神や仏の側に寄る人とそうでない人とで明確に違うのが言う事や行う事でわかるので団体単位で見ずに個人を注視することをオススメします。おれはそうしているって話です。
カルト団体にまともな神や仏の信徒がいる訳ない?
聖書にはイエス・キリストに「あなたは神の国に遠くない」と認められたパリサイ派の人も登場しますし、経典にはブッダに受け入れられ仏教に帰依した異教徒の人も出てきます。
特に現代ではブッダやイエス・キリストのような聖者が出てこないので人々はそれぞれ道を探して途上で何らかの宗教団体に入信したり、個人で道を求めて歩んでいる人など様々です。
宗教団体を見るとろくでもないのばかりですが、中の個人にはまともなのもチラホラ当然に見かけます。
どのみち、俺は他人の事をどうこう言える人間ではないので悪い人がいるなあと思っても、俺もああなりたくないから悪いところ直さなきゃなあと思うだけです。
他人の悪いところより自身の悪いところから目を離さないようにしないと。
自身の足元に注意せず無事に歩けるほどには俺は物事を見渡せるほどの眼力はないので周りや他人ばかり見ていると足元の石や段差につまづいて転んで痛い目を見る繰り返しになるでしょう。
さて、聖書や経典には様々に神さまが現れる訳ですが、聖書には主なる父の姿を見たのはイエス・キリストだけと記述されている事が、アブラハムが会った神さまは何者だったのか?と謎を作ってしまう訳です。
モーセも見ないように顔を覆いながらも、直接神から啓示を受けていた筈。
神さまには様々な姿がある説、神さまの姿は見た人によって違って見える説、複数の神さまがいる説、世の中には様々な意見があります。
仏様は応意応身といって相手の意思や相手の姿に応じて現れ導くと説かれている経典があります。
【金色に輝く存在と白光に輝く存在がある】
過去記事でも書いていますが、俺が遭遇したのはこの二つの存在です。
神さま仏さま聖霊や精霊や天使や天人天女など、世界ではごちゃ混ぜに語られている訳ですが、どれも金色か白光の二つの目撃談がほとんどです。
金色はほんと金色です。
白光はどう表現すれば良いか、夏の太陽の反射光に似ていると表現しましょうか。
とにかく強い鋭い輝きでキラキラしてプリズムが混じっていたりするので俺は夏の太陽の反射光に似ていると表現しがちです。
どちらも普段、肉眼で見ているこの世界のものとはかけ離れて見える美しさだったりで、どう書いても表現しきれないし、上手く表現したって人間の想像力が及びませんし、それを絵画にしようとしてもCGなどで再現しようにも絵の具や画面の発色や輝度が及ばないしで、どうにもなりません。
人間の美女のさらに上の上の上の…段違いな美しさです。
それでわかったのは美とは内から放たれるものであり、美自体が見えている訳ではないという事です。
若い頃は美って目に見えていると思っていましたが、あの美しさの前では人間の世界中の美女が束になっても敵わない、遥かに凌駕した美しさでしたから、人間の美女と見比べても人間の美女がどうしても見劣りしてしまう理由が何なのかをまじまじ考えていました。
それではっきりわかった1つが美自体は肉眼に見えていないという事です。
俺ら人間は普段、美を目や耳や舌や鼻や肌で、それを脳を通して感じる訳ですが、美自体を描け奏でろ味にしろ匂いにしろとなると出来ません。
人間は芸術といってそれらをしますが世界にある人間の芸術、1つとして自然界に存在する美しいものや音や味やニオイにすら敵いません。
神さま仏さま聖霊といった、そもそも天界にくらす一般人などの存在はこの世の宝石や自然界の何ものより美しいです。
そんな存在が暮らしていても浮かない世界はやはり相応に美しい世界なんでしょう。
では、どうしたらあんな美しさに近づけるのか?
それもやはり肉眼に見えない部分での業があるんでしょう。
1つは欲を克服し美しい心と行い、清浄たることは間違いない要素ですが人間には欲を離れが難しい訳です。
他にも細々と調べましたが、ここでは美人になるにはどうすればいいかという記事ではないので割愛します。
どうせみんなババアになりますから、そんなのに執着せずに素敵に歳を重ねてください。
美人になるコツ知りたいですか?この記事では主旨が異なるので気が向いたら別記事で書きます。てか、そんな欲に執着して外見にとらわれていると道を誤りますよ。
【自分という悪霊に気をつけて悪を避ければ、そこらの悪霊に悩まない】
これは俺の個人的な感想で正しいとかそういう話しではありませんが、悪霊に悪戯されない予防のコツの一つとして書いておくだけです。
俺は毎日、神さまのことを考えますが、その辺の霊のことはたまにしか考えません。
毎日、神さまのことを考えると同時に自分という悪霊について省(かえり)みます。
聖者以下は言ってしまえば悪霊でもあります。
我執、欲に縛られている欲望の手下ですから、欲を主にして欲に忠実に暮らして隙を見て悪さする悪霊。
通常、古から現在も信仰心が強い人ほど自分をよく観察して自分の罪悪に自分で気づいて、自分の悪を悔やみ、恥じ、神さまみたいに正しく慈悲深く安らかで美しくなりたいと我が身を嘆き、少しずつでもそちらへ向かおうと自分の悪心や悪行の原因をよく鑑みて、よく改め、そこで成長すると同じ悪事を繰り返すことがなくなります。
なので信仰心が強い人ほど自分は悪人だという自覚がある訳です。
ちなみに、イエス・キリストですら「あなたは善か?」と聞かれて、「なんでそんなことを聞くのか、神以外に善はない」と答えています。
イエス・キリストですら善ではないと当人が述べ、神さまの前に自らを低くしている訳です。
一般的に善人などいない訳ですが、信仰が薄い人にはそれがわからないので自分や誰かを善人と安易に善人認定したり、独り善がりを正義として人を傷つけたり争って悪事ばかり働いています。
俺は他人を恐がるより自分を、そこらの悪霊より自分という悪霊を恐れます。
「人間にとって最も自分を傷つけ自分に不幸を招き自分を破滅に導くのは誰?」俺の答え→’自分自身’です。
人間は悲しいことに自分の無知、愚かさ、貪欲から負の想念を心に思い、そして行い、その結果として自分で自分を破滅に導いてしまう霊です。
そんな人間達を哀れんで神さまは人間に十戒など破滅に至る道を避ければ、あなた方がいつも望んでくる幸福や平安に辿り着けるよ!とわざわざ古から道まで教えてくれている訳です。
しかし、人間は神さまが見せても見ないし、言っても聞かないし、教えても理解しない、そして神さまの意を鑑みずに自分の無知、愚かさ、貪欲から執着して自ら神さまに背を向け破滅の方へ強情に進む。それで自ら苦しむ訳ですが、それまで何故か神さまのせいにして的外れな怒りを神さまに向けたりと…まあこれ赤ちゃんの世話より大変ですよね。
それを根気強くやってくれている神さまは到底、人間とは段違いな愛に満ちた存在な訳です。
俺は丸くなったつもりながら未だにすぐ怒っちゃうところがあります。恥ずかしい話しです。
そんな愛の浅く薄い水たまりみたいな人間とは段違いな愛の泉、愛の源が神さま仏さまと言えば想像しやすいでしょうか?
皆さんも会えば胸に歓喜が湧き溢れるくらい感じます。
俺は自分が愛の薄い男だなぁとコンプレックスなところがありまして、しばしば俺には愛がないんじゃないかとまで疑いだします。
自分のことは誰だって優しい心があるなんて善人の面があるよと自分で自分を正当化したいものですが、それは人間の弱さ愚かさであって、正確に自分というものを見ていないとかえって無自覚に人を傷つけたり悪さするから、自身に非があれば非がある、浮気心があるなら浮気心がある、物欲があるなら物欲がある、怒りっぽさがあるなら怒りっぽさがある、ありのままに正しく自分を見て、それを抑えるには、流しても安全な方に流すには、なくせるものならなくすには、どうすればいいと常々考えて、闘牛士のように暴れる猛牛のような自分の心を制する対策を練りながら生活している訳です。しかし、そう思い通りに自分の心をコントロールできる人はいません。
とにかく人間は自分に嘘をつくし、自分に嘘をつかれるし、自分で自分に騙されるので、自分をよく自分で見張っていないと危ない。
そこまで自分を観察している人はなかなかいません。信仰心がある人には珍しくないですが。
なので、「自分は自分に嘘をつかないと言う人は多くても、自分は自分に嘘をよくつかれている事を認識している人は少ない」訳です。
ブッダも人は自分の目、耳、舌、身、意に騙されると説いていますが、医学的にも左右の脳が分断されている人の右脳と左脳の働きを調べたら、右脳(左半身)と左脳(右半身)がそれぞれ自身がわからない互いの行動に関して合理化する為に嘘の情報・結論を出している事が知られています。
自分を観察していると大して優しくないな、けっこう淡白というか薄情なところがあるなあと思うし、水たまりのような浅さ薄さと書きましたよね。
そうだとしたらこの水たまりの愛はどこからきた愛なんだろ、本当に俺の愛か?と疑う訳です。
例えば俺がパートナーに愛情を注いでいる時も、この愛情、どこから来たんだろう、俺から生じたものじゃないんじゃないかと疑う。
神さまから俺に伝わる愛が俺を通して身近な彼女やいのちに伝わっている、それを俺は自分が彼女を愛していて、自分から彼女への愛が生じて、俺のもの俺の愛情と勘違いしてやいないだろうかと。
だから俺が神さまに背を向け離れると俺はどこまでも愛が冷えた冷たい奴になる可能性があるんじゃないかと。
愛おしい、喜ばせてあげたい、危険から遠ざけてあげたい、この衝動。
これ神さまから伝わって広がっていく性質のものなんじゃないかと。
神さまに近ければ近いほど何も持たない貧しい人でも、どんな大富豪よりも満たされ幸せなのはそういう性質が絡んでいるのではないかと。
えーそうだったら俺自身には愛がない事になる!?まあ神さまへの信仰心がなくなり反逆心ばかり強くなれば、めっちゃ残酷になり得る。
ただ、人間には自由があるので神さまの方に行くか、そっちに行くかは自分次第。
俺は神さまの方がいいから信仰心は失いたくない。
【本当の幸せ・快楽、偽物の幸せ・快楽】
「本当の幸せ・快楽は、金品に富む事や地位の高みにつくこと、性交や薬物や人々の賞賛や名誉など自身の外にある幻を得ようとする脳みその欲求を果たすことでは得られません。」
基本的に神さまや仏さまと呼ばれる存在は本当の幸せ・快楽の方に人間を呼び集めようとしているのですが、人間は普段の生活で肉体・肉眼で見聞き嗅ぎ味わい感じることができる方の偽物の幸せ・快楽の方を、幸せ・快楽と錯覚し誤認しているので、この違いに注意しないと全く違う方にいってしまう人々が出ます。
むしろその誤った道の方が門が広く、巷に跋扈していて、公前に積極的に流布・宣伝され、大量の人々を惑わしているので、世間の殆どの人々はこの状態です。
神様も仏様もそんな人々が目を覚まさないかなあ、改心しないかなあと長い目で見ているので、俺も黙って見ています。
俺なんかがでしゃばったってかえって神仏の邪魔をしかねないので願いながら見ていることしかできません。
役立たずですね。そもそも神仏の役に立つなんて人間はできないと潔くして自身を改める方が長い目で見れば人に献身できる役にたつかなと。
全く違う方と云うのは現世利益の物質的な欲求を求める方です。
それが幸せだよ快楽だよと騙される方は貪欲さや怠惰や不信仰などからそういったものに自ら求めて自ら一緒に破滅に向かうので騙される方にもしっかり非があります。
だから良いとかざまあみろとは思いません。
本当の幸せ・快楽というのは諸々の欲望を煩うことから離れて、物や金銭はなくても満ち足りていて、喜びと感謝で心いっぱいで安らかであり、神さまと心通じて1人でも孤独を感じません。
その感謝や喜びの気持ちは本当に肉体の胸から熱を発するほど溢れて満ち足りて、満ち溢れてきます。
ただし、一人になれって言ってんじゃないですよw
嫌われても良いんだよって言うと、嫌われる必要ないのに人にぞんざいな態度をして故意に嫌われることをして、それが大人、クールみたいな中二病を患う人がいるので念のため。
人が独りになるのは良くないことです。そうならないように1つになろうという潜在意識を持たせ、それを物質的にも目でみてヒントになるようにわざわざ男女に分けて作ってんですから。
俺は10代の頃に悪ガキだったので付き合っていた女の子とMDMAなどを使用したことがありますが、そういう薬物より心地よく、酩酊感もなく、とても自然で体感は強いながら優しい幸福感で身を滅ぼすこともありません。
それに比べれば、美食や贅沢や薬物や性交は幸せでも快楽でもなく虚無であり、それに貪欲に耽る人と関わる人に対し必ず心身を傷つけ、病ませ、争いや不満や禍いを苛み破滅に向かいます。
人々がそれにすら、偽物にすらすがるのは本当の幸せ・快楽を知らない冷えた貧しい飢えた心がそうさせる。
その原因が、不信仰、無知、貪欲、愚かさです。
無知、貪欲、愚かさを離れることは普通に世俗社会で流されるまま暮らしている俺らのような一般庶民には厳しいものがあります。
働かずに修行、瞑想、善行、観行、聴行、学業…に打ち込める恵まれた立場にある人はそうそうありません。
しかし、悔い改め神さまに罪を赦され洗礼を受けると凡人の俺ですら先に書いたような境地に救いあげて貰える訳です。
肉体的な性的交わりなどの快楽より安らかで温かく心地良いものです。
通常なら何も感じないようなありふれた町の山や川すら美しく変換されて見えるので、この世にいながら天国にいるような日々です。
それでよく実家の近所にある川辺で自然を眺めたり、生き物の命の暮らしぶりを眺めたり、せせらぎの音を聴いていたりしていましたが、ゴミが捨てられて木が引っかかって枝を重そうにしていたり、人々がこの川の美しさがわからず大切にしてくれないのはゴミだらけなのもあるかなあ?と、1人で川に入ってゴミ拾いすることを一年ほど続けていました。
ゴミがすべて悪い訳じゃないんですけどね。
川底に沈んだ空き缶を家にしている生き物もいましたし。
その日も午前中から夕暮れまで掃除して家に帰る途中から家まで白光を放つ存在が付いてきました。その時は気づかなかったんですが。
額や顔面に何か日差しがあたるような熱を感じてはいたものの、目線より上の頭上にまさかそんな存在が浮いていると思わず、気付かないまま帰宅してリビングで食事中に、なんでずっと日差しのような熱が顔にと、ふと上を見上げたらいたんです。
向かいの席には姉が、横には母がいるのに、自分にしか見えていないし、自分しかその熱を感じていないんですから不思議です。
ほんとこの世に生きながら天国にいるような日々でした。
その状態は再び迷い誤って悪心を起こし悪事を働き、物質的な欲望に執らわれない限り持続します。
聖書には「神は悔い改めた者は赦し、聖霊を送って洗礼を授ける」とあります。
洗礼は教会でクリスチャンになる為に受ける洗礼じゃない訳です。
聖書には教会で神父や牧師から洗礼を授かれとは書いてありません。
しかし、サウロのように再び悪心から悪事を働いていると聖霊を取り上げ、再び悪霊に逆戻りです。
信賞必罰とは少し異なりますが、公正とはそういうもので、相応しい人に相応しい霊がつけられるので、神さま仏さま、善を求める心を起こして自分を磨いて成長する意志、再び同じ過ちを繰り返さないようよく決意し改め、さらに改めた状態を定める楔を打つことも大事です。
残念ながら俺もそうですが一度、赦されて救いあげられた人でもそれを維持できずにところどころ綻んでしまう人が多いです。
これは大変ですよ、しばらくなかなかそうとは自分では気づけませんし、また欲望から眼が曇って間違いばかりやって痛い目に遭うこともあります。
そうならよう様々に神様が守ってくれているのも経験しています。
だいぶ経ってから、しまった自分は思い違いから再びこの部分の欲を起こして、そこからこういう誤りに陥って道から外れたんだと正気に戻ったとして、その時にはだいぶ滑り降りて後退していたりします。
そこから再び神さまに赦され満たされた時の段階まで戻るのも再び強い意志を発して悔い改めなきゃなかなか出来ません。
仏教ではこれを’退転’といい、退転しないように定まるところまでに仏教的な悟りの段階に到達できる段階には仏教が認識している限り3人、釈迦(ゴータマ・シッダールタ)、龍樹(ナーガ・アルジュナ)、無著(アサンガ)が到達したと大乗仏教ではいわれています。
実際にはもう少し多くいるでしょうが、そもそも高度な段階に行くほど変な名誉欲や金銭欲やらに執着しなくなり、あまり世間と関わらなくなるし、他人からその人を見ても外見はふつうの人に見えるしで、他人からはその人が高度な悟りに達してるなんてわかりませんし、有名にならないで人知れずこの世界から上がっていくので後世に名が伝わりません。
例えば、キリストが人の体を伴って人前に現れても大半の人々にはその人がキリストだなんてわかりません。
なので常に目を覚ましていなさいと書かれています。
霊的な目は一般には人々は大人になる頃には大半が自ら閉じてしまっています。
子どもの方が神さまを感じ神さまを無条件に信じているように、世俗で様々な欲望の駆け引きに没している内に肉眼しか使わなくなるからです。
それくらい人間は悲しいほど無知、愚かさから、目に見えるものに実体があって、価値があると錯覚して、それによって誤った欲を起こし、それに執着して自ら目に見えない世界や存在を観て感じる力を閉じてしまいます。
退転もまた、一度悔い改める際に理解した悪果と悪因を忘れて、また誤った見方や考えで誤った欲を起こして起きます。
仏教では八正道と十二因縁という貴重な知恵がありますが、正しく定める正定までが成ってないとその事に関して退転する訳です。
わかりやすく言うと、タバコに依存、執着する仕組みを十二因縁と八正道を使って照らし観て、我慢する禁煙じゃなくて、依存から脱却する脱煙に成功したとして、正定までしっかり詰めていなければ、せっかく観た仕組みを忘れ、せっかく見抜いた自身の誤認や錯覚を忘れ、再びタバコを吸った際に再びニコチンの中毒症状に捕まって依存の環、悪循環の中に囚われてしまいます。
なので、自分もまた一歩進んだり二歩戻ったり、気がついたら40歳です。
それでも退転して戻ったところからまた省み改めてと道を進んでいる人々が世界中にいる訳です。
基本的に大体の人は子どもの頃には素直に神さまの存在を感じたり、信じていたのではないでしょうか?
【自我、性欲、孤独】
これを気づいている人はネット上で見かけませんでしたので困ってる人がいればヒントになればいいなと。
性欲は本能と人々は上手く言語化できずに直感的にそう言いますよね。
じゃあ本能と表現するとして何の本能に似ていると思います?
帰巣本能です。生殖本能ではありません。何故なら閉経した女性や無精子症の男性、去勢して陰茎と精巣がない男性でも性欲はなくなりません。
在るべきところに帰りたい、一つになりたいという本能。
オーガズムの時、行く!カモン(来て!)と言います。
「どこへ?どこから?」面白いですね。
まず一つになりたい衝動は分離不安という心理から生じます。
人には2度この分離不安を負うキッカケがあります。
一度目は肉体的な出生時、二度目は自分を自分という精神的に自我が生じる時。
母胎から分離と、何か大きな意識からの分離。
それまでは1つで安らかだったのに、また1つに帰りたい!
どこへ?どこから?
出生し、そして成長して自我が強くなってくると、分離して元から離れるほどに人は恋、性欲を感じるようになる。
来たところから離れるほど寂しく、冷たく、暗く感じる。
どこへ帰ればいいの、どこから帰れるの。わからない。
そして偽物を本物と錯覚するようになります。
セックス。相手と身体と心を1つに1つに、なんだかその間は満たされるような気がするの。
しかし、何回やっても一時的。満たされず、しまいには余計に心乾いたり、得たい結果が得られない。おかしいなおかしいなもっとやればいいのかな。おかしい満たされない、マンネリだからかと浮気してみた、結局結果は同じ、だんだん虚しくなってくる。まるで鼻先に人参をぶら下げた馬の表現のように幻を追いかけさせられている。セックスしてそれを得た筈、何回やってもすり抜けてしまって捕まえられない逃げられてしまう。
さあ問題です。
人は本当はどこに帰りたいんでしょう、本当は何と1つになったら満たされるのでしょうか?
【性欲からの離欲】
世の中には色んな欲から離れてその分、清淨になる人がいます。
最も難しいのは睡眠欲とか呼吸とかその辺です。
その辺はこの世界から離れてより良い世界に置かれるのにあまり関わらないので優先順位も低いですし。
物欲や名誉欲やら色んな欲から離れる人がいますが、男女同性愛者問わず悩まされるのが性欲です。
先程書いたように仕組みが人々は思ってもみない仕組みになっています。
ネット上にも見当たらないのはそれだけ性欲から離れる知識が世間に知られていないのでしょう。
性欲をなくす事はできませんが、なくさなくても離れて満たされるようにできる仕組みになっています。
チ○ポや睾丸を切ったって性欲を一時的に誤魔化す射精ができずかえってイライラ欲求不満に悩むだけです。
クリトリス切ったって腟内でオーガズムを覚えたらより強い刺激に依存するだけですし。
最悪、他のことで性欲を誤魔化そうと人を殺すことに快感を覚えたり、支配することに快感を覚えたり、余計にコントロールや抑制しにくくなったりするので賢いやり方ではありません。
悔い改めてそういう存在が現れると一気に様々な欲望から離れて、この世に生きているのにまるで天国に生きているかのような幸福感、安らぎ、胸から発熱するほどに溢れる喜びに満たされます。
性欲から離れたいなら神に帰り神と1つになることです。
近づけば近づくほど満たされます。
心がより感じ取れるように心を覆っている塵や埃を払って心をキレイに保っていることです。
悔い改めるとはもともと、振り向くとか、立ち帰るという意味があります。
どこへ?どこから?
面白いですね。
この世界や物事の法や仕組み。
あえてこう作られているんだなあと。
人々が苦しむ欲望から離れるには世界に仕組みについて理解を深めることも大事なので、この辺で世界の仕組みについての記事に移ります。
【この辺で締め】
内容としては少ないでしょう。神とか仏とか自分の想像で語るもんじゃないので仕方ありません。
世の中には自分の想像で神はこういう存在だ、神はこう言っている、神はいないと人を惑わす人がいますが、自分の都合のいい神の偶像を自身の脳内に描いたり、自分の勝手な憶測で神はいないと根拠なく決めつけたり、最悪は悪魔の言葉を受け取っていたりするだけで、実際のそういう存在についてよく知っている人は極々稀にしかいません。
それは聖者です。
凡人の俺がよく知っている訳がないんですね。
なるべく誤解がないように自分の体験に絞って書いたらそんなものです。
例えば自分の妻は日頃こう思っていてなんて10年経っても実際には妻が何を考えているかなんて正確にはわかりません。
それを憶測で語れば嘘をつくことになる可能性大ですから。
ここまで書けば実際にそういう体験をする人が現代にもいて、それは幻覚とかではなく実在するし、そういう体験をする人には共通点があることやら、具体的に述べています。
俺はほんと宗教団体とも関わりがない一般人で何か利益を得ようと言ってるのでも、自分が宗教団体を作る気もないので自分上げもせず盛りもせず書いてるでしょ。
新興宗教の教祖は大抵、自身を特別な霊能がある神に選ばれしものみたいに実も無いくせに自身を大きく見せようと盛りに盛る。
実がないのに人を欺いて上げる名を虚名といいます。
彼らの選んだ人生なので仕方ありませんが、罪は恐れて悔い改めた方が良いです。
で、そんな人に騙される人も現世利益に目がくらみ、欲望に従い、欲望を主としているからです。
ぜんぶそうでしょう。
占い、霊媒、新興宗教、、、。
こうすればお金持ちになれる、こうすれば良い結婚相手が、それ悪魔の定番の誘惑手口です。
なんでそんなに金や地位や名声や性欲の対象やら欲しがって心が渇ききっているのかって世界の仕組みを理解していないから。
無価値な幻だというのがわからず錯覚と妄想にとらわれている。
なので世界の仕組みについて説明しないとこの記事もなんでそれが起きたか理解しがたいだろうなと書く訳です。
ではこの辺で。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?